第4想定 第2話
日向市でもっとも近代的な施設、日向市駅。
高架式となっているこの駅の駐輪場はちょうど線路の下の空間に設置されている。
テンテコテン♪ テンテコテン♪ テンテコテンテコテロロロロン♪
日向市民ならば誰もが知っているひょっとこ踊りのお囃子。それをアレンジした接近メロディがホームから聞こえてくる。
さらに言うとこのメロディは1番のりばで使われているものだ。というと延岡行きの電車だな。
俺は駅の駐輪場に自転車をぶち込むと、錆びた鍵を力任せに動かして施錠した。この鍵もそろそろ油を差したほうがよさそうだ。
入線したばかりの電車は乗客の乗降が終わったようだ。頭上から電車の轟音が徐々に力強く響いてくる。
今日は舞香とデートすることになっていた。
彼女が所属する吹奏楽部は県内トップクラスの強豪ということでその練習時間も長い。
しかし今日ばかりは午前中で終わりということになっている。
理由は単純。
俺の出身校でもある赤岩中学校吹奏楽部の定期演奏会があるからだ。
吹奏楽部の顧問を務める柘植先生は演奏技術のレベルに限らず、あらゆる音楽を聴くように部員たちに指導しているそうだ。それを理由に日向市内のどこかの吹奏楽部が定期演奏会を実施する時はそれを聴きに行けるように部活を休みにしているらしい。
定期演奏会は午後に実施されることが多い。市内のどこかの吹奏楽部が定期演奏会を行うときは、部活動を午前中で切り上げるという家鴨ヶ丘高校吹奏楽部の風習は自然と周囲に伝染し、日向市内のあらゆる吹奏楽部では一種の暗黙の了解となっていた。
まぁ柘植先生は「レベルに関わらず色々な演奏を聴いて勉強するように」と部員たちに教えているようだが、本当は柘植先生が聴きに行きたくて休みにしているって噂だけどな。
さて、待ち合わせ時間まで時間が余ってしまったな。
ちょっと近くのショッピングセンターで潤滑油でも買ってこよう。
俺は携帯を取り出すとメッセージ機能を立ち上げた。到着したことと近くのショッピングセンターに入っているという情報を書き込んで舞香に送信する。
そういえば昼飯をまだ食べていなかったな。
総菜売り場で適当に買って、駅前のベンチで食べるとしよう。
俺は駐輪場を後にすると道路を横断し、交番を通過してホームセンターの裏口へと入っていった。
潤滑油を物色していると携帯が振動した。
きっと舞香だろう。
≪あたしメリーさん≫
はいはい、
≪今、おもちゃ売り場にいるの≫
ということは同じフロアにいるのか。
ちょっと探しに行こう。
≪ここってラッピングサービスやってる?≫
「メリークリスマス!」
メリーさんじゃなくてサンタさんじゃねぇか!
思わず声を出して突っ込んでしまった。
周りのお客さんがギョッとこちらを振り向いた。
ちくしょう。
舞香のやつ。
遠隔で恋人に羞恥プレイだなんて何を考えているんだ。
俺は手にしていた潤滑油を棚に戻すと周囲からの注目から逃げるかのように舞香を探しに向かった。
ここのホームセンターの建物は巨大だが、ひとつのフロアはそこまで広くはない。
そしておもちゃ売り場も広くはない。
すぐに舞香を見つけることができた。
彼女の先には俺にとってはお馴染みで、そして舞香には似合わないものがショーケースに陳列されていた。
「
突然声を掛けられたことに驚いたのだろう。舞香は小さな悲鳴を上げて逃げ出そうとしていた。
「俺だよ。俺、俺」
「……私に孫はいないよ?」
「オレオレ詐欺じゃねぇよ!」
直接会ってオレオレ詐欺するバカがどこにいるんだ。
さっきは一瞬だけ臆病な姿を見せた舞香だったが、声を掛けたのが俺と分かってから普段の様子に戻っていた。
「舞香って拳銃とかに興味あったのか?」
「興味ってほどじゃないけど、ちょっと気になって……」
へぇ~。
舞香ってこういう物には全く興味がないと思っていたのに意外だな。
そういえば舞香はこの店がラッピングサービスをやっているか気にしていたな。
「もしかして誰かにプレゼントするのか?」
「それもあるけど……。うん、プレゼント」
「そうか。相手は銃とかが好きなのか」
「うん。いつもピストルの話ばっかりしてる」
ほう、いい趣味をしている。
一度会ってみたいものだ。
「私はちっとも興味がないのに」
「とんだ自己中心的なやつだな」
「……そうだね」
