二章

第1話 新村穂香

 稲見眞彦にとって、高校生活最後の夏休み――その初日のことだった。

 忌々しい夏の日差しも傾いて、辺りは朱色に染まり、幻想的な趣を醸し出していた。ときたま、涼しい風が吹き抜け、なんとなく哀愁漂う夕暮れどき。

 自宅のあるマンションに帰りつき、エントランスに入ろうとしたとき、自販機の陰で重なり合う人影を見つけた。

 こんなところで怪しげな……とチラリと見れば、そこにいたのはよく知る人物だった。

 黒髪ボブに、人懐っこそうな顔立ち。ノースリーブのシャツにミニスカートを履いて、いつにも増してそのか細い肢体に目を引かれた。


 新村にいむら穂香ほのかだった。

 新村穂香が男とキスをしていた――。

 

 慌てて目を逸らし、気づかないふりをした。何事もなかったかのようにその場を去りながら……暗澹たる思いが、じわじわとこみ上げてくるのを感じていた。


 ああ、最悪だ――と眞彦は思った。


 今までだって散々、新村から男の話は聞いていた。今の男も誰か知っている。高二のときから付き合っているバスケ部の先輩だ。先輩が大学に入ってから、会える時間が減って寂しい――なんて相談にも乗ったことだってある。それでも耐えれていた。ちゃんと『友達』として割り切れていた。

 それなのに……。


 百聞は一見にしかず、てやつなんだろうか――と眞彦は皮肉めいた自嘲を浮かべた。


 フラれてからもう二年。今さら、突きつけられたような気がした。まだ自分は新村に未練があるのだ、と。


   *   *   *


 新村穂香とは同じマンションで育った。小学校の時の通学班も一緒。物心ついたときから、お互いに存在は知っていた。でも、それだけの関係だった。大して話したこともなく、ただ、毎朝見かけるだけの存在。『友達』だという意識さえ無かった。

 それが変わったのは、中一の頃。

 初めて、同じクラスになった。


 そこから、新村との関係はガラリと変わった。


 二度目の席替えのときだっただろうか。新村と隣の席になった。

 顔見知りではあるが、まともに話したこともない相手。なんとなく気まずくなって黙っていると、


『よろしくね、稲見くん。今さら……だけど』


 猫のように愛嬌のある顔に、悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女に、ぐっと惹かれるものを感じた。

 同じバスケ部だということもあったし、お互い、志望校も一緒――この辺りでトップの進学校を志していた――ということもあったのだろう。


 話し出すと、意外にも気が合った。


 部活の愚痴や勉強法を共有しあい、テストがあるたびに順位を競い合うようになった。

 そうして、席が離れてからも二人の距離はますます近くなり、部活帰りにこっそりマンションの非常階段で落ち合い、暗がりだからこそ口にできるような――大人になって思い出せば、枕に顔を埋めて悶絶しそうな――青臭いことを語り合ったりもした。

 中三になった頃には、眞彦の部屋で勉強会をするようにもなって、


『父親のお兄さんの奥さんが、さ……女医さんなんだよね。それで、従兄弟も二人とも頭いいんだ。だから、ウチの母親がライバル心燃やしちゃってて。それなりの高校に入らないと納得しないんだよね。――結構、プレッシャーていうか……息苦しいよ』


 そんな――誰にも明かしたことのない悩みも、新村にだけは打ち明けていた。

 新村を信用しきっていたのだ。

 新村は眞彦にとって唯一無二の存在で、自分も新村にとってそんな存在であってほしい、と願うようになっていた。


 眞彦にとっての初恋だった。


 このまま、ずっと一緒にいるのだろうと思っていた。一緒の高校に合格して、一緒に通学をして……いつか、ひとつになるのだろうか、なんて先走ったことまで想像したこともある。

 その頃にはすでに初体験を済ませた友人もいて、自慢話と化した体験談を聞くこともあった。そのたび、いつも眞彦が頭に浮かべるのは新村で。自分の初体験の相手は新村なのだろう、と信じて疑わなかった。彼女以外は考えられなかった。


 やがて、冬に入り、受験も真っ只中の時期になると、『勉強会』の合間に、休憩と称して身体を寄せ合い、それとはなしに指を絡めて手を繋ぐようになっていた。


 幸せな時間だった。

 受験のストレスも忘れられた。

 友だちと恋人の狭間のような……その曖昧な関係が心地良かった。


 だから、今はこのままでいいと思ってしまった。

 どうせ、受験勉強で忙しくてデートだってできない。この大事な受験期間中に、好きだ――と伝えて、付き合いたい――なんて言って、わざわざお互いを縛る関係になることもないだろう。『恋人』のレッテルにこだわる必要はない。こうして一緒にいて、触れ合うことができるなら、それだけで今は十分だ――と思っていた。

 晴れて二人で合格してから……そのときこそ、告白しよう、と心に決めていた。


 まさか、フラれるとは思ってもいなかったのだ。


 合格が決まったその日のことだ。非常階段に呼び出し、好きだ、と伝えた眞彦に、新村は少し考えてから言った。


『ごめん。稲見くんは彼氏としては、ちょっと優しすぎる、ていうか……恋人としては見れないかな、て。これからも今まで通り、友だちでいよう?』


 夕暮れ時のことだった。

 新村は相変わらず、人懐っこい笑みを浮かべ、『高校でもよろしくね!』と茫然とする眞彦の両手をぎゅっと包み込むように握った。

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