第4想定 第1話

 気泡がゆらゆらと揺らめきながら、幻想的にきらめく海面に向かって浮かんでいった。

 11月の海は体を突き刺すように冷たい。

 宮崎SSTの第2戦闘班。

 俺たちは空気ボンベを背負って日向灘の海底に潜っていた。

 目の前には漁礁にするために沈められた、そこそこ大きな漁船が横たわっている。

 解放されたハッチを前にして班長である姉ちゃんが隊員たちを確認する。

オレンジ色と黒色でデザインされたウェットスーツを着用した俺たちはその問いに対して人差し指と親指で円を作ったハンドサインで異常がないことを報告する。

 全員からの返事を受け取った姉ちゃんは俺たちに「船内進入」の指示を出し、船橋のハッチの中に入っていく。それに続いて救助器材を収納したバッグを装備した俺も進入を開始。

 沈没船の中は完全な闇の世界だ。

 普段と異なるのは視覚だけではない。

 周囲はしんと静まり返っている。

 聞こえてくるのは呼吸音だけ。

 ボンベから空気を吸い込み、体内で発生した二酸化炭素を吐き出す。

 ゴポゴポという排気音だけが聴覚を支配している。

 SSTは一般の隊員が対処することができない狂暴化したヤンデレを鎮圧することを任務として編成された特殊部隊だ。

 それと同時に愛情保安庁にとって最も都合がいい雑用部隊でもある。

 ヤンデレ鎮圧という危険な任務に従事している技術を買われ、メンヘラの対処からストーカー事件の捜査まで幅広い任務に対応している。

 というか押し付けられている。

 そしてヘリコプターで現場に展開する機動力を活用して民間人の救助活動も行っているのだ。表向きには警察消防や海上保安庁が対応できなかったり到着が間に合わなかったりする事故が発生したときは、都道府県知事の要請により自衛隊が災害派遣として出動することになっている。

 しかし知事を通した災害派遣要請をしている時間がないほどに切迫している状況の場合にはSSTが出動することになっている。俺たちは世間一般には知られていない秘密組織だからそこら辺の面倒な手続きを省略して出動できるのだ。知られていないのだから誰からも文句を言われない。

 それに救助を求めている人間には家族がいる。愛情保安庁が守ろうとしている『愛情』とは恋人同士の愛だけではなく家族愛も含まれている。

要救助者を無事に家族の元に返して彼らの家族愛を守ると考えたら、救助活動も愛情保安庁の本来の任務であるとも思える。

 いくら困難な現場から要救助者を無事に救助しても、手柄は全て消防や海保に持っていかれるのは釈然としないけどさ。まぁ俺たちは秘密組織だから所属を名乗れないうえに連中の所属と偽って活動しているから仕方ないんだけどな。

 姉ちゃんがロープを展開しつつ、沈没船の船橋からさらに奥へと進んでいく。

 そのロープを掴んで俺も奥へと進んでいく。

 後ろからは愛梨が追ってくる。

 俺たちは別に観光でスクーバダイビングをやっているわけではない。

 沈没船に取り残された民間人を救出するための潜水訓練をやっている。

 今回の潜水訓練での主役は俺と姉ちゃんだ。俺たちがいわゆるバディとなって今回の潜水訓練を行うのだ。後ろからついてきている4人も一応は訓練の一環で潜水しているが、主な任務は俺たちが事故を起こしたときの救助要員として配置されている。

 ………………。

 なんだか空気が薄くなってきたな。

 残圧計を確認するとボンベ内の空気がほとんどなくなっていた。

 なぜだ?

 潜水を開始してからそんなに時間は経ってないぞ。

 ボンベが故障したのか?

 しかしこのままでは空気が完全になくなって窒息するだけだ。

 俺はボンベに取り付けられたレバーを操作し、リザーブタンクを解放した。

 予備の空気が使えるようになったことで気のせいか呼吸が楽になった気がした。

 時々後ろを振り返っていた姉ちゃんにリザーブタンクを解放したことを報告する。潜水を始めたばかりなのに予備の空気を使わざるを得なくなった状況に怪訝な顔をしたが、姉ちゃんは訓練の続行を指示した。

 本物の救助活動中にも潜水器材が故障することは考えられる。

 安全性を取るのであればすぐさま撤退するべきだろう。しかし要救助者を目の前にして器材の故障を理由に引き返すようなやつはいない。戻ってきたときには要救助者はいなくなっているかもしれない。救助任務が遺体回収任務に変わってしまうかもしれない。