「先に言っておくけどこのエアガンは10歳以上用だ。相手は何歳なんだ?」
「17歳」
17歳か。
もしも18歳だったら威力の高いガスブローバックを持てるんだけどな。いや、そもそも購入者の舞香が18歳未満だからどのみち購入はできない。
それにしても銃が好きで17歳か。
俺とそっくりじゃないか。
相手の事を考えずに自分の趣味を語り続ける姿は感心できないが、きっとそいつは俺といい友達になれそうだ。
「……ねぇ、宗太郎だったらこれ欲しい?」
「いや、いらない」
おもちゃとしては十分だが、この歳になってからは物足りない。
「こいつはコッキングエアガンと言って発砲するたびにスライドをコッキングしないといけないんだ。しかも10禁だから威力も低い。かなり値は張るけども俺なら14歳以上用のガスブローバックを買うな。威力があるし、なにより反動があるからリアルだ」
「……じゃあ14歳以上のものだったら嬉しい?」
「いや、そいつはもう持っているからいらない」
「……そう」
舞香は残念そうにつぶやいた。
「もしかして俺にプレゼントしようとしていたのか?」
「……違うもん」
このツンデレさんめ。
「欲しいとは言わないけど、俺は舞香がくれる物ならなんでも嬉しいぞ」
俺たちはまだ高校生の身分だ。
俺はSSTでの給料があるけども、舞香はまだ収入のない普通の高校生だ。子供向けのエアガンといえども3000円は大打撃に違いない。
だけども男というものは彼女からのプレゼントは何だって嬉しいものだ。
それは俺だって同じだ。
舞香がくれるものは何でも嬉しいものだ。
……いや。
舞香の手作り料理以外なら何でも嬉しい。
うん。
手作り料理だけは勘弁してくれ。
アレはプレゼントというよりも爆弾だから。
「ねぇ、宗太郎ってまだサンタさんがいるって信じているでしょ?」
舞香は突然からかいだした。
だけど俺は知っている。
これは舞香の照れ隠しだということを。
しかし俺はそれを詮索することはない。
なぜなら俺は紳士だから。
彼女の気持ちに気づかないふりをしてその照れ隠しに乗ってやった。
「俺はそんなに幼稚じゃねぇよ」
そんなのがまだいるって信じているのは子供か伝説の英雄かのどちらかだ。
「サンタはすでに死んだよ」
「え……?」
「サンタなんてもういない。ミサイルで撃墜されて死んだんだ。だからそれ以来クリスマスプレゼントなんて貰ったことはない。親にねだった事すらない」
俺がまだ小学校1年生のときの話だ。
クリスマスイブの夜。
サンタはトナカイが牽引するそりに乗って日本中の子供たちにクリスマスプレゼントを配りにやってきた。
そしてその姿は護衛艦『はるさめ』の対空レーダーによって捕捉されていた。真っ直ぐと自艦に向かってくる、フライトプランに記載されていない国籍不明機として。
自艦への攻撃の可能性があるとして、護衛艦は警告を実施した。
しかしいくら警告を行っても返信が返ってくるどころか進路を変更する素振りも見せない。
国籍不明機はさらに接近を続ける。
護衛艦の艦内では対空戦闘用意の警報が鳴り響いた。
とうとうサンタは
海上自衛隊初の戦闘行動に艦内はざわめいていた。
赤い照明に照らされた廊下。
カーンカーンカーンと警報が鳴り響く。
隊員が走り回り、水密扉が閉鎖される。
そんな騒動のなか、接近を続けるサンタから何かが投下された。
その様子をCICのレーダー員が見逃すことはなかった。
サンタから投下された物体は対艦ミサイルの可能性があり、自艦への攻撃と判断した艦長は自衛行動のために対空戦闘を発令。砲雷長は対空ミサイルによる攻撃を指示。当時、ミサイル長として『はるさめ』に乗り組んでいた母ちゃんは部下にミサイル発射を命令した。
VLSから発射炎が噴き出し、発射されたシースパローは暗闇の中に消えていった。そしてしばらく経過したのちに遥か彼方の空で爆発した。
国籍不明機は撃墜されたのだ。
機影が対空レーダーから消滅。
生存者の救助と現場確認のために『はるさめ』は撃墜地点に急行。するとそこにはトナカイの肉片や焼け焦げたそりの残骸。色とりどりの包装紙に包まれた小箱が浮いていた。ここでようやく国籍不明機がサンタクロースだったと判明した。
そして肝心のサンタは現場にはいなかった。いくら海面を探しても見つからず、唯一発見できたのはボロボロの赤い帽子だけだったらしい。
