第9話 告白
マグカップに淹れたての熱いコーヒーと冷たい牛乳を半分ずつ。そこに砂糖を少し足して、クルクルとかき混ぜる。やがて、白黒の渦がまろやかな茶色へと変われば出来上がり。稲見の好きなカフェオレだ。
ふわりと立ち上る湯気とともに漂う甘い香りに、深織は満足げに微笑み、
「できましたよ」
玄関脇のキッチンから、マグカップを手にリビングへと入る。すると、
「俺も。つけ終わったよ、スマホリング」
わいわいと賑やかなテレビの音が響く中、ゆったりとした声が溶け込む。ローテーブルに向かって胡座をかいて座り、稲見が深織のスマホを手に穏やかな笑みを浮かべていた。
いつも通り――に思える。
いつも通りの光景だ。テレビにはバラエティ番組が流れ、その前で稲見がくつろいでいる。カフェオレを渡せば、稲見は嬉しそうに「ありがとう」と微笑み、大事そうにそれを口に含む。
まるで、何事も無かったかのような……安穏とした時間。それが、今は不気味に思えてしまった。これでいいんだろうか、と違和感のような胸騒ぎを覚える。
まだ、引っかかっているのだ。広場での稲見の豹変ぶり。『新村』と呼び、稲見が……この稲見が冷たく突き放した女性のこと。
結局、あのあと……スマホリングは深織の部屋でつけよう――と稲見は言い出し、残りのイルミネーションもろくに見ずに広場を後にした。まるで、逃げるように。いや……きっと逃げたのだ。
稲見は『新村』という女性から逃げたのだ。
なぜ……? なぜ、逃げる必要があった? 彼女とどんな関係なのだろう? どうして、彼女は自分のことを――稲見にカノジョという存在がいることに――あんなにも驚いていたのだろう?
広場を去って、深織のアパートまで向かう間――徒歩十分ほどの道のりを、稲見と寄り添って歩きながら、深織はじわじわと首が閉められていくような息苦しさを覚えた。稲見と一緒にいるのに、安心感なんて無くて。会話にも身が入らない。疑問と不安ばかりが募って、暗い翳が頭の中を覆い尽くしていくようだった。
今もそう。
稲見の隣に座りながら、居心地の悪さを感じていた。こんなこと、今まで無かったのに。怖くてたまらない。稲見が――いや、稲見を疑ってしまいそうな自分が怖い。
だからこそ、訊けずにいた。
さっきの女性は誰? と。たった一つのその問いを口にできずに居た。どれほど気になろうと、それを訊いたら……まるで稲見を疑うようで。まるで、『白い狼』の噂をわずかでも信じるようで。そんなことは、何があってもしたく無かった。
がはは、と豪快な笑い声がテレビから聞こえてきていた。深織の好きなお笑い芸人のクリスマス特番だ。ずっと楽しみにしていた。稲見と一緒に観よう、とメッセージで約束していた。でも、今は顔を上げる気にもならず、膝の上でぎゅっとスマホを握り締めながら俯いていた。稲見がつけてくれた指輪型のスマホリングをじっと見つめるようにして……。
「深織ちゃん……」
不意にコトッとマグカップをテーブルに置く音がして、稲見が静かに口を開いた。
「ごめんね。イルミネーション……途中で帰っちゃって」
思わず、ぎくりとしてしまった。弾かれたように顔を上げると、稲見が神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「気になってる……よね? 新村のこと」
深織はハッと息を呑んだ。目を見開き、言葉を失くす。あからさまなほどの反応。もはや、図星だ、と言っているようなものだった。稲見は、だよな、とでも言いたげな昏い笑みを浮かべて視線を落とし、
「ありがとう、訊かないでいてくれて……。二人きりになって、落ち着いてから……と思って、俺もずっと新村のこと黙ってた。待たせちゃってごめん」
あ……と深織は目を丸くする。
そうだったのか、とほんの少しだけ、胸が軽くなる感じがした。それで、ずっと何も言ってくれなかったんだ。隠そうとしていたわけじゃなかったんだ――。
ちょうど、テレビがCMに切り替わったときだった。騒がしいほどだった笑い声も効果音もぷつりと止んで、稲見がすうっと息を吸うのが聞こえた。
「新村は……中学からの友達で――」
ゆっくりと慎重に……言葉を選ぶようにそう言って、稲見は切なげにも見える熱を帯びた眼差しで深織を見つめてきた。
「深織ちゃんに出会う前……俺、新村のことが好きだったんだ」
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