第12話 躊躇い

「ど……どうしたの!?」と稲見は目を剥き、動揺もあらわに声を裏返す。「ダメだって……さすがに、そんなことされたら、本当に我慢できなくなる!」

「だから……してるんです」


 顔を真っ赤に染めながら、深織はじっと上目遣いで稲見を見つめた。媚びるようなそれになっているのは重々承知で。きっと、無意識ながら本能的に……。己の中の『女』の部分がそうさせているのだろう、と思った。


「私も……なんです」とまるで酔っ払ったような甘ったるい声で言う。「私も稲見さんが……稲見さんだけが好きなんです。稲見さんを好きになってよかった、て心から思います。だから……もっと、この関係を進めたいんです。稲見さんに……私の全てを貰ってほしいんです」


 かあっと稲見の顔も赤く染まるのがはっきりと分かった。まんざらでもない……様子だが。その表情は強張り、悦びよりも緊張や戸惑いといったものが色濃く浮かび上がっていた。


「いや……それは、俺だって……深織ちゃんと……」とすっかりたじろぎながら、稲見は視線を泳がせ、「でも、こういうことは……もっとお互いのことをよく知ってからじゃないと……」

「じゃあ、教えてください!」と肩を掴む稲見の手を押し返すように、深織は身を乗り出す。「稲見さんのこと……全部、知りたいんです! 心でも身体でも……」


 まっすぐに稲見を見つめ、必死に訴える深織だったが。稲見の眼には、チカチカと忙しなく色を変える眩いテレビの光が映り込むだけ。そっぽを向いて、深織を見ようともしていない。

 こんなにも近くにいて。心はしっかりと重なり合って。身体同士も繋がりたいと訴えかけているのに。それでも、繋がれない。あと一歩が遠い。無防備というほどに、自分は心も身体も許しているのに、稲見は決して踏み込んでこようとしない。

 なぜ……と深織は稲見を縋るように見つめた。

 なぜ、こんなにも躊躇うのだろう――?


「俺は……ダメなんだ」


 ふと、稲見は痛ましいほどに顔を歪めてぽつりと漏らした。


「やっぱり、そういうことは……もっと、ちゃんと深織ちゃんにふさわしい男になってからじゃないと……」


 まるで独り言のように。稲見が零した『ふさわしい男』――その言葉に深織の中でピンと来るものがあった。

 もしかして……いや、間違いない。あの噂は事実なのだ、と深織はその瞬間に悟った気がした。稲見恭也は本当に噂通りの『白い狼』で……そして、彼はきっとを悔いている。だから、深織を抱けない。『白い狼』のままでは深織を抱いてはいけない、と思っている。


「私、気にしません!」気づけば、深織は力強く言い放っていた。「稲見さんの過去とか……そういうの、全然気にしません。私にとって、今の稲見さんが全てです。今、目の前にいる稲見さんが好きなんです。――稲見さんがふさわしいかどうか、私が決めます!」


 ハッと見開かれた稲見の眼が、ようやく、深織を見た。

 言葉が届いた気がした。


「だから、お願い」と深織は切なげな声で言って、倒れかかるように稲見にそっと体を寄せた。「今日は……帰らないで」


 肩を掴んでいた稲見の手が緩んだ。さっきまで感じていた躊躇いも薄らいで、稲見の心が揺らいでいるのをはっきりと感じるようだった。

 あと一押しな気がした。あと一押しで通じ合える気がして……。

 深織は稲見の肩に顔を埋めながら、とっておきの一言を――ずっと言うタイミングを計っていたその一言を――意を決して口にした。


「大好きです。


 その瞬間、びくんと稲見の体が震え、肩を掴むその手がぐっと強張るのを感じた。

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