このサンタクロース事件は自衛隊が発足して初めての戦闘行動だったが、世の中に発表されることはなかった。
世間には発表できないほど重要な防衛機密だった。
だけど母ちゃんは俺にだけ特別に教えてくれた。何日待ってもクリスマスプレゼントが届かなくて大泣きしていた小学校1年生の俺を見ていられなかったようだ。
サンタはバカなやつだったよ。
とんだ大馬鹿野郎だよ。
それ以来俺と姉ちゃんはクリスマスプレゼントを貰うことはなかった。
だけど俺たちは強い姉弟だった。
俺たち姉弟はサンタが死んだことを教えられた。
そして死者にプレゼントをねだるほど非常識ではなかった。
他の家ではサンタが来ないことに痺れを切らして親がプレゼントを準備していたらしい。周りの奴らは「テレビゲームを貰った」だの「ラジコンを貰った」だの自慢していたが、みんなサンタクロースが深夜に持ってきたものだと思い込んでいた。
まったく馬鹿なやつらだったよ。
サンタは対空ミサイルで撃墜されて肉片のひとつも残っていないっていうのにな。
「……宗太郎」
何か可哀そうなものを見る目で舞香は俺を見ていた。
「別にいいんだよ」
「そうじゃなくて……」
「そもそもサンタの野郎と会ったことなんてなかったしな」
「………………」
舞香は言葉を発することはなかった。
そして俺を見る目も変わらなかった。
「そろそろ出発するか。到着するころにはちょうどいい時間だろう」
俺は彼女を促してホームセンターを出た。
今日はサンタクロースを追悼するために集まったわけではない。
俺の母校でもある赤岩中学校の吹奏楽部。そこの定期演奏会を鑑賞するために予定を合わせていたのだ。舞香は吹奏楽の研究のために。俺は唯一の教え子である後輩のラストステージを見届けるために。
会場は日向市民文化交流センター。
ここからは約800メートルの場所にある。
今から出発すると会場の10分前ぐらいには到着できるだろう。
俺たちは裏口からホームセンターを後にすると交番の前に塗装された横断歩道を渡り、日向市駅の前のイベント広場を横目に行軍を開始した。
俺と舞香は会場へ続くボロボロの歩道を歩き続ける。
会場が近づくにつれて心の奥から何かがこみ上げてくる。
左手に立っているのは文化交流センターの小ホール。
イベントのポスターが張られている巨大な掲示板が見えてきた。
いよいよ突入だ。
緊張、興奮、懐かしさ。
体の奥底からこみ上げてくる感情を押さえつけながら俺は文化交流センターの敷地内へと足を踏み入れた。
地面に敷き詰められた綺麗なパネル。
それを踏んだ瞬間にあたりの空気が一変した。
黒い学ランを着た男子中学生。
赤紫色のラインが入ったセーラー服を着ている女子中学生。
母校の後輩たちだ。
あの時と変わらない。
定期演奏会が終わったあとの中庭のざわめき。
昔の記憶が蘇ってくる。
中学の吹奏楽部時代のこと。
コンクールのリハーサルとして1日中貸し切って練習したこと。
日向市の教育委員会が主催した演奏会。
なによりも忘れられない定期演奏会。師匠でもある先輩との最後の演奏は寂しかった。チューバが1人だけとなった翌年には先輩が卒業生として戻ってきて嬉しかった。そして次の年には初めて後輩ができたが数か月後の定期演奏会で俺は引退した。
あの時のことはよく覚えている。
柄にもなく俺は後輩との別れに涙を流していた。
隣には卒業生として駆けつけてくれた先輩がいた。
そして先輩にも後輩にも言わなかったが、俺はその定期演奏会を最後に二度とチューバを吹かないと決意していた。
俺は地面の感触を確かめながら敷地を歩く。
そこには独特な空気が漂っていた。
「宗太郎、ちょっとお手洗いに行ってくるね」
「分かった。そのあたりで待っている」
小ホールに歩いていく舞香を見送ると俺は周囲を見渡した。
最後に俺が演奏者としてこの会場にやってきたのは2年前のことだ。
しかしなぜだろう。
2年前の出来事であるはずなのに昨日の事のように感じる。そして同時に遠い昔の話のような気持ちにもなっていた。
先輩は今頃なにをしているのだろう。
順調に進んでいれば大学1年生になっているはずだ。
今日は舞香とのデートだというのに俺は女性の先輩のことを考えていた。
