第2話 親友の提案

 くろ……? しろ……?

 いきなりの叫びに反応もできずにぽかんとしていると、


『やっぱりおかしいでしょ! イブの夜だよ!? フツー、何もしないで帰る!?』

「えっと……菜乃はどっちなの? 変なことされてないか、て心配だったんじゃないの?」

『それはそれ! これはこれ!』

「ええ……?」

『そりゃあ、クリスマスだし。とうとう、稲見恭也も本性出して変なプレイとか強要してきてないか、て心配だったけどさ。何もしないで帰った、てなったらまた別問題! 何もしなくても……せめて、一緒に一夜を明かすもんでしょ!? まだイブだからね? クリスマスになってないからね!?』

「うん……それはそう、なんだけど……」

『だけど、何!?』と容赦無く、菜乃は畳み掛けてくる。『あんた、今度はなんて言い訳するつもり?』

「言い訳……?」

『言っとくけど……こればっかりは『実は彼、サンタクロースなの』くらいなもんよ、納得できるのは。それ以外は弁解不可だから。どう考えても怪しすぎ。やっぱ、他に女がいるとしか思えない』

「そんな……極端だよ、菜乃。他にだって、いくらでも理由が……」

『寮の門限?』と呆れたように菜乃は一蹴し、『やっちゃんだって言ってたでしょ。帝南はそりゃあ、名門だけどさ……それでも、防衛大でもない。ただの大学の寮だよ。しかも、男子寮。そんなに厳しいとは思えない。外泊だって禁じられてるわけでもないだろうし、門限破ったからって何か罰則があるとも思えない。どうとでもやりようはあるはずだよ』

「……」

 

 自然と視線が落ちる。

 『どうとでもやりようはあるはず』。確かに――と思ってしまった。いや……きっと、ずっとそれは深織の中にあった疑問なのだ。もちろん口には出さなかったし、自覚しないようにもしていた。でも……いつも、それが寂しさに紛れてしこりみたいに心の中に残った。稲見の背中を見送るたびに……。


『そもそもさ……門限って何時なのよ? まだ十一時にもなってないのよ。もう帰った、てことは……門限、十時半とか? 大学生の門限じゃないでしょ』

「あ、それは――」


 ハッとして顔を上げ、ふと、目に飛び込んできたのは稲見の忘れ物で……。

 その瞬間、脳裏をよぎってしまった。去り際の稲見の様子が。

 メリークリスマス――そう言い残して去っていった彼は、ひどく寂しげで心許なくて。今にも消えてしまいそうな儚さがあった。まるで、初めて出会ったあのときのように……。


『深織……? もしもーし……?』

「今日は……違うの」と独りごちるように言い、深織は稲見のメガネを手に取る。「稲見さん、変だったの」

『変……?』

「急に、態度が変わって……帰っちゃったの」


 そうだった――と思い出す。あのとき、まだいつものアラームは鳴っていなかった。

 まるでシンデレラの鐘のような……二人の夢のような甘い時間の終わりを告げるアラーム。門限に間に合う電車の時刻に合わせ、稲見は深織の部屋に来ると必ずセットしていた。今夜もそう。いつも通り、セットしているのを見た。でも……それが鳴るより先に稲見は慌てて帰っていったのだ。


「まだ時間あったのに。眼鏡まで忘れちゃうくらい……慌てて帰っちゃった」

『眼鏡……?』

「大好きです、恭也さん――て伝えたら……帰っちゃったの。


 ぽつりとそう口にした瞬間、ぶわあっと胸の奥からこみあげてくるものがあった。まるで箍が外れてしまったかのように。一気にそれは喉まで焼き尽くすような熱の塊となって湧き上がってきて、ポロリと眼から零れ落ちていた。


「菜乃……」と縋るような声が漏れる。「私、どうしたら……いいんだろう?」


 自分がそんなことを菜乃に訊いたことに驚いた。まるで、自覚さえしていなかった心の叫びがぽろりと溢れた――そんな感じだった。

 稲見を信じたい。信じたくてたまらない。それなのに……違和感が邪魔をする。それは土砂のように次から次へと降り積もって、深織の心を昏く埋め尽くしていく。心が窒息しそうで苦しくてたまらない。早く楽になりたい。でも、どうすれば楽になるのか、深織にはもう分からなかった。

 しばらく、沈黙があった。何か……考え込むような間。菜乃がスマホの向こうで、難しい表情を浮かべるのが目に浮かぶようだった。

 やがて、すっと息を吸う気配があって、


『決まってんじゃん』と菜乃は清々しいほどに晴れやかに言った。『眼鏡、返しに行けばいいのよ』

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