第2話 恭也くん

「あの先輩は……優しい人じゃ無い――てことなのかな」


 ぼそりと……気づけば、そんな弱音のような未練たらしい言葉が漏れていた。


「は? 何言ってんの?」


 隣からつっけんどんな声が聞こえて、眞彦はハッと我に返る。

 しまった――と振り返ったときには、もう時すでに遅し。

 デスクに向かって隣り合って座っていたその人は、スマホ片手に怪訝そうな表情でこちらを見ていた。

 さっぱりとした短髪に、利発そうな顔立ち。黒縁メガネの奥では、冴え渡る叡智が垣間見えるような……鋭い眼光を放つ切れ長の眼が、眞彦を見据えていた。

 全体的にスマートな印象で、堂々たる風格は自信に満ち溢れ、スーツ姿がきっと良く似合うだろう、と思わせる。香水なのだろうか、いつもほのかに爽やかな香りを漂わせ、男の眞彦でも分かるような『色気』というものを常に纏って――眞彦にとって、『大人の男』の指針のような存在だった。

 彼こそ、父方の従兄弟。女医の母を持ち、兄の艇也ていやと共に帝南大学の医学部に進んだ、稲見恭也、その人だ。


「な……なんでもないよ、恭也くん」


 はは、と笑ってそうごまかすが、恭也はまるで本気にする様子も無く、「お前……」とさらに眼差しを鋭くし、デスクに頬杖ついた。


「まだ、あの女のこと引きずってんの? 新村、だっけ?」


 その通りだ――。


「いや、別に、そういうわけじゃ……!」

「せっかく、俺がこうしてわざわざ勉強見に来てやってんのに。女のこと考えてんの? 余裕じゃないの、まーくん」

「まーくんはやめて、て……。俺、もう高三なんだから」


 専業主婦の眞彦の母親が、女医である恭也の母親に一方的な嫉妬心を募らせる中、子供同士は仲良く育った。家も近かったこともあり、眞彦の家で艇也・恭也兄弟を預かることもあり、『まーくん』、『きょうちゃん』、『ていちゃん』と呼び合う仲だった。

 そのうち、艇也が高学年になり、中学受験も本格的になる頃には、そうして二人を預かることもなくなり、会うのも年に数回程度になっていった。


 それが、また恭也と頻繁に会うようになったのは、眞彦が高三になってから。


 あんなにも嫉妬心を燃やしていた眞彦の母親が、なんと恭也に家庭教師を頼もう、と言い出したのだ。眞彦の成績が芳しくなかったことで、手段を選んでいられなくなったのだろう。背に腹は変えられない――といったところか。

 眞彦としても、どこの誰とも知らない家庭教師を雇われるよりも、気心知れた恭也のほうがずっといい。

 もともと帝南大学は眞彦の実家から電車で行ける距離にあり、恭也の下宿先である学生寮も近い。恭也も快く承諾し、恭也の家庭教師採用はすんなりと決まった。


「そう。まーくんももう高三だ」と恭也はふいに顔をしかめて、スマホに視線を戻し、「高三の夏――で、は正直、帝南の薬学部は難しい」


 ぎくりとする。

 恭也が見つめる先にあるのは――そのスマホに表示されているのは、眞彦の模試の結果だ。


「やっぱ……そうだよね」


 言われなくとも、眞彦も分かっている。いや、きっと……眞彦が一番分かっていた。

 自分の学力では帝南には届かない。それはもうそこに動かぬ証拠として現れている。

 それでも、未練がましく志望校にその名前を挙げていたのは、母親がやたらとその肩書きにこだわるからに他ならず。眞彦にとっては社交辞令に近いものがあった。


「別に、帝南の薬学部に尊敬する教授とか、入りたい研究室があるわけでも無いんだろ? それなら、北薬ほくやく大学でもいいだろ。同じ国立だし、場所だってここから近い。あそこの薬学部はいい教授揃ってる、て聞くし、就職率も良い。あと少し数学と英語伸ばせば、お前なら余裕で届く」

「そっか……うん、考えてみるよ」


 正直言えば、眞彦は

 艇也・恭也兄弟に比べられ、物心ついたときから勝手に一方的に競わされ、いつからか『帝南大学の医学部』を目指せ、と洗脳じみたプレッシャーをかけられてきた。それでも、学力が伸びるわけでもない。なんとか妥協点を探って、『帝南大学の薬学部』と落とし所をつけていただけだ。

 だから、こうしてはっきりと恭也に『難しい』と言われ、どこかすっきりとしている自分もいた。代案も具体的に挙げてもらえて、あとは母親に『恭也くんに言われた』とそれとなく打ち明けるだけ。

 北薬ならば、少し、帝南よりレベルは下がるが、きっと母親も納得できる範囲内だろう。


「で……」とスマホをデスクに置くと、恭也は怪しげな笑みを浮かべ、「実際、引きずってんだろ。新村って女のこと」

「な……なんで、その話に戻んの!?」

「あー、まあ、家庭教師として……勉強の妨げになるようなことは把握しとかなきゃいけないからな」

「なんだよ、その屁理屈?」

「実際、悩んでんだろ? 今だって、参考書そっちのけで新村のこと考えてたんだから」

「考えてないよ!」

「じゃあ、『あの先輩は、優しい人じゃ無い、てことなのかな』――てのは、俺の空耳かな?」


 うわあ……と顔が真っ赤に染まるのが自分でも分かった。

 言質を取られてしまったようなもの。もう言い逃れもできまい。

 眞彦は「ああ、もう……さいあくだ……」ともごもご言って、デスクに突っ伏した。

 その隣で恭也はくつくつと笑って、


「悶々と青春してるな、まーくん」

「ほうっといてよ……」

「でも、もったいねぇぞ。そんなロクでも無い女に拘ってても、せっかくの青春を浪費するだけだ」

「へ……」


 そんな――ロクでも無い女?

 ぎょっとして顔を上げ、


「ロクでも無い、て、なんでそんな言い方……? 恭也くん、新村と会ったこともないはずじゃ……」


 すると、恭也はどこか憐れむような笑みを浮かべた。


「まあ、まーくんの話聞いてたら、ロクでも無い女だってくらいは分かるわ」

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