一章
第1話 白い狼
「かんぱーい!」
弾んだ声とともに、カランと小気味いい音を鳴らして、色とりどりの飲み物が入ったグラスがぶつかった。
わいわいと賑やかな飲み屋の一席。テーブルの上には、とりあえず――と頼んだサラダとパスタが大皿に乗って置かれている。
「久しぶりだね〜。夏休み以来だから……四ヶ月ぶり?」
ぐいっとビールを勢いよく呷ってから、そう生き生きと口火を切ったのは、向かいの席に座る
高校を卒業し、遠方の大学に進んだ彼女は、大学が長期休みになると、こうして地元に帰ってきて、『飲みに行こうぜ!』と突然、前触れもなく招集をかけてくるようになった。
もう大学に入って二年目の冬休み。高校を卒業してから会うのはこれで四度目となる。
「やっちゃんと会うとさ、『あー、もうそんな時期か』って思うわ。なんか渡り鳥みたいだよね」
爽やかなオレンジ色のカクテルを片手に、隣でくつくつ笑ってそんなことを漏らしたのは、少しきつい印象の顔立ちの女性。
彼女もまた高校時代からの友人で、地元に残った仲間――
高校の時から茶色がかった長い髪は、大学に入ってさらに明るくなって、今はミルクティーのような甘い色合いのブロンドヘアに変わっている。
「渡り鳥かよ」とカラッと笑ってから、ふいに、やっちゃんは表情を曇らせ、訝しげにこちらを見てきて、「てかさ……私から誘っといて何だけど、こんな日に、私なんかに付き合ってて良かったわけ? 二人とも彼氏いるんでしょ?」
こんな日に――やっちゃんが思わせぶりにボカしたその言葉の意味は、考えずとも分かる。店内に――いや、おそらく街中で――シャンシャンシャンとしつこいほどに流れ続けるお馴染みのBGMがこれでもかと知らしめてくる。
「もちろんよ」
愚問だ、とでも言いたげに、隣で菜乃がしたり顔で言い、
「高校時代からの親友が、はるばる飛行機で帰省してくる、て言うんだから。いくらでも予定空けるでしょ。たとえ、クリスマスイブでも関係ないわ」
「ああ、別れたのか」
きっぱりと冷静な声色で言い放つやっちゃん。菜乃はしばらく静止してから、「さて……次、なに頼む?」とメニュー表を眺め始めた。
やっちゃんは「なぜ、隠すんだ……」と心底腑に落ちない様子だったが、呆れたようにため息吐いて、「それで……」とこちらに視線を向けてきた。
「深織は――?」
急に話を振られ、深織は「え……」とぎくりとしてしまった。ちょうど、グラスを口許へ運んでいたとき。両手で包み込むようにして持っていたグラスの中で、氷がカランと音を鳴らして転がった。
「まさか……深織まで、もう別れた、なんてことは……」
渋い表情でおずおずと言うやっちゃんに、深織は我に返ったようにハッとして、「別れてない、別れてない!」とあたふたと首を横に振った。
「今日、友達と飲むんだ、て言ったら、そのあとに会おう、てことになって……だから、ちょっと早いんだけど、九時過ぎに私は抜けるね」
「ああ、そう……なんだ」とやっちゃんはホッとしたように表情を和らげる。「別れてないなら良かったわ」
「ごめんね、やっちゃん。せっかく帰ってきてるのに……」
「なんで謝んの。全然良い――どころか、逆に申し訳ないくらい。なんかカレシさんに悪いことしちゃったな」
「悪いこと? なんで?」
「いやあ……だって、せっかくのイブの夜なのに、私のためにデートの時間ズラしてくれた、てことでしょ? ノリでイブに誘っちゃったわけだけど、ここにきて罪悪感が……」
胃痛でもあるかのように、「うう……」と呻いて胸を押さえるやっちゃん。深織は「そんな……大丈夫だよ!?」と慌ててグラスをテーブルに置き、身を乗り出した。
「気にしないで、やっちゃん! 私だってやっちゃんに会いたかったし、それに、稲見さんも用事があるらしくて……」
捲し立てるようにそこまで言ったときだった。さっきまでの『罪悪感』とやらはどこへやら――「へぇ……?」と急にやっちゃんはキラリと目を光らせ、にんまりと微笑んだ。
「稲見さんって……言うんだ、愛しのカレは?」
「へ……」
たちまち、かあっと一気に顔が熱くなる。
そういえば――やっちゃんには、『彼氏ができた』とは伝えていたが、それ以上のことは……名前も馴れ初めも、何も教えていなかった。
となると、当然、ここからの流れは決まっているわけで……。
「稲見さんって、どんな人なの!? どこでどう出会ったの!? アプローチはどっちから? どんなところが好きなの? さあさあ、酒の勢いで全て吐いてしまえ〜。難攻不落のあの深織を落とすなんて……いったい、どんな人なのか、実はずっと気になってたんだよね〜!」
「難攻不落って……」
どういう意味だ――と言いたいところだが、なんとなく、言わんとしていることは分かってしまった。そんなんじゃいつまでも彼氏できないわよ、と菜乃に何度も叱らられてきたのだから……。
中学、高校と、それなりにデートの誘いやアプローチと思しきものを受けたことはあった。しかし、いつも相手が好意を匂わせると……『下心』らしき気配を滲ませると、途端に怖くなって退いてしまうのだった。たとえ、相手が――菜乃の言葉を借りれば――『いい雰囲気だった』相手でも……。大学に入ってからもそんな状態は続き、恋人はおろか、まともに男性とデートもしたことは無かった。そんな深織を見かね、菜乃が『荒療治じゃ』と半ば強制する形で合コンを持ちかけてきたのが四ヶ月前のこと。そこで出会ったのが――。
「稲見
突然、隣から淡々と読み上げるように言う声が聞こえた。
ハッと息を呑む。
ひやりと背筋が冷えるような悪寒を覚えた。
大学で『白い狼』とか呼ばれてるんだって――と薄ら笑みを浮かべて言った、四ヶ月前の菜乃の声が脳裏をよぎった。
「ちょっと、菜乃!? その話は、もう……」
慌てて振り返り、言いかけた深織の言葉は、「帝南大!?」というやっちゃんの取り乱した声に遮られた。
「すごっ……!? めちゃくちゃ頭いいじゃん!? 東大とか、京大とか……その辺でしょ!? しかも、医学部って……玉の輿!? すごくない!?」
興奮気味に息巻き、「しかも、『白い狼』って……」とやっちゃんは夢中で続け――、そこではたりと言葉を切った。
お酒も回ってきたのか、赤らんだ顔をぽかんとさせ、
「『白い狼』って……なに?」
菜乃と深織を見比べるようにして呟いた。
なんでもない、と言いたくてたまらなかった。気にしないで、そんなのデタラメだから、て……。でも、菜乃がそれを許すはずはないこともよく分かっていた。
覚悟を決めるように――、諦めるように――、ぐっと口を噤む深織を横目に、菜乃は頬杖つきながら、呆れと苛立ちを滲ませた表情で口を開いた。
「バイト先の先輩の彼氏さんが帝南大なんだけど……その人が言ってたらしいの。稲見恭也は『白い狼』とか呼ばれてる、医学部の『ヤリチン野郎』だって」
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