第13話 メリークリスマス
え……と違和感を覚える間もなく、再び、稲見は深織の体を引き離し、
「ごめん……俺……やっぱり、これ以上は……」
その顔色はすっかり青ざめ、さっきの『躊躇い』よりも強い……はっきりとした拒絶を感じた。
あと少しだと思ったのに。さっきよりも、ずっと――ずっと遠くに稲見の心が離れてしまった気がした。
恭也さん……と呼んだのがまずかった? 付き合っているとはいえ、年上なのに。勝手に下の名前で呼んだのが気に障った? まだ、早かった? 「い……稲見さん」と慌てて呼び直すが、稲見は聞く耳持たずと言った様子で深織を押しのけるようにして立ち上がり、
「今日は……もう帰るね」
「帰る、て……」
ぞわっと不穏な焦燥感がこみ上げてくる。
まだ、終わりの
「稲見さん、待って……!」
慌てて深織も立ち上がり、縋るように稲見を呼び止める。しかし、稲見は帰り支度をささっと整え、あっという間に玄関へ向かってしまった。
こんな稲見は初めてだ。深織の声に振り返りもしないなんて……。
あの夜でさえ、稲見は振り返ったのに。初めて誘った、あの夜。打ち拉がられたような、その寂しげな背中を、思わず呼び止めたあのとき。『コーヒー、一緒に飲みませんか』と唐突に言った深織の声に、稲見は振り返って……その瞬間から、全てが始まって、全てが変わった。恋に落ちたのだ――。
思い出すだけで胸がきゅうっと締め付けられる。
今にも追いかけなければ。その背に追い縋って、自分の持ちうる全てを――『女の武器』と呼ばれるものも――使って、稲見を引き止めなければ。そう焦る心は訴えかけてくるのに、身体が動かなかった。足が竦んで、稲見を追いかけることもできず、凍りついたように深織は立ち尽くした。
怖かったのだ。
無言で遠ざかっていくその背中はあまりに冷たく見えて……「行かないで」と泣きついた途端――、「どうしたんですか!?」なんて問い詰めれば最後――、「別れよう」と言われるのではないか、と思えて。
「ごめんね、深織ちゃん」
玄関で靴を履くと、ようやく稲見は振り返り、いたましいほどに強張った笑みを浮かべた。
深織の編んだマフラーを大事そうに首に巻き、
「今日はありがとう。鍵だけ、ちゃんとかけてね」といつものように言って、稲見は扉を開け、「――メリークリスマス」
まるでとってつけたような。あまりに虚しい一言が、ぽつんと一人佇む深織とともに残され、バタンと扉は閉ざされた。
たちまち、身が裂かれるような寂しさが襲いかかってくる。
今までとは違う。恋い焦がれるような寂しさでは無い。己の指先だけで紛らわせられるようなものではない。そんなものでは埋まらない穴がぽっかりと心に空いて、言い知れない虚無感に吸い込まれそうだった。
いったい、何が起きたのだろう?
せっかくのイブだったのに。ずっと楽しみにしていたのに。イブの夜は、もしかして……なんて妄想だってしていた。実際に、そうなるものだと一瞬でも期待した。あと一歩で、稲見と繋がれると思えた。
それなのに……。
恭也さん――なんて唐突に呼んだから? 名前で呼ばれるのが嫌だった? それとも、体の関係を求めたから? しつこく迫られて鬱陶しかった?
「稲見さん……」
大丈夫なのだろうか――とぽつりと不安がよぎる。
まさか、これで終わり……? このまま、お別れになって、二度と会えないなんてことになったら……。
さあっと全身から血の気が引いて、へにゃりと深織はその場に崩れるように腰を下ろした。
そのときだった。
視界の端にあるものが見えて、深織はハッとしてそちらを見た。
テレビとの間にあるローテーブル。その上には、リモコンともう一つ――見慣れたものが置かれていた。
「あ――」と息を呑む。「稲見さんの……」
――そう、そこにあったのは、稲見の物だった。さっき深織が外してそこに置いておいた稲見の黒縁眼鏡だ。
すっかり忘れていた。稲見が眼鏡を外していたことも。その眼鏡をそこに置いていたことも。
きっと、気持ちが昂ぶっていたせいだろう。お互いに……。
そっとそれを手に取る。
ちらりとレンズを覗けば、確かに、向こう側の景色がそのまま見えるだけ。まるで、ただのガラスがはめられているかのように……。
「本当に……ニセモノだったんだ」
ぼんやり呟きながら、深織は切なげに微笑んだ。
こんな忘れ物をして、慌てて去っていくなんて――。
「やっぱり、シンデレラみたいだ……」
途方もない虚しさの中、深織は稲見の眼鏡を見つめて力無く独りごちた。
*これにて一章が終わりということで。次から二章となります。眞彦編です。
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