第40話 殿下の毎日(少しお怒りです)


 そこは王太子の執務室の一角だった。

 彼は書類の束が積み上げられた机の向こう側から、書類をひとつひとつ、確認しながらその向こう側にある来客用のソファーに腰かけているはずのフレンヌに問いかける。


「それでどうなのだ! 宝珠が無くても結界は作用するのか? ええ、フレンヌ?」


 いつになく、王太子は強い口調で新しい婚約者に詰問した。


「お待ちを、殿下。いまその行方を調べさせておりますから」

「行方だと? そんなものさっさと捜し出せ! あのような巨大な物をおいそれと持ち出せるはずがないだろう」


 黒髪の、狼の獣人の少女は、申し訳なさそうに顔を伏せ、しょぼんと耳を伏せてしまっていた。


「申し訳ございません‥‥‥」

「お前が謝ることはないんだ。持ち出しを許した神殿側の管理が悪いのだからな」

「はい、それは‥‥‥ええ。そうですね」


 しかし、その盗難が明らかになったとき、宝珠には神殿側だけでなく、宮廷魔導師たちの数名も同席していた。

 彼らは宝珠の性能や機能を詳細に調べるために、数年前からその場に在籍を許されたフレンヌの兄弟子たちだった。


 王国の秘宝ともいっていい重要なそれを、あっさりと持ち出されたのでは、神殿も宮廷魔導師側も沽券に関わる。


「しかし、奇妙なことだ。どうやって持ち出したのかは、もういい。それよりも、結界の問題だ。そちらはどうなっている? 宝珠なしで、これまで通りの環境を維持できるのか?」


 まだ若い少年は、寝たきりの父親である国王に代わって、政務の多くを取り仕切る羽目になっていた。その周囲は大臣たちを始めとする文官。軍隊や警務を司る武官たちによって固められていたが、早々に次代の国王を建てる必要があった。


 カトリーナを追い出し、国内の政治にまで手を伸ばそうとしていた神殿の勢力を一掃したはいいものの、今度は肝心な結界の維持が問題となろうとは。


「分かっていたこととはいえ、人工のものでは成果が挙げられないのか。それとも、まだ既存の結界から新しい結界に切り替えがうまくいっていないのか。いったい、どうなんだ。フレンヌ!」

「はっ、はい!」


 狼少女は肩をびくっと震わせ、そっと顔を上げた。

 書類のせいで見えない王太子の方角に顔を向ける。


「女神様を国教から外さなければ、その恩恵を受けることができる――といいますか。これまで張られていた結界はそのまま流用できると、考えてきました」

「それで?」

「はい、ですから。宝珠はその制御装置です。それが無ければ、外側の結界は作動しません。というよりは、これまで通りなのか‥‥‥元の極寒へと戻っていくのか、それは分かりません」

「なるほど」


 と、ルディは手元にあった書類を呆れたように持ち上げて、後方へぽいっと放り捨てた。

 後ろに控えていた文官が慌ててそれを拾い集める。

 少しの沈黙のあと、ルディはやれやれと首を振り、それから椅子から立ち上がり、フレンヌの隣に移動した。


 その手には、二つのグラスと一本のウィスキーが握られている。


「まあ、飲め。何もかもうまくいくとは思っていなかった。古い物を全部無くそうとすれば、弊害は起こるよ。仕方ない」


 グラスの半分ほどまで酒を注ぎ、フレンヌに渡してやる。

 彼のその仕草には優しさが備わっていて、それはカトリーナには向けられなかったものだった。


「殿下‥‥‥いただきます」


 一気にウィスキーを飲み干して「けほけほ」とむせかえるフレンヌの背中を、「おいおい、いきなりすぎだろ」とルディは心配しながらさすってやる。


 居合わせた文官や従僕たちは「どうして獣人なんかに優しくするのか」と理解できない顔をしていたが、ルディは愛情を惜しみなく彼女に注いでいた。


「実験は成功したのです‥‥‥。国内のみならず、帝国領のなかでも、パルテスの土地でも、それは確認できました。宝珠がなくとも、魔導のみでどうにかったのです。でも‥‥‥」

「いい。お前のことを疑っていない。カトリーナは可哀想な女だった。父親に利用され、いるかどうかも不明瞭な女神の代理人なんて業を背負わされて、聖女なんて本当かどうか理解できない役割を担っていた」

「ええ。そうですね、殿下」


 フレンヌは同意し、うなずいた。

 しかし、彼女の中にあった思いと王太子の感覚は少しだけ、ずれていた。

 フレンヌは以前、カトリーナが聖女の能力を使い、記憶の断片を見て知ったように、王太子を手に入れるために、カトリーナが邪魔だった。


 ルディは神という大義名分を利用して、国を私物化しようとする神殿の動きが嫌だった。それを排除し、ついでに幼なじみの婚約者を、寝たきりという環境から救えるならそうしてやりたいと願っていた。


 もっとも、彼の場合、まず初めに神を疎み嫌う考えから、それは始まったのだが‥‥‥そこにフレンヌを王妃にしてゆくゆくは権力をその手に握りたい、ガスモンの欲望も混じって奇妙な三角、四各関係が展開されてきた。


「女神様がいるなら、父上も、もうすこしましな回復を見せるだろうに」


 仮に老衰だとしても、国王が意識不明の重体に陥るにはまだ時期が早かった。あと数年、せめてルディが二十歳になるまでは待ってほしかったと、王太子は考えていた。


「教皇様と父が会談をしたと、兄弟子が言っていました」

「ガスモンが? どういう風の吹きまわしだ。そんなことに手を回すなら、さっさと新たな制御装置でも作ればいい物を‥‥‥」


 どうも最近の宮廷魔導師長の動きはよろしくない。それは乳母のジャスミンも同じであの二人は影でこそこそと何かを策謀し、動いているようにも思える。その辺り、フレンヌは知っているのか、知らないのか。

 王太子はその点で、自分の新しい婚約者を信じきれずにいた。


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