第2話 不信感

「や……ヤリチン野郎!?」


 ぎょっと目を丸くして、やっちゃんは訝しむような眼差しでこちらを見てきた。


「深織、ヤリチン野郎と付き合ってんの!?」

「ち……違うから! 稲見さんはそんな人じゃ……」

「違くないでしょ!」慌てて弁解しようとした深織の声を、容赦無く菜乃が横からぴしゃりと一蹴し、「『稲見って男にだけは近づくな』って合コン行く前に散々言っておいたのに! まんまと落とされおって〜!」


 まだ一杯しか飲んでいないはずなのに、すっかり飲んだくれたようにおいおいと嘆く菜乃。ああ、やはり、こうなるのか――と深織は渋い表情になって閉口した。

 そう――確かに、菜乃には散々忠告されていたのだ。

 もともとは、菜乃のバイト先の先輩とその彼氏がお互いの知り合いに声をかけ、セッティングした合コンで、菜乃が参加する予定のものだった。男側のメンツは皆、帝南大と聞き、菜乃も張り切っていたものだが、直前に――今は別れてしまったが――彼氏が出来、深織に代理の話が回ってきた。そのときに――『荒療治じゃ』と押し売りの如く強引に誘われたときに――注意事項として挙げられたのが、『稲見恭也』だった。


 ――いい、深織? 合コンに来るメンバーに、『稲見恭也』って男がいるらしいんだけど……そいつ、大学で『白い狼』とか呼ばれてるんだって。ひどい女たらしで、浮気は当然。セフレも取っ替え引っ替え。大学でも有名な『ヤリチン野郎』らしいの。くれぐれも、そいつにだけは近づかないように! まんまと『お持ち帰り』なんてされるんじゃないわよ。いいわね!?


 それが、初めて聞いた『稲見恭也』という男の人物像だった。

 カルチャーショックというか……それでなくても、色恋というものから距離を置いてきた深織にとって、『浮気』も『セフレ』も、まして『ヤリチン野郎』なんて無縁の単語で、そんなひとがいるのか、と度肝を抜かれた。

 それからも、合コンまでの間、菜乃は会うたび、『稲見恭也には気をつけろ』と何度も釘を刺してきた。いつも真剣に、揶揄うような様子も無く。深織のことを心から心配しているのだ、と痛いほど伝わってきた。


 それなのに――合コンから一ヶ月も経たずに、深織は稲見と付き合い出したのだ。

 

 菜乃が怒るのも最もだろう、と思う。

 菜乃にしてみれば、『あんなに忠告したのに、なんで……!?』と腹立たしい心持ちだろう。深織自身、合コンのあと、稲見と会うたび、罪悪感のようなものを感じていた。菜乃を裏切っているような気分さえあった。


 でも――。


「何度も言っているけどね、菜乃」ぎゅっと膝の上で拳を握りしめ、深織は冷静な眼差しで菜乃を見据えて口火を切る。「落とされたんじゃなくて、私が勝手にの。稲見さんは噂で言われるような人じゃない。紳士で優しくて素敵な人で、だから――」

「まだ、そんなこと言ってんの!?」と目を剥き、菜乃は凄まじい形相で言い返してきた。「完璧に騙されてるんだって! 気づかぬうちにもんなの。それが『女たらし』の手口なの」

「そんなんじゃないから! 騙されてるのは菜乃の方だよ。『白い狼』とか……そんな噂、きっと誰かが稲見さんへの嫌がらせで流した根も歯もない嘘に決まってる!」

「ああ、そうね〜。元カノやセフレがキャンパスにうじゃうじゃいたら、そりゃあ、誰か一人くらい嫌がらせをする奴もいるかもね〜?」

「うっ……」と一瞬、言葉に詰まってから、深織はおっとりとしたその顔をきりっと引き締め、気を取り直して言い返す。「元カノとかセフレとか言う人たちだって、ホンモノか分からないよ。稲見さんを陥れようと偽ってるのかもしれないし……」

「元カノだ、セフレだ、と周りにわざわざ言いふらして陥れようとしてる女がウジャウジャいる、て時点でおかしいでしょ! それだけ女に恨み買ってる、てことじゃん」

「あう……」


 これには深織ももう言い返す言葉もなく、黙り込んだ。

 論破――というやつだろう。確かに……と思ってしまった。

 火のないところに煙は立たない――。

 稲見が『ヤリチン野郎』だという噂が存在していることは、動かしようのない事実で。となると、その原因となる言動を何かしら稲見がしてきた……と考えるのが妥当――なのだろう。

