大学で『女たらし』と有名な年上の彼は、付き合ってみたら紳士で一途な人でした。(と彼女は思ってるけど、本当はそのカレシは年下の超真面目な男子高生です。)
立川マナ
プロローグ
蕩けるようなキス、てこういうものをいうんだろうか、と
彼女の柔らかな唇の感触に、全身の筋肉が絆されるようで――。その甘い味に脳まで溶かされるようで――。貪るように何度も唇を重ねるたび、身体中が熱くなって、今にも蕩けてしまいそうになる。
いや……もう、蕩けてしまいたい、とすら思えてくる。このまま蕩けて、彼女と混ざり合いたい、なんて気持ちが狂おしいほどの高揚感と共にこみ上げてくる。
ああ、この人が大好きだ――と全身に
それは天にも昇るような、至福のときで。
ぎゅっと強く彼女を抱き締め、唇を重ねながら――ずっとこうしていたい、といつも願う。このまま、他の何もかもを……『現実』を忘れ、夢のような彼女とのひとときに酔いしれていられたら、と思う。
しかし、そんなことが許されるはずもなく――無情にも、『夢』の終わりを告げる
ハッと我に返れば、テレビからは聞き覚えのある芸人の話し声と馬鹿笑いが聞こえてきていた。
彼女の好きなお笑い番組だ。
二人でラーメンを食べ、デートがてら夜景を見ながら散歩してから、彼女の部屋に来たのが十時前。それから、一緒に観よう、とテレビの前に陣取り、まったり駄弁りながら座って観ていた……はずなのだが。
いつから、観ていなかったんだろう。そんなことすら、思い出せない。気づけば、テレビも電気もつけっぱなしの明るく賑やかな六畳一間の部屋で、隠微な水音を響かせながら、彼女と抱き合ってキスをしていた。
まあ、こうなるのはいつものことで。だからこそ、アラームをセットしていたわけだが――。
名残惜しい気持ちを押し殺し、ぐっと彼女の背を一層強く抱き締めてから、最後にそっと優しく触れるようなキスをして顔を離すと、
「ん……」と彼女が鼻にかかったような切なげな声を漏らし、瞼を開いた。「もう……電車の時間、ですか?」
とろんと微睡むような眼が、また色っぽく見えた。
艶やかな長い黒髪に、雪のように白い肌。おっとりとした顔立ちは、品良く優しげで。『透明感』という言葉がここまでしっくりくる人は他にはいないだろう、と眞彦は初めて彼女に会ったとき思った。
そんな彼女が恍惚とした表情を浮かべ、物欲しそうに見つめてくる様は、なんとも言えない色香があって、たまらなく掻き立てられるものがある。
せっかく離れたというのに、再び、彼女を胸の中に戻して、モコモコとしたパジャマに身を包んだそのか細い身体をこれでもかと掻き抱きたくなる。
無論、そんなことをしていれば、電車に間に合わなくなるのは明らかで――。必死に衝動をぐっと腹の底に抑え込み、眞彦は「ああ、そろそろ行かないと」とローテーブルに手を伸ばし、煩く喚き続けるスマホを取った。
「今日はありがとう、深織ちゃん」とアラームを止めて、スマホをポケットにしまう。「じゃあ、俺は帰るから。鍵だけかけて……」
立ち上がろうとしたときだった。ぐいっとTシャツの袖を引っ張られ、
「やだって言ったら……?」
へ――と戸惑いが声になるより先に、美織が胸に飛び込んできて、ぎゅうっと抱きついてきた。身を委ねるように身体を預け、その豊満な胸が当たるのも構わず――いや、きっとわざと押し当てながら……。
ごくりと眞彦は生唾を飲み込んだ。
「こ……こんなことされると、帰れないんだけど……」
「分かってます」と少し恥ずかしそうにいうのが耳元で聞こえた。「だから……してるんです」
ああ、まずい――と眞彦は思った。
これが色仕掛けというやつなら、効果抜群だ。見事に理性が揺すぶられているのを感じる。下半身にじわじわと主導権が集まろうとしている。
そりゃあ、眞彦だって帰りたくない。このまま、ここにいたい、と心から思う。でも、できないのだ。深織が好きだからこそ……彼女の恋人でいたい、と思えばこそ、これ以上、ここにいるわけにはいかなかった。
身を切られる思いで、「ごめん――」と絞り出したような声で言う。ぐっと深織の両肩を掴んで引き離すと、
「うちの大学の学生寮、門限厳しいから。十一時には帰らないと……」
頰が引きつるのを感じながらも、笑みを取り繕ってそう告げた。いつものように――。
すると、深織はしゅんと肩を落とし、「そう……ですよね」と諦めたように呟いた。そして、落胆の色を浮かべつつも、やはり愛おしそうに眞彦を見つめ、
「いつも慌てて帰っちゃうんだな。なんだかシンデレラみたいですね、稲見さんって」
そう冗談っぽく言いながら、クスリと淋しげに笑った。
* * *
深織の部屋を出て、アパートの外廊下を歩いていると、ポケットの中でスマホが震え出すのが分かった。
ハッとして取り出すと、そこに表示されている名前にぎくりとする。咄嗟に背後を振り返って、そこに深織の姿が無いのを確認し、
「母さん? どうかした?」
スマホを耳に当て、努めて落ち着いた声でそう訊ねる。すると、『ああ、眞彦』といつも通りの呑気な母の声が返ってきて、
『今、まだ予備校?』
「ああ……うん。帰るとこ……だけど」
『そう。受験勉強お疲れさま。――それで、悪いんだけど、帰りにコンビニで卵買ってきてくれる?』
「卵……? こんな時間に?」
『あんたとお父さんの明日のお弁当用よ』
「ああ、そっか。いつもありがとう。買って帰るよ」
『お願いね、眞彦。じゃあ、気をつけて帰ってくるのよ』
なんの疑いも持っていない様子で――眞彦が予備校にいるものと信じ込んだまま――母親はぶつりと通話を切って、しんと辺りは静まり返った。
スマホを下ろすと、暗い外廊下に一人立ち尽くす。
よかった――とホッとしながらも、ずしりと何か重たいものが鳩尾の奥に沈んでいくのを感じていた。
きっと、これが『罪悪感』というやつなのだろう。
間違っていることをしているという自覚はちゃんとある。それを正さなければ、という気持ちもある。でも……。
――なんだかシンデレラみたいですよね、稲見さんって。
さっきの深織の言葉が脳裏をよぎり、つい、苦笑が漏れた。
言い得て妙だな、と思った。
境遇も状況も全然違う。そもそも、シンデレラのそれは魔法で、自分のこれはただの嘘だ。
でも、心境なら似ている気がした。
シンデレラだって騙すつもりはなかったはずだ。ただ、バレたくなかったから逃げたんだ。魔法が解けて、元の自分に戻ったら――自分の正体を知られたら『終わる』と思ったから。王子にフラれると思ったから逃げたんだ。俺も同じだ――と胸の中でひとりごちて、眞彦はおもむろに振り返った。
外廊下の一番奥にある角部屋。まるで、夢と現実を仕切る境界のような……ぴたりと閉じられたそのドアを見つめ、「きっと……」と眞彦は呟いていた。
「俺がただの高校生だって知ったら、きっと深織ちゃんは――」
だから……と眞彦は唇を噛み締め、顔を前に向き直す。後ろめたさとか後悔とか、伸し掛かってくるもの全てを振り切るような思いで乱暴に足を踏み出し、エレベーターへと向かった。
だから――言えない。卑怯だと思っていても、最低だと分かっていても、眞彦は深織を失いたくなかった。
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