第8話 お姉さん

 ハッとして振り返れば、


「稲見くん……だよね?」


 そこに立っていたのは、すらりと背の高い女の子だった。黒髮ボブで、くりんとした大きな目が特徴的な甘い顔立ちの子だ。ベージュのダッフルコートからは、ワインレッドのミニスカートがちらりと覗き、そこからほっそりとした脚が伸びている。おそらく生足なのだろう、イルミネーションに照らされ、まるで黄金に輝くような、白く艶かい太ももに深織はぎょっとしてしまう。大胆というか……寒そう、というか。今日も、タートルネックのセーターに膝下まであるプリーツスカートを着、上からチェスターコートを羽織った――いつも控えめで、極力露出を避ける深織とはまるで真逆のファッションだ。

 誰だろうか。稲見くん――と呼ぶからには、稲見の知り合いなのだろうが……。

 稲見をちらりと見る。

 稲見は振り返る様子も無く、彼女に背を向けたまま、凍りついたように固まっていた。その横顔は見るからに青ざめ、明らかに様子が変だ。思いがけない出会いに驚いた……というよりはまるで怯えているようにさえ見えて。

 ぞっと嫌な予感が背筋を走るのを感じた。


「稲見……さん?」


 こみ上げてくる不安を紛らわすように、深織はふっと笑みを作って、稲見に呼びかける。


「お友達……みたいですよ?」


 しかし、稲見は「行こ――」とだけ言って歩き出した。完全に彼女の存在を無視するように――。


「え、稲見さん……!?」

「稲見くん!」


 深織と彼女の声が重なり、背後から慌ただしくコンクリートを叩くヒールの音が迫ってきて、 

 

「なんで、無視するの!?」


 絡めた二人の腕をまるで引き剥がすように、彼女は稲見の腕を後ろから掴んで、ぐいっと引っ張った。


「こんなとこで何してんの? この人、誰!?」

新村にいむらには関係無いだろ!」


 ハッと深織は息を呑んだ。

 ――振り返るなり、稲見は彼女の手を振り払い、怒号を上げたのだ。それは聞いたこともないような荒々しい声で。そこには見たこともない切羽詰まったような表情が浮かんでいて。

 まるで別人のようだった。

 思わず、稲見から距離を取るように後退ると、稲見はハッとしてこちらを見た。


「あ……深織ちゃん……」

「『みおりちゃん』……!?」


 彼女は驚愕もあらわに甲高い声を響かせ、きっと深織を睨みつけてきた。


「お姉さん、なんなんですか?」

「お……お姉さん!?」


 確かに、彼女のほうが若々しい……というか、幼いくらいに見えたが。いきなり、『お姉さん』と呼ばれるとは。面食らって唖然としていると、「カノジョだよ」と隣で静かに稲見が言うのが聞こえた。


「か……かのじょ?」


 敵意のような――彼女から感じていたまがまがしいオーラがふっと消えた瞬間だった。

 まるで魂でも抜けてしまったかのように茫然として、彼女は稲見と深織を見比べ、「信じ……らんない」と力無く呟いた。


「この人……が? いつ……なんで……私、全然、知らな……」


 あまりにもショックそうで……見ているだけで、胸が痛むようだった。

 いったい、なんなんだろう? 彼女は何者なんだろう? なぜ、自分の存在にこんなに驚いている? どうして、稲見は彼女に冷たく当たるのだ?

 途方に暮れたように立ち竦む彼女を憐れむように見つめ、何もできないことをもどかしく思いつつも……もやっと重たくどす黒い煙のようなものが胸の奥で立ち込めていくのを感じていた。

 おそらく、だが。ただの友達では無いのだろう、と思った。


「ごめん、新村……」ふうっとため息を吐くと、稲見は落ち着いた声で言って、痛々しいほどに引きつった笑みを浮かべた。「今、デート中……だから、また今度。――行こう、深織ちゃん」


 するりと深織の手を取ると、稲見は彼女の返事も待たずにくるりと彼女に背を向け、歩き出した。


「行こうって……」


 戸惑いながらも、何をどうしたらいいかも分からず……深織も手を引かれるままに歩き出す。

 どうしようもない胸騒ぎがしていた――。

 後ろ髪を引かれる思いで、ちらりと後ろを見やれば、彼女はまだそこでじっと立っていた。困惑の真っ只中に置き去りにされ、縋るような眼差しでこちらを――いや、稲見の背を見つめながら。


「稲見くん……どうしちゃったの?」


 問いというよりは、どこか皮肉っぽく――責めるような声で彼女が言うのが聞こえた。


「その眼鏡も……らしくない。全然似合ってないよ」


 まるで捨て台詞みたいに。その表情に悔しささえ滲ませて、彼女が投げかけたその言葉にも、稲見は振り返ろうとはしなかった。

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