この気持ちを誰かに話したら「彼女とデート中なのに別の女の事を考えるだなんてとんだロクデナシだ」と怒られるだろう。しかし俺が先輩に抱いている気持ちは恋愛感情ではない。言葉で表現することは難しいが、先輩はまるで姉のようで後輩は妹のような存在だった。師弟関係とはまた少し違った独特な感情だ。
人数が少ない吹奏楽部のチューバは1年おきにしか配置されない。先輩が引退する年になってようやく初めての後輩が入ってくるのだ。
唯一の先輩。
唯一の後輩。
彼女たちと共に楽器を吹けるのは1年間にも満たない。夏のコンクールまでに技術を仕込み、冬の引退までに自身の全てを伝える。それがチューバの世代交代だった。
他の楽器の事なんて吹いたことすらないから分からない。他のパートでも似たような感情を抱いているかもしれない。しかしこの先輩や後輩に対する思いはチューバを経験した人間だけが持てる独特な感情だと思っている。チューバはスポットライトを浴びることがない地味な楽器だが、合奏の品質を左右するゲームチェンジャーだ。注目を浴びることがなくても俺たちはこの楽器を担当していることを誇りに思っていた。
だからこそ俺はチューバを吹くことをやめた。
2年前の今頃、定期演奏会を終えた俺は二度とチューバを吹かないと心に決めた。
俺は数カ月の間に先輩から全ての技術を受け継いだ。しかし俺はその全てを発揮することはできなかった。後輩に全ての技術を伝えることもできなかった。
チューバは合奏のゲームチェンジャーだ。
合奏が良くなる事もあれば悪くなることもある。
俺は後者だった。
最後のコンクール。
タオルで顔を覆って嗚咽する同級生の姿を今でも鮮明に覚えている。
全て俺の責任だった。
彼女の夏を終わらせてしまった。
俺がもっと上手ければひとつ上の銀賞を取れていたかもしれない。
俺は二度とあの時の同級生のような姿を見たくはなかった。
もう楽器を持つ勇気なんてものは残っていなかった。
………………。
いや、気持ちが沈んでいる場合ではない。
今日は大事な後輩の最後の晴れ舞台なのだ。
彼女は高校でも吹奏楽を続ける予定だと言っていたが、中学校での吹奏楽生活は今日が最後。ひとつの区切りとなる日だ。
俺は彼女のラストステージに共に立つことができなかった。
だけど俺がせめて先輩らしく振舞えるとすれば、後輩の集大成を見届けること。そして定期演奏会が終わった後に広場で思いっきり褒めてあげることぐらいのものだろう。
後輩との別れを惜しんで涙を流す俺を褒めてくれた稲田先輩のように、俺も高砂さんに同じことをしなければならない。
俺は泣くためにこの場所へ来ているのではない。
後輩の最後の雄姿を見届けるためにやってきたのだ。
それに感傷に浸るだなんて俺らしくない。
この切ない気持ちを振り払うかのように再び周囲を見回した。
もしかしたら知っている顔がいるかもしれない。教師だろうが同級生だろうが構わない。声を掛けて昔話に花を咲かせるのもいいだろう。
顔見知りの奴はすぐに見つかった。
ただそれは中学時代の教師でも同級生でもなかった。
「坂本さんじゃないか」
「え……?」
俺は人混みを縫いながら坂本に近づいた。
名前を呼ばれた彼女は驚いている。
気を抜いているときに想い人の俺が声を掛けたのだから驚いたのだろう。
完全に不意を突かれたようで坂本は挙動不審になっている。まるで今すぐにでもこの場から逃げ出したいかのようだ。
そうかそうか、逃げ出したいほどに緊張しているのか。
学校とはあまり関係のない場所とイベントで想い人の俺と遭遇したんだ。この状況下でのサプライズならば興奮のあまり逃げ出したくなる気持ちも分かる。
見る限り坂本は1人で行動していた。
その場にはいつもの奴がいなかった。
「そういえば今日は栗ちゃんとは一緒じゃないんだな」
「あ……はっ……」
「もしかして卒業生枠で出演するとか言ってなかった?」
「は、はい……」
赤岩中学校の吹奏楽部には『吹奏楽のためのシンフォニエッタ』という伝統の曲があり、そして卒業生を招待して毎年の定期演奏会で共に演奏するという習わしがある。
顔も知らない卒業生と共にステージに立ち、やがて自身も卒業生となって吹奏楽部を去っていく。遠い先輩たちから受け継いできたものを次の世代へと渡して部活を引退する。
この曲は赤岩中学校吹奏楽部で最も大事な曲なのだ。
卒業生枠で出演するという栗野はこの曲の演奏に参加するのだ。
「そうか、栗ちゃんはリハーサル中か」
定期演奏会の開演までおよそ30分。
