第4話 稲見さんの寮
稲見はいつも、こうして自分のもとに来てくれていたのか――。
帝南大の男子寮。その最寄駅まで二十分。電車に揺られながら、深織は思いを馳せていた。
稲見は一体、どんな気持ちでこの道のりを辿ってきていたのだろう?
もし、菜乃ややっちゃんの心配が正しくて。
もし、『白い狼』の噂が真実で。
もし、稲見が深織が思っていたような
果たして、自分を騙すためだけに二十分も電車に乗って、わざわざ会いに来るのだろうか?
なぜ、そんなことをする必要がある? なんのためにそこまでする?
やっぱり……割に合わない――。
そうだ、おかしい。あり得ない。
大丈夫、大丈夫……と深織は自分に言い聞かせていた。
稲見が何かを隠している――それは事実かもしれない。でも、きっと、菜乃が言うようなことはない。『他に女がいる』……なんてことは絶対に無い。だって……あり得ない。
『着いた?』
ちょうど、寮についた頃だった。まるでタイミングを見計らったかのように、菜乃からメッセージが。一瞬、どこからか見られているのではないか、とすら思って、周りを確認してしまった。
『やっぱり、私も行くよ』
返事をする間もなく、立て続けに菜乃からそんなメッセージが入る。
深織は苦笑してしまった。
家を出る前、このやりとりを何度繰り返しただろうか。よっぽど心配しているのだろう。どれほど、大丈夫、と宥めても、菜乃は『付き添う』と食い下がった。もし、こっそり、寮で待ち構えていたとしても驚かなかっただろう。
『大丈夫だから。稲見さんに会えたら、また連絡するね』
そう菜乃に返信し、深織は深く息を吸う。
菜乃の気遣いは有り難い。菜乃が一緒にいてくれたら、きっと心強かっただろう、とも思う。でも……ちゃんと一人で稲見と向き合いたかった。そうしないと、意味がない気がした。
ゆっくりと息を吐き出し、緊張の面持ちで見据える先には、暗がりにずしりと佇む建物が。簡素で、どこか味気ない4階建ての鉄筋コンクリート造の建物。
建物の周りをぐるりと低い塀が囲んでいて、まるで小さな小学校のようにも見える。門扉のない『校門』のようなそこには銘板もあって『帝南大学 月島寮』と書かれてあった。
改めて、間違いない、と確信し、深織はごくりと生唾を飲み込む。
ここだ。ここに……稲見がいる――はず。
敷地内に足を踏み入れ、アスファルトの道をしばらく歩くと入り口に辿り着いた。懐かしい『職員玄関』を思い出させるそこには、インターホンのようなものも見当たらず。無断で入っていいものだろうか? と躊躇いつつも、恐る恐る大きなガラス戸を開けると、下駄箱のある土間空間が。
ここに来て、ようやく『男子寮』に足を踏み入れた、という実感を得る――。
せっかくの下駄箱は使われている様子もなく、深織の足元には大小デザインも様々な靴がとっ散らかっていた。
「……」
まさに、足の踏み場がない状態。どうしたものか……いや、それ以前に、そもそも、ここまで入り込んでいいものだったのだろうか?
寮の勝手が分からない。
稲見に連絡すればいいだけ……なのかもしれないが――と深織は持っていたスマホに視線を落とす。
菜乃には『前もって連絡したら意味がない』と釘を刺されていた。あくまで抜き打ちだから意味があるのだ、と。稲見が無実ならサプライズになるし、一石二鳥だ、と……。
いまいち、それを『一石二鳥』と言っていいのかは定かではなかったが、一理あるとは思ってしまった。稲見を試すようで気が進まなかったが……。
それに――。
「まだ未読……」
稲見とのトーク画面を開けば『メガネ忘れていますよ』と深織の送ったメッセージで会話が止まっている。既読さえ、ついていない。
講義があるだろう時間帯は別にして。いつもなら、稲見はすぐに返信をくれていた。それが……今夜に限っては、こんなにも反応が無いなんて。
胸騒ぎがする。
稲見の身に何かあった? 帰り道に事故にでも遭った? ――そうじゃ無いと良いと祈りながらも……それ以外の理由を考えるのが怖かった。
――絶対、クロでしょ、『白い狼』!
――どう考えても怪しすぎ。やっぱ、他に女がいるとしか思えない。
菜乃の声が不吉な予言のように脳裏に響き、深織はそれを振り払うように頭を振った。
違う。大丈夫。あり得ない……!
とりあえず、誰かいないだろうか――と辺りを見回し、
「あ……」
ふいに気づく。下駄箱の向かいに小さな受付窓のようなものがあった。
もしかして……と歩み寄り、窓を覗いてみると、中はソファとテレビのある小さな部屋になっていた。これまた物が散乱し、なかなかの散らかりようだ。そんな中、ソファでゴロンと横になっている人影が。
ぽっちゃりとして、無精髭の生えた男性だった。よれたTシャツが捲れ上がって、ふくよかなお腹が出ている。
眠っているようで気が引けたが、終電の時間もある。いつまでもここで突っ立っているわけにもいかない。意を決し、「あの……すみません!」と声をかけると、男性はガバッと起き上がり、
「ん……? あ……ああ……!」
深織の姿を見つけるや、何かを思い出したようにハッとし、いそいそとこちらに歩み寄ってきた。
寮の管理人……? いや、それにしては随分若く見えた。きっと同い年くらいの学生だろう。
「あー……すんません。何スか?」
「えっと……あの、稲見さんに忘れ物……」
あたふたとしながら、バッグに入れておいた眼鏡を取って事情を説明しようとしたのだが、
「ああ、稲見!」とあからさまに男は鬱陶しそうに顔を顰め、「はいはい。そこの角を右に曲がって、最初の部屋。トイレの前の部屋ね」
「え……」
それだけ? そんなもので……いいのか? あまりにあっさりというか。不用心というか。
きょとんとしていると、
「初めて……だよね?」
「は……はい!?」
「スリッパ、そこね」と男は窓から手を出し、すぐ下に置かれたスリッパラックを指差した。「ノックして返事なかったらそのまま入っちゃって。トイレくらいなら、わざわざ鍵閉めて行かないから。廊下で待たれても俺らも迷惑なんで」
「あ……はあ……」
トイレなら鍵を閉めて行かない……? つまり、トイレは部屋にはない? 共同のものしかない、ということだろう。
しかし、さすがに、たとえトイレだとしても返事もないのに勝手に入るのは……と思ったが、『迷惑』と言われてしまうとなんとも言えない。
「で……うん。『泊まらないでね』とだけ一応言っとくけど、その辺は自己責任で。まあ、諸々は稲見に訊いて」
それだけ、と男はピシッと手を挙げ、「こっちはイブに当番回ってきて、一人、寂しく過ごしてるってのによ……」とぶつくさ言いながらソファに戻っていった。
えっと……と深織は面食らって立ち尽くす。寮に入り込む『鍵』になるはずだった稲見の眼鏡を手に握り締め……。
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