 さすがにバディの器材も故障したら撤退以外の選択肢はないだろう。

 しかし任務遂行のためならば危険を冒さなければならない場面がほとんどだ。

 そもそも安全な現場なんてものはないのだ。

 リザーブタンクを解放したことを後続の安全確保要員にも伝え、そして俺たちは訓練を続行する。

 しばらく潜航を続けると救助目標の人形を発見した。

 これは先週勤務していた第1戦闘班の連中が事前に仕掛けておいたものだ。

 人形は完全に水没している。これが本番ならば完全に溺死しているだろう。

 しかし転覆船や沈没したばかりの船であれば多少は空気が残っているから生存している可能性がある。もちろん完全に浸水していた場合は人命救助ではなく遺体回収が任務になってしまうけどな。

 今回は沈没船から生存者を救出するという訓練だ。

 遺体回収であればそのまま引き上げるが、生存者であれば専用の潜水装備を使って救出する。

 俺は救助器材が入っていたバッグを床に下した。

 肝心の作業を目の前にして緊張を鎮めるかのように呼吸を整える。

 ………………。

 あれ?

 おかしいぞ?

 リザーブタンクを解放したばかりなのにまた空気が薄くなってきた。

 俺は再びレバーを操作してリザーブを開く。

 しかしちっとも呼吸は楽にならない。

 ボンベ内の高圧空気を弱めるレギュレーターが故障したのか?

 残圧計を確認してみる。

 針はちょうど0を指していた。

 なぜだ!?

 俺は驚いて空気を大量に吐き出した。

 やべぇ!

 せっかくの貴重な空気なのに!

 大きな排気音で姉ちゃんが振り返った。

 俺は慌てながらも薄い空気を必死に吸いながら、訓練通りに残圧がないサインを送る。

 姉ちゃんは空気を吸い込んだのちにレギュレーターのセカンドステージを口から取り外した。1本のボンベを2人で共有するバディブリージングという手法を使うつもりなのだろう。俺は咥えていたセカンドステージを外すと、差し出された装置を口にねじ込んだ。

 濃密な空気が肺の奥に染み渡る。

 俺が上手い空気を堪能している間にも、姉ちゃんは呼吸を止めたまま俺の潜水器材を点検する。リザーブのレバーを何度か操作して残圧計を確認している。

 どうも故障ではないみたいだ。

 原因は空気を消費しすぎたことだろうか。

 いや、どう頑張ったとしてもあれほどの空気をたった数分で消費するだなんてできるわけがない。

 姉ちゃんがボンベの交換を指示した。

 バディブリージングでは空気が残っている人間がバディに注意を払う必要がある。練度が高い姉ちゃんが俺に空気を分けるほうが安全だが、俺を訓練するために残圧が残っているボンベを俺に背負わせるのだろう。

 俺は事前の訓練通りにボンベを下ろして交換した。通常の装備交換の訓練であればマスクやフィンといったほぼ全ての装備を交換している。ボンベだけの交換はすぐに完了した。

 さて、これから人形に救助装備を装着させる。

 バッグから取り出した空気ボンベのバルブを開く。そしてフルフェイスマスクを要救助者に見立てた人形の顔にかぶせた。

 あとは要救助者を沈没船から引っ張り出し、海面に浮上したら訓練終了だ。

 姉ちゃんは2本指で顎を触った。

 空気を寄越せという合図だ。

 俺はセカンドステージを差し出すと、姉ちゃんはそれを咥えてふた呼吸。

 装置はすぐに俺の口へと戻ってきて、要救助者の搬出作業が始まった。

 俺と姉ちゃんの二人がかりで人形を抱きかかえ、ここまで展開したロープを辿っていく。狭いハッチは俺が押し出し、先行している姉ちゃんが引っ張り出す。

 姉ちゃんにいつでも空気を提供できるように注意を払っていたが、数分間隔でしか要求がこない。

 廊下を泳ぎ、階段を通過して船橋に到達。

 スムーズな役割分担で船橋の狭いハッチを突破して船外に脱出した。

 安全確保要員として続いていた後ろの4人も船内から出てきた。

あとは一定間隔で減圧しながら浮上するだけだ。

 姉ちゃんは全員の無事を確認すると俺に空気を要求。俺が差し出したセカンドステージを咥えてふた呼吸。そして装置を俺に戻すと立てた親指で海面をつついた。浮上の合図だ。

 呼吸を止めたまま浮上すると水圧の影響で肺が破裂してしまう。俺はゆっくりと空気を吐き出しながら浮き上がる。一定の深度に到達すると姉ちゃんが横に寝かせた手のひらを首の前で左右に動かす。減圧の合図だ。

