第5話 ほら

「おお……」


 隣で、稲見が感嘆の声を漏らすのを深織は聞き逃さなかった。

 得意げになって、ふふ、と深織はほくそ笑む。

 

 駅ビルの裏――そこにはちょっとした広場がある。いつもは閑散として物侘しいだけの広場だが、クリスマスの時期になると、所狭しとイルミネーションが張り巡らされ、サンタやエルフ、トナカイなどの光るオブジェがずらりと並ぶ。さながらテーマパークの一角だ。

 まさに圧巻の景色……なのだが。大々的に宣伝されているわけでもなく、駅ビルの裏側ということもあるのだろう、そこまで人でごった返すことも無い。イブの今夜も然り。ちらほらとカップルが見受けられるのみ。知る人ぞ知る穴場だった。

 とはいえ――ここの『表側』といえる駅は、深織のアパートの最寄り駅だ。いつも電車で深織のもとに訪れる稲見がこの広場を偶然見かけてしまう可能性は充分にあった。そこで深織は、前もって『絶対に、駅ビルの裏には行かないこと』と稲見に言い含めていたのだ。全ては、このときのために――。


 ちらりと横を見やれば、イルミネーションの光が映り込んだ眼鏡のレンズの奥で、稲見の瞳もまたキラキラと輝いているのが分かった。呆然とするその横顔はぐっと幼く見えて、まるで少年のよう。

 たまらず、胸が一気に熱いもので満たされる――。

 年上なのに。二十歳を超えた男性だというのに。可愛い、なんて思ってしまう。

 胸の奥で疼くものを感じて、深織はにわかに笑みを浮かべながら、ぎゅっと稲見の腕を両腕で抱きしめるように絡ませた。


「約束、ちゃんと守っててくれたんですね」

「え、約束って」ハッとして、稲見はこちらに振り返る。「ごめん。なんの約束……?」

「『決して、駅ビルの裏には行かないこと』」


 しかめっ面になって、わざと怪談話でもするようにおどろおどろしい口調で言うと、稲見は「ああ、その約束……」と白い歯を覗かせて笑った。


「もちろんだよ。そりゃあ、人間だから。『行くな』と言われたら行きたくなるものだけど……深織ちゃんとの約束を破るようなこと、俺はしないよ」

「です……よね」噛み締めるように相槌打って、深織は稲見の肩に頭をもたれかけた。「分かってました。――分かってます」

 

 ほら……と心の中で誰にともなしに深織は呟いていた。

 ――ほら、稲見さんはこんなにも紳士だ。嘘なんて吐くような人じゃ無い。


 直感のようなものではあったけど、それを感じ取ったから……彼が『白い狼』なんて呼ばれるような人ではない、となんとなくだけど分かったから……、彼に声をかけたのだ――と深織は思い出す。

 あの夜――初めて出会った合コンの夜、『勝手なことしてすみませんでした』と深織に頭を下げ、暗がりに去りゆく彼の背中は自信無げで、心細くも見えて……とても『白い狼』のものとは思えなかった。あまりに寂しそうで。放っとけなくて。気づけば、彼を呼び止めていたのだ。コーヒー、一緒に飲みませんか――と。


 男性を誘ったのは、それが生まれて初めてで。今思い出すだけでもむず痒くなってくる。よくできたな、と我ながら驚く。そして、よく誘った、と自分を褒めたくもなる。当時は、なにを血迷ったことを――と菜乃にこっぴどく叱られたものだが、そのときも今も、間違ったことをした、なんて微塵も感じることは無かった。


 だって、しっくりくるのだ。こうして稲見と一緒にいると――。

 この瞬間が過ちなはずが無い、と稲見と寄り添ってるだけで自信を持てる。


「じゃあ……見て回ろうか。大丈夫? 寒く無い?」


 そう訊ねる声も優しさに満ちて。深織は手の中のホッカイロをさらに強く握りしめ、稲見にぺたりと寄り添いながら「大丈夫です」とふわりと微笑んだ。

 安堵したようなため息を漏らすと、稲見は歩き出し、「それにしても……」と切り出した。


「深織ちゃん、全然酔ってる感じ無いね」

「え……」


 突然言われて、深織は目を丸くする。


「なんですか、急に?」

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