 でも、どうしても深織には信じられなかった。その噂の『白い狼』と恋人である稲見が繋がらないのだ。優しく穏やかで、いつも深織を気遣ってくれる……そんな稲見が、陰で『浮気』をしまくり、『セフレ』なるものを侍らせ、深織を裏切っているなんて、とても想像がつかない。となると、考えられることは一つ――。


「じゃあ……」と意を決して深織は口を開き、菜乃を力強く見つめて言い放つ。「稲見さんは心を入れ替えたんだよ!」


 菜乃はしばらくきょとんとしてから、


「はあ!? なに言ってんの!?」

「前は確かに、噂通りの人……だったのかもしれない。でも……今は違うから!」

「なんで、そんなことが言えるわけ? 今は『ヤリチン野郎』じゃないって根拠は何!?」

「それは……だって、付き合ってから一度も、私、稲見さんにされたこともないし――!」


 つい、我を忘れ……稲見の汚名を晴らすのに必死になり……そんなことを声高らかに口走っていた。

 菜乃とやっちゃんが唖然としてこちらを見ているのに気づいて、たちまち、恥ずかしさがこみあげてきて、深織は真っ赤になる顔を隠すように俯いた。

 辺りにはクリスマスソングが流れ、わいわいと騒がしい飲み屋の中、深織たちのテーブルだけ静まり返り、ややあってから、「深織――」とやっちゃんがおずおずと言う声が聞こえた。


「『付き合ってから一度も』って……付き合ってどれくらい、だっけ?」


 てっきり、ここぞとばかりにやんややんやと揶揄われるのかと思いきや。なぜ、急にそんなことを――?

 戸惑いつつも、顔を上げ、「もう三ヶ月……だけど」と答えると、


「三ヶ月も……何もされてないの?」


 いつも朗らかなその顔を険しくさせ、やっちゃんは低い声で訊いてきた。


「ハグとかキスは……してるけど、それ以上は何も」


 きょとんとしながら答えると、「いやいや……」と隣で菜乃が鼻で笑いながら言って、


「よく部屋に泊まりに来てるんでしょ? それで、キスしかしてこないって……」

「泊まり――じゃないよ」ハッとして、深織は訂正しながら菜乃に振り返る。「部屋に遊びに来てはくれるけど、泊まったことは一度も無いの。寮の門限が厳しいから、て……いつも慌てて帰っちゃうから」


 すると、二人はさらに表情を曇らせ、顔を見合わせた。やがて――視線で何かやり取りでもするような沈黙があってから――二人は深織のほうに顔を向き直し、


「やっぱ……さ」と苦々しく、最初に口を開いたのは菜乃だった。「怪しい、て。稲見さん」

「な……なんで?」

「うん。私も……話聞いてたら、心配になってきたわ」

「やっちゃんまで……?」

「私も大学の友達で寮暮らしの奴いるけど、普通に外泊してるよ。別に防衛大とかでも無いんだから。外泊届さえ出せば、自由に泊まれるでしょ。門限に遅れても、ちゃんと連絡すればいいだけだろうし。慌てて帰るのって……なんなんだろう、て思っちゃうな」

「それは……」

 

 胸がズキリと痛むのが分かった。

 まさに、痛いところを突かれたような――そんな心地だった。

 深織も、やっちゃんと同じことを心のどこかで思っていたところがあった。不信感とまでは行かないまでも、違和感は覚えていたのだ。

 たとえ、週末で……次の日が休みでも、稲見は欠かさず寮に帰って行った。どんなに甘い時間を過ごそうと、稲見はアラームまでかけ、23時前には必ず帰って行くのだ。稲見を疑う気は無くとも……噂なんてデタラメだ、と信じていても……なぜ、そこまでして寮に帰りたがるのだろう、という疑問は頭にチラついていた。

 反論も浮かばず、口ごもる深織に、菜乃は心苦しそうに顔をしかめながら、「それに……さ」と重々しく口火を切った。


「三ヶ月もキスだけで……それ以上、全く手出してこない、て『我慢』の域超えてるって。なんか変だよ。童貞ならまだしも――相手は『ヤリチン野郎』だよ」


 まるで、陽気なクリスマスソングが他人事のようだった。ずしりと不安に胸が重くなる。

 息が詰まるような張り詰めた空気が漂う中、菜乃は逡巡するような間を開け、


「深織さ……自分が『浮気相手』じゃない、て確証はあんの?」


 静かに……でも、厳しい口調で、そうぽつりと言った。

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