第9話【ついに開講ですよ】


 今までの学生生活の中で、ダントツに長かった春休みが開ける。

 昨日までの、春と梅雨を通り越した夏みたいな熱さはどこへやら。今日は快晴にも関わらず、少し肌寒かった。

 さすがに半袖で行くのは辛いので、クローゼットから引っ張り出してきた薄い長袖Tシャツの上に緑色のシャツを羽織り、下はそろそろ捨てなきゃと思って数ヶ月経つ色褪せたジーパン。

 今日の講義は2コマからなので、過分な睡眠と十分な余裕をもって、俺は借りている部屋を出た。


 小中高校では7時前に起こされ、急いで支度をしていたが、当時苦痛でしかなかった事も、生活リズムはしっかりしてたんだなぁと痛感させられる。

 そりゃ大学は毎日朝早くから行かなくても良い上、夜更かししても誰からも咎められない1人暮らしなんて続けたら、生活リズムなんて容易く崩壊する。

 ふわぁ……と、欠伸を噛み殺しながら車の往来が緩やかな道を歩いていく。

 食パンの買い置きを忘れていたので、道中のコンビニで買った総菜パンと、飲むヨーグルトを胃に入れながら、のんびり30分ほど。

 1週間ぶりにやって来た、大学の正門にある桜並木は、最近の天候に報われていたことも幸いし健在だった。


 目的の講義室の前に付いてところで、スマホで時間を確認してみる。まだ1コマの時間だったが、講義室は灯りが付けられておらず、薄暗い。

 音もしないし曇りガラス越しから人影が見えないことから、きっとこの講義室は使われていないのだろう。

 

「なら今度からもっと早く来てもいいかな」


 数日前、担当の教授から『席の指定はしません。開講までに登校するように』とだけ、学生用のサイトを通じてメッセージが送られてきていた。

 講義室が空いたままなら早く来てゆっくりすることもできるし、良い席を確保することもできる。

 万が一もあるので、1コマ目終業のベルのが鳴るのを待ってから講義室に入ると、やはり空きだったようで、中には数人の学生がいただけだった。

 ワンピースにカーディガンを羽織り、アクセサリーを付けてきっちりキメている女子もいれば、ジャージ姿の男子が机に突っ伏していたりと、各々私服だからこそ学生たちに統一性はない。


 席もバラバラで新たに入室してきた俺に気にする素振りなどなく、俺もまた彼ら彼女らに倣い適当な席に陣取る。

 中列の窓際よりの長机、その内側。

 偏見だが後列は上級生、それと少しばかりチャラ付いた連中が集まりやすく前列は孤立しやすい。もう一度言うが俺のド偏見である。

 間もなくして1コマを終えた、大所帯がなだれ込んできた。

 暇つぶしにスマホを弄りながら、耳を澄ませる。


「次の教室ってここだよね?」

「はぁー……授業時間、高校の倍とか長っ」

「電気点いてないよ」

「でも人いるし……」

「ほらみんな入ってるし、やっぱここだよ!」


 戸惑いとあどけなさを十二分に孕んだ、フレッシュな話声。

 この講義は何回生からでも受けることができる一般講義。しかも1回生は1コマに必修講義が組まれているので、自然とこの講義を取ることが多い。

 まだキャンパス内、ひいては大学について深く知らず不安を募らせる1回生が固まって移動するのは至極当然なこと。

 1回生と思しき学生たちは、グループ単位で程々の間隔を空けて、中央の長机に満遍なく席に着いていく。

 俺もそうだったが席が自由の場合、1年はだいたい中央の前列から中列に行く。大学に入ったばかりということで意気込み、あるいは緊張が表れているのか。それに加え、今彼ら彼女らから見る俺のように、上級生と思しき学生を避けるようにした結果なのかもしれない。

