第3話 疑念

 稲見との約束の九時が近づき、菜乃にグチグチ言われつつも、やっちゃんに別れを告げ、深織は飲み屋を後にした。

 楽しげなクリスマスソングが流れる中、煌びやかなイルミネーションで彩られた道のりを、駅へと向かって歩いていた。菜乃の言葉を思い出しながら……。


 ――『ヤリチン野郎』にとっては、あんたの初々しさが物珍しいのよ。本命もセフレも他にフツーにいて、ただ、あんたとはそういう純情プレイを楽しんでるだけ……だったら、どうすんの?


 自分が『浮気相手』じゃない確証はあるのか――その問いに答えの出せない深織に、菜乃は痺れを切らしたように神妙な面持ちでそう捲し立てて来た。


 今までなら、そんなことを言われても気にしていなかっただろう――。


 深織には分かっていたから。菜乃がそこまでムキになるのは、彼女がを感じているからだ、と。


 深織が稲見と付き合うことになったきっかけは合コンで。その合コンに深織を送り出したのは菜乃だ。もし、深織に何かあれば――稲見に傷つけられるようなことがあれば――それは自分のせいだ、と菜乃は思っているのだろう。だからこそ、ほんの些細な疑惑も許さない。必死になって、稲見の尻尾を掴もうとする。深織が傷つく前に……。


 それが分かっていればこそ、今までは、菜乃に何を言われても平気だった。動揺することも無かった。どんな嫌疑も跳ね除けられた。菜乃を安心させるためにも、稲見への誤解を解かなくては、と奮い立つだけだった。


 でも――今回は別だった。


 菜乃だけでなく、やっちゃんにさえ、稲見を『怪しい』と言われてしまったこともある。ただ、それ以上に……稲見に一度も、キス以外は手を出されていないこと――その事実が、稲見の疑いを濃くする『証拠』と取られたことがショックだった。深織にとって、その事実は……その事実こそが、稲見は『白い狼』なんかじゃないという『確証』だったのだから。


 もちろん、稲見を信じる気持ちに変化は無い。彼を疑う気は微塵も無い。好きだという気持ちが変わることは無い。それなのに――植え付けられた不安が、確かに心の中に根を張って、芽を生やそうとしているのを感じる。


 だめだ、と切り替えるように頭を振って、深織はばっと顔を上げた。


 ちょうど、駅に辿り着いたときだった。

 駅ビルまでが色とりどりのイルミネーションでクリスマス仕様に飾られ、辺りは眩いばかりの輝きに満ちていた。そんな中、駅前の広場には大きなクリスマスツリーが佇み、それに誘われるように、駅から流れ出てくる人波がツリーの周りに集まり、人だかりを作っている。

 そして――。


「あ……」


 思わず、そんな気の抜けた声が漏れていた。

 まるで輝く星々でも身に纏っているかのような――数えきれないほどの電飾で彩られたツリーの下、犇めき合う人混みの中で、を見つけたのだ。ひょろりと痩せた長身のシルエット。ツリーなどまるで目に入っていないかのように、ふらふらと彷徨うように歩いては、きょろきょろと辺りを見回している。まるで見えない団扇でも振っているかのように、パタパタと右手を忙しなく振りながら……。

 何をしているんだろう、と不思議に思って、クスリと笑みがこぼれる。

 気づかれないよう、人混みに紛れて、そろりとその背に忍び寄り、


「誰かお探しですか?」


 こっそりとそう訊ねると、彼はびくんと弾かれたように振り返り、深織を見るや、ホッとしたように微笑んだ。


 パーマがかった重たい印象の短い黒髪に、黒縁メガネ。フード付きのパーカーにジャケットを着て、下は黒のスキニーパンツ。特に目立った特徴も無い、純朴そうな顔立ちは、菜乃の言葉を借りれば『フツメン』というやつらしく、初めて写真を見せたとき、菜乃は『これがあの『白い狼』? 地味っていうか……どちらかと言えば、羊、て感じね』と、どこか肩透かしたようにぼやいていたものだが。そういう……どこか気弱そうな印象さえある、その顔もまた深織には甘く感じて好きだった。そして、なにより――、


「カノジョ探してたんですけど――今、見つけた」


 少し恥ずかしそうにそう言って、メガネの奥でふっと細める目は優しげで。たまらなく胸をくすぐられるのだった。

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