第38話 聖女と剣(どこに刺しましょう?)

 カトリーナはまだラクーナ内に移動を始めていない、野営地に残っていたエミリーを呼ぶように神殿騎士に伝えた。


 侍女がこの場にくるまでに、軽く三十分から一時間はかかるかもしれない。

 言いつけていた用事がある程度棲んでからでいい、と付けくわてたから、もうすこし遅くなるかもしれない。


 それまので間、大勢がいた会議室はがらん、としてしまい、人のぬくもりで温まっていた石壁の室内は、冬のような寒さを感じさせた。


 カトリーナの肩が寒さにぶるっと震える。

 体力を回復したとはいえ、まだ寝たきりでいたころの負債は残っていた。

 彼女は動いていなかったのだから、誰よりも真っ先に体力がそがれていく。それは当たり前のことだった。


「おい、すまんが。暖房を入れてくれ」


 娘の顔がベール越しにゆっくりと色を失っていくのが分かる。

 大神官は扉の向こうにいる騎士の一人に、そう申し伝えた。


「聖女様が寒くて死にそうだ」

「は? はい、ただちに」


 そう言うと、神殿騎士は慌てて人のいる方に走って行った。

 しばらくして、数人の女官たちとともに彼が戻ってくる。

 手には抱えられる大きさの香炉のようなものを持っていた。


「それは?」

「お湯を注ぎ、毛布で巻いて抱き締めて寝る寝具です。会議が長くなるのであれば、まずはこれで温まっていただこうかと」

「寝たきり、じゃないがな。うちの娘は。まあいい、感謝しよう」


 聖女、といえば床に伏している。

 それがこの神殿における常識だった。

 彼女はこの世に置ける女神の寄越した奇跡にして、もろくも崩れやすい存在。

 そんな認識はたった数週間では変わらない。


 大神官は娘のことを今、そこまで弱っているとは思っていなかった。

 普通の身体が弱いが動ける少女、程度には回復していると見ていた。

 とはいえ、周りの優しさに包まれることは心が温まる。


 人の情けが身に染みる。


 カトリーナが生まれる前から連れ添っていた亡き妻と、なんどもこうした寒い冬を過ごしたな。


 そう思い出してしまい、「すまんな」とつい、かいがいしく世話をしてくれようとする女官や神殿騎士たちにねぎらいの言葉をかけた。


「は? とんでもない! 我らこそ、このような冬の寒さに怯えなくなった王国の現実に感謝してもしきれないのです。極寒の冬に、まともな暖房も取れなかったあの貧しかった日々‥‥‥朝になれば家族の誰かが冷たくなって隣に横たわっていることを目撃したことも数度ではありません。いまは本当に‥‥‥天国のようなものなのです。ありがとうございます、大神官様。このイスタシアに女神様を、春をもたらしてくだったあなた様は我らの命の恩人です」

 ええ、まったくその通りです、と同意する周囲の人々の目には感謝こそあれ、憎しみ何てものはまったくなかった。


 ジョセフはそんなことはない、これはみんなの普段の行いが良いからだ、と彼らの生き方、信仰心を誉めた。


 大神官としてそれは当たり前の振舞だったのかもしれない。


 場が暖かくなり、女官たちが「これもどうぞ」と用意して去った暖かい昼食と飲料と、お菓子の数々。

 彼らが去っていくまで、大神官は普段はあまり浮かべない笑顔を止めることができなかった。


「英雄、なんて言われていましたわね」


 娘は――カトリーナはそんな父親が尊敬されて誰からも好かれ、聖女以上に見える敬意を払われている様を、あまり目にしたことがない。

 ここ数年、顔を会わせる回数が少なかったとはいえ、本神殿での彼はここまでの笑顔で誰かと対峙することはなかったのだ。


 記憶にあるだけで言えば、母親といた頃‥‥‥それと、彼の故郷であるこのラクーナの親戚たちといる時、くらいだろうか。


「いかがでしたの? 生まれ故郷の民からあんなに感謝されるなんて。普通はないわね、お父様?」

「……」

「なぜ前の城塞都市からそのままパルテスに行かず、こっち側に遠回りしたのも、理解できるかも。でも、どうして言わなかったのです?」

「何がだ」

「俺は娘と妻を犠牲にしていまの地位を手に入れ、実の娘には命まで捧げさせて女神への信仰を体現し、そして、その結果としてお前ら民は温暖な生活を手に入れた。少なくない誰かに犠牲を強いた俺は愚か者だ、とか」

「馬鹿にしているのか」

「別に。ただ、本当のこと。ずっと寝たきりにされた恨みを晴らしたいだけ」

「好きに言えばいい。確かに、私はその通りの男だ。卑怯で、卑劣で、家族を犠牲にして文字通り女神様の恩寵を得た。そんな男だ」

「卑怯者、国を出る。いいえ、国を追われる、ですか……そして、民は極寒へと逆戻り。なんてひどい、救世主」

「それでも娘か、お前は?」


 怒りを通り越して呆れが先に立ったらしい。

 大神官はテーブルの上の食事に手を出そうとして、「いてっ」と声あげる。


 すぐそばにいたカトリーナは、その手の甲を上からたたいたからだった。


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