第3話 覚悟

 返しに……行く?

 なんて単純な。しかし、それは深織の頭に全く無かった選択肢で。潤んだ瞳を見開き、深織は呆気に取られた。


『帝南大の男子寮なんでしょ。場所は調べられるんだから。寮のルールは分かんないけど、忘れ物届けに来ました〜とか言えばなんとかなるんじゃない?』


 確かに。自然だ。なんとかなる……気がしてくる。


「でも、そんな……急におしかけるなんて迷惑じゃ……いくら、忘れ物を届けるため、て言っても……」

『あのねぇ、深織。好きな子がわざわざ会いに来てくれて、迷惑だ、て言うような男はどっちにしろロクでもないから。稲見がそういう男なら、『白い狼』だろうがなんだろうが別れた方がいい』

「……」


 そういうもの……なんだろうか?

 でも、確かに、もし……今、いきなり、稲見が現れたら自分は嬉しい。飛び上がって抱きついてしまう。

 稲見もそうであってほしい、とは思う――。

 キュッと眼鏡を握り締め、深織は俯き、黙り込む。

 静かに、トクントクン、と鼓動が胸の奥で鳴り響いているのを感じていた。

 稲見に会いに行ける――その大義名分が文字通り、手中にある。何も躊躇うこともない。気負うことはない。菜乃の言う通りだ。『忘れ物を届けに来た』の一言で済む話。それなのに、なぜ……。


『躊躇うのは……深織も疑ってるから――だよね』


 さらりと菜乃が言い放った言葉が、グサリと鋭く胸に突き刺さる。「え……」と無防備な声が漏れていた。


『不安なんでしょ。確かめるのが怖いんだよね。もし、稲見恭也が本当に噂通りの奴だったら……きっと、会いに行ったら――そう深織も分かってるから』


 その言葉に、心臓が凍りつく。

 『終わる』。それがあまりにもいろんな意味を持って、深織に重くのしかかって来て。声も出せずに固まる深織に、菜乃は容赦なく……でも、慈愛に満ちた声色で続けた。


『もうさ、シロクロつけなよ。ちゃんと確かめよう、深織。不安を誤魔化して付き合う関係に、どちらにしろ未来はないよ』


 ああ、正論だ、と思った。逃げ場を絶たれた気がした。これ以上はもう誤魔化せない。菜乃も、自分も……。

 ふうっと浅い息を吐き、深織は瞼を閉じた。

 稲見を疑っている……つもりはない。彼を好きだ、という己の気持ちに迷いもない。ただ、ずっと自信がなかった。そんなにも大好きな彼を……彼の全てを知っている、という自信がなかった。知ろうとしても――、知りたいと望んでも――、体でも心でも、彼に一線を引かれているような感覚があって。それを彼は頑なに越えさせてくれなかったから。そのほんのわずかな距離はいつの間にか得体の知れない違和感へと変わって、深織に付き纏っていた。


 ただ、それでも良い、と思っていたのだ。彼のことを好きだから……。


 でも、逆だったのかもしれない。向かい合わなきゃ。稲見のことを本気で好きだからこそ――。


「ありがとう、菜乃」


 静かに言って、深織はゆっくりと瞼を開く。


「会いに行ってくる。稲見さんに……」


 そして――と深織はその手に抱く彼の眼鏡を見つめて、独りごちるように呟いた。


「伝えてみる。私の気持ち。不安も全部……」

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