 深いところから一気に海面まで浮上すると減圧症という障害が発症してしまう。

潜水中は水圧によって大量の窒素が血液中に溶けている。浮上して水圧が弱まると溶けていた窒素が血管の中に気泡として出現し、血液の循環を妨げてしまう。症状としては痙攣や意識障害、状態が悪いと下半身不随や死亡に至る非常に危険な障害だ。

 まぁ空気が完全に切れた状況とか緊急事態では減圧せずに浮上するんだけどな。肺の空気を吐き出しながらゆっくりと浮上する。いわゆる緊急浮上というやつだ。

 減圧中に姉ちゃんに空気を提供。

 そして一定の時間が経過したのちに浮上を再開。浮上と減圧を繰り返してようやく海面が見えてきた。

 最後の減圧が終わると片手を海面に向けて一気に浮上する。なにも片手を上に伸ばしているのは格好いいからではない。なにかと衝突するのを避けるために手を伸ばしているのだ。ヘルメットを装備してはいるが、勢いよく船底にでも突っ込んでしまえば首を痛めてしまう。

 海面に向かってフィンを激しく動かす。

 マスクの視界が一瞬だけ白く泡立つ。

 次の瞬間には轟音を上げて海面に浮上していた。

 訓練はここで終わりではない。

 浮上地点の近くに待機していた複合艇にまで要救助者役の人形を運搬。合同訓練として参加している海上保安庁の保安官たちと協力して複合艇に人形を収容した。

 それを確認すると訓練を監督していた副隊長が状況終了を宣言。その直後に異常の有無を質問してきた。

「問題はなかったか?」

「異常なし!」

 俺はオーケーのサインを突き出して堂々と宣言する。

 しかしせっかくの見せ場はすぐに台無しにされた。

「何が異常なしよ!?」

 怒鳴ったのは愛梨だった。

 俺と同い年でありながら、SST歴は俺よりも少しだけ先輩。そして俺の教育係でもある隊員だ。

 そして愛梨は拳を俺の顔面にぶち込みやがった。

 彼女は立ち泳ぎをしていて足の踏ん張りが効かない状況だった。しかし俺の鼻を攻撃するには十分すぎるパンチだった。

「何するんだよ!」

「残圧が無くなって何が異常なしなのよ!?」

「無くなったものは仕方ねぇだろ!」

「なんであんなに早く残圧が無くなったのよ!」

「俺が知りてぇよ!」

 俺たちはぎゃあぎゃあと言い争う。

 なんでって聞かれても分かるわけがない。

そんなのが分かっていたら事前に対処している。

 しかし愛梨に話は通じないようだ。

 器用にも俺たちは立ち泳ぎをしながら言い争いを続けた。

 俺たちを止めるかのように、訓練を監督していた副隊長が割って入った。

「宗太郎、本当に空気は入れたのか?」

「もちろん入れましたよ」

「メインタンクに?」

「はい」

「リザーブタンクは?」

「ちゃんと最初に入れました」

「じゃあそのあとにリザーブのバルブを閉めたか?」

「………………」

 やべぇ。

 やべぇよ。

 バルブを閉じた記憶がないぞ。

 本来ならば最初にリザーブタンクへ空気を充填する。そしてリザーブのバルブを閉鎖してメインタンクに空気を充填することになっている。

 リザーブのバルブを閉めなければメインタンクに空気は入らない。つまりリザーブタンクへの空気充填が終わったあとも同じ場所に空気を入れ続けていたというわけだ。そして予備の空気だけで潜水活動を開始したということになる。

 周りの隊員たちは呆れていた。

 副隊長は溜め息をつき、俺への処分を言い渡した。

「とりあえず帰ったら反省文。それと反省で腕立て伏せ300回」

 助かった。

 今回は始末書ではなくて反省文か。

 反省の腕立て伏せはいつもの事だな。

 別に俺だけではない。

 連帯責任として部隊の全員が腕立て伏せを300回。

 なんてことはない。

 腕立て伏せ300回は俺が作戦中に死亡したときのペナルティと一緒だ。作戦中に死亡したら300回ではない。1回死亡するごとに300回が課せられるのだ。この前なんか連続で出動になってペナルティで1200回もさせられた。

「よし、一度ボートに上がって休憩」

 その指示により俺たちは順番に複合艇へと乗り込む。

 数分ほど休憩したのちに最後の訓練項目。

 緊急浮上訓練のために俺たちは再び潜水を開始した。

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