まだ開場されていない無人のホールで演奏者たちは最終調整を行っているころだろう。
「じゃあ今は邪魔してくるやつはいないな」
「ひいっ!?」
坂本は悲鳴を上げて後退した。
俺は両手を開き彼女に近づいた。
「ほら、今は邪魔者がいないんだから」
坂本は俺のことが好きだ。
そして栗野も俺のことが好きらしい。
しかし彼女たちは友達ということもあり、お互いに牽制しあっているようでもある。
俺が坂本に近づこうとすると栗野が怒りながら介入してくる。正直に「私の宗太郎に近づかないで!」って言えば気持ちも楽になるというのに、彼女は頑なに坂本を守るという建前で割り込んでくるのだ。
このツンデレさんめ。
しかし栗野の気持ちを坂本は知っているようだ。
友人でもある栗野の前で「私も宗太郎が好き!」と宣言するのは気が引けるのだろう。彼女は俺への好意をごまかすように俺を拒絶している。
好きという気持ちに素直になれていないのだ。
しかし俺にそんなごまかしは通用しない。
俺は人々の恋愛成就を支援することを任務とした愛情保安官だ。しかも普通の保安官が対応できなくなった時に最後の砦として出動する特殊部隊SSTの隊員なのだ。
恋のキューピッドのプロである俺は容易に坂本の本心を見抜いていた。
「飛び込んでこいよ。俺の胸に」
「嫌です! 無理です!」
「ほら、栗ちゃんがいないせっかくのチャンスだから」
坂本は恐怖で顔をゆがめる。
おいおい、この期に及んで気持ちが俺に気づかれていないと思っているのか。
正直になって俺の胸に飛び込んでこいよ。
それにしても俺への好意をごまかすために恐怖している表情もできるなんてな。
これは本物の恐怖している顔だ。
俺はSSTの任務で多く見てきたからわかる。
まるで本当に怯えているかのような表情ができるとは、きっと坂本なら実力派女優になれるかもしれない。今のうちにサインでも貰っておこうか。
「俺のことが好きなんだろう?」
「栗゛ち゛ゃ゛ん゛た゛す゛げ゛て゛え゛え゛え゛え゛!!!」
引っ込み思案で恥ずかしがり屋な普段の坂本とは思えない絶叫だった。これは女優だけでなく声優にもなれるかもしれない。今のうちにサインを貰って姉ちゃんに渡しておこう。数年後には人気アニメのヒロインに声を当てているかもしれないからな。
いや、将来に期待している場合ではない。
周囲の観客が俺たちに注目している。
これじゃあまるで俺が坂本を襲おうとしていたみたいじゃないか。
「坂本! 演技が上手いのは分かったから止めてくれ!」
「や゛あ゛あ゛た゛あ゛あ゛!!!」
まずい。
まずいぞ。
下手したら定期演奏会を出禁になってしまう。
これでは後輩のラストステージを見届けることができないどころか、舞香とのデートも台無しになってしまう。
俺は何とか坂本を止めようと彼女の肩を掴んで揺さぶる。
しかし坂本は演技をやめてはくれない。
マジかよ!?
何をして欲しいんだ?
キスか?
キスをしたら満足してくれるのか?
そんなの舞香にすらしたことないんだからな。
キスなんてひなたにしかしたことないんだからな。事故だったけど。
しかしこのままでは俺は定期演奏会の出禁どころか社会的に抹殺されてしまう。
ちくしょう。
やるしかないのか。
「舞香には秘密にするんだぞ?」
俺は覚悟を決めた。
やるぞ俺は。
「私に何を秘密にするの?」
「!」
その声に驚いて振り返ると舞香が立っていた。
蔑むかのような表情で彼女は俺を見ていた。
不覚だ。
泣き叫ぶ坂本に気を取られて、背後から接近してくる舞香に気づけないだなんて。
これが戦場ならば俺はとっくに死んでいるだろう。
「ねぇ坂本さん」
「……舞香先輩?」
舞香が声を掛けると途端に坂本が泣き止んだ。
そしてヒックヒック、としゃくり上げている。
坂本はここまで演技をできるのか。
「もしかして宗太郎が変な事しちゃった?」
「2人きりで邪魔が入らないからって……」
「ごめんね。嫌なこと思い出させちゃったね」
「いえ、舞香先輩は何も悪くないです……」
その通りだ。
舞香は何も悪くない。
そして俺も悪くない。
「ちゃんと宗太郎を叱っておくから。ごめんね?」
舞香は坂本にそう断ると、俺の手を掴んで人混みの中に連行していった。
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