 2コマが始まるまであと3分。

 ほぼ全ての受講生が入室し、気づけば静かだった講義室も談笑で満ちていた。


「隣、いいですか?」


 不意に背後から声をかけられる。

 女子の声だ。

 学年、学科問わず受けられるこの講義。自ずと受講生は多く、知らない仲の学生とも隣席になることもある。

 断る理由もなく了承する。


「ああ、いいぞ」

「失礼しまーす」


 と、スペースを空けず真横に座する卯月。

 まっ、知ってる仲の奴が隣にくることもある。

 というより卯月とは大方の講義を合わせているので、いない方がおかしいくらい。

 あえて気になる点を挙げるとするなら……。


「なんで詰めてるんだよ」

「隣いいか聞いたじゃないですか」

「こういうのは、だいたい1つ空けるんだよ」

「あらら、そうだったんですか。私1年だからまだ知らなくて」


 絶対知っててやってるだろ。

 分かりきった嘘を卯月は抜け抜けと宣う。


「ならコレで学べたな。ほら、1つ横にズレてくれ」

「ヤです」

「…………」

「もう、センパイったらそんな仏頂面にならなくても。冗談ですよ、冗談」

「はぁ……」


 タハハと笑って1つ左へ移動する卯月を見てると、溜め息がついでた。

 多少のダル絡みも嫌いではないが、如何せん相手が卯月だ。度々高校の頃の彼女とのギャップにやられて、脳にかかる負担が大きい。


 これ以上考えるのもメンド……必要ないので、俺はスマホの画面を落とし講義の準備を始める。

 まだ教材は届いておらず、足元に置いている軽いリュックの中に入っているのは筆記用具とルーズリーフのみ。まぁ今回が開講1発目だから、すら必要ないかもしれないが、体裁を保つポーズみたいなもんだ。


「皆さん、こんにちは。春学期2限のこの講義を受講して頂きありがとうござます。この講義では――――」


 そうこうしていると、始業のベルが鳴り担当の教師が簡単な挨拶を始めた。

 予想通り初講ということで教師は、これから1時間ほど講義の概要を解説した後、早めに講義を終える旨を伝える。

 

「こちらでレジュメも用意してますが、必要であれば適宜メモを取るように」


 前列から順に配布されたレジュメに沿って説明される内容は、2回生の俺からすれば極々普通のことだった。

 春学期に行われる講義は4月の半ば今日から7月末までの計15回。折り返しのタイミングに出される課題レポートと、最後に行われる考査テストは評価の比重が大きいので必ず受けること。

 あとは各回に提起されたテーマを面白そうに話していく。

 この各回のテーマが受講生の興味を掻き立てるものであれば、出席率も自然と高くなろう。だからこそ工夫を凝らし、力の入れられた説明は聞いていて飽きない。

 教師の話に耳を澄ましていると、不意にチョンチョンと左肘を突かれた。


「どうした?」

「いえ特に」


 分からないところでもあったのか? と思い小声で訊いてみるが卯月はフフッと目を細め微笑むだけ。

 何がしたいんだコイツ。

 解説を続ける教師に視線を戻すと、またしばらくして卯月に小突かれる。


「だからなんだって」


 イラっと……ではないけど、卯月の行動の心意が読めずモヤモヤした気持ちを込めて、少し声色を強める。

 しかし今度も卯月は、口元を両手で押さえた上からでもわかるくらい、口角を上げてこちらを見つめてくる。


「あんまり邪魔するなら次からは……」

「その、違うんです」

「違うって何が?」

「ですから……」


 勿体ぶるように、否。ゆるむ口角を頑張って制御して、


「こうしてるとセンパイと同級生になった気持ちで嬉しいなぁと思いまして」

「………………は?」


 自分でも驚くほど間抜けな声が出た。

 同級生? 俺と卯月が……。

 ゆっくりと時間をかけてその言葉の消化に努める。

 俺と卯月は1つ年が違う。今さら何を。

 呆れるほど当たり前の事実が、頭の中に浮かび上がる。


 第一、俺たちは学年が違ったから、互いを知るきっかけができたのだ。

 きっと……いや、断言できる。俺たちが同学年だったら、高校3年間会話は疎か名前すら知らない仲であろう。

 だけど卯月の言葉に、柔らかくはにかんだ顔に感化され、ほんの一瞬。100パーセントあり得ない、ご都合主義も良いところのIFを夢想してしまった。

 今のような距離感で同級生として、卯月とより長く同じ時間を過ごしていたらと。

 もしそんなことが世界があったら俺は――――。


「同じ講義を受けるだけで同学年じゃない」


 そんなことあり得ないはずなのにな。

 僅かに高鳴った鼓動に内心舌打ち。目を細め感情を鎮める。

 女子に笑顔を向けられただけで顔が熱くなるとは、我ながらとんだ陰キャだ。

 卯月麻衣コイツはちょっと親しいだけの後輩。それ以上でもそれ以下でもない。


「まぁまぁそう言わずに、センパイ留年してみません?」

「するわけないだろ」


 そんな軽いノリで留年しダブってたまるか。



**********



【あとがき】


 拙作をお読み頂きありがとうございます。

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