第11話 疼き

 不意打ち――だった。

 あまりにも唐突な敬語。急に改まって、恭しく思いの丈を告げられ、まるでプロポーズでもされたみたいで……。

 涙もぱっと弾け飛び、顔が真っ赤に染まるのが自分でも分かった。

 あまりにも嬉しくて。あまりにも愛おしくて。稲見への想いが胸いっぱいに満ち満ちて苦しいほどで。

 私もです――なんてたった一言も、声にならなかった。


「逃げたのも……さ、別に新村が彼氏と一緒にいるのを見たくなかったからじゃない」と深織の答えを待つこともなく、稲見は視線を逸らして続けた。「ただ、気まずかっただけなんだ。あと……深織ちゃんの前で余計なこと言われたくない、ていうのもあって……」

「余計なこと……」


 その瞬間、ぱっと脳裏に新村の姿が蘇った。別れ際に見た最後の彼女の姿。途方に暮れたように佇みながら、それでも縋るように稲見の背を見つめ、皮肉めいた言葉を口にしていた。まるで捨て台詞のように――と思い出しながら、


「『眼鏡が似合ってない』……とかですか?」


 稲見の顔色を窺うようにおずおずと言うと、稲見は眼鏡の向こうでハッと目を見開いてから、「ああ、まあ……それもそう、かな」と曖昧な笑みを浮かべた。


「ごめん。実は、これ、伊達……でさ。学校ではしてなくて……」

「なんで、謝るんですか? 伊達眼鏡なんて……謝らなくていいですよ」


 クスッと笑って、深織は稲見の眼鏡に手を伸ばし、そっとそれを外した。

 「へ……」ときょとんとする稲見の顔をまじまじと見つめながら、眼鏡をローテーブルに静かに置く。

 そういえば、稲見が眼鏡をしていないところは初めて見る。

 ちょっと気弱そうにも見える、優しげな目許があらわになって。くっきりとした二重の眼をまん丸にして唖然とするその表情は、いつにも増してぐっと幼く見えた。

 ああ、やっぱり、可愛いな――なんて思ってしまって。胸がきゅんと軋んだ。


「確かに……印象、変わりますね」


 やんわりと言って、稲見の頰を両手で包み込むように覆う。

 また、新しい一面を知った気がして嬉しい……のとともに、少し苦い気持ちになった。を新村は見てきたんだな、と思うと……自分の知らない稲見の姿を他の女性が知っていると思うと……もやっとした嫌なものが胸の奥で渦巻く。欲張りだと思うけど。わがままだと思うけど。稲見の全てを知っているのは自分で在りたい――なんて考えてしまうのだ。


「私は……眼鏡、似合ってると思いますよ。でも、素顔も好き。眼鏡の稲見さんも、素顔の稲見さんも……どっちの稲見さんも私は好き――大好き」


 『好き』と口にするたび、その想いが溢れ返りそうになって。ああ、今すぐ伝えたい……と思った。

 どれほど自分も稲見を想っているのか。どれほど自分が稲見を欲しているのか。余すことなく全て、稲見に感じて欲しい――そんな衝動が身体の奥で疼き出すのを感じていた。早く、早く……とそれは急かすように突き動かしてくるから。


「稲見さん、私――」


 その言葉も言い終わらぬうちに、深織は稲見に顔を寄せ、「へ……」と戸惑いを漏らすその唇に自分のそれを重ねていた。

 いきなりだったからだろう、最初は深織のキスにだけだった稲見も、やがて、熱っぽい吐息が漏れ始める頃になると、ぬるりと舌を差し込んできて、激しく深織の唇を求めてくるようになっていた。

 テレビからは、相変わらず煩いほどの笑い声が聞こえてきていた。『メリークリスマス!』という掛け声とともに楽しげなクリスマスソングが流れる中、辺りには「ん……ちゅ……」とねっとりとした生々しい水音が響き出す。

 熱く濡れそぼったものが口の中を蹂躙し、舌に執拗に絡みついてくる。そのなんとも官能的な感覚に全身が蕩けそうになる。頭が酔っ払ってしまったみたいにぼうっとして、身体が火照り出す。


 いつもだったら……このまま、稲見のスマホのアラームが終わりを告げるまで、別れを惜しむように抱き合い、舌を絡め合わせるだけ、だったが。


 今夜はそれだけじゃ収まりそうになかった。我慢できそうにない。

 お腹の奥底がじんじんと熱を帯び、疼いて仕方ない。いつも稲見を想っては、寂しさに濡れるそこが――稲見の去った部屋で、一人、自分の指で慰めているそこが――今夜は稲見自身に満たしてほしい、と切実に訴えかけてくるようで。

 それを鎮めて欲しくて――、その一心で――、深織は稲見と唇を重ねたまま、稲見に跨るようにしてその膝の上に座っていた。

 刹那、もぞっと硬いものがに当たるのが分かってハッとする。稲見も自分を求めているのだ、とその実感が快感となって全身を突き抜け、歓喜に身体が震えるようだった。

 もっと……もっと、繋がりたい……と狂おしいほどのもどかしさがこみ上げてくる。

 緊張と高揚に激しく波打つ鼓動を感じながら、深織は震える手を稲見の下半身へと伸ばし、カチャリとベルトに触れた――そのときだった。


「んん……!?」


 塞いだ唇の奥で、稲見がくぐもった声を漏らすのが分かって、


「深織ちゃん……!?」


 咄嗟に深織の肩を掴んで、稲見は深織を引き剥がした。

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