第3想定 第7話

 分からねぇ。

 分からねぇよ。

 英語の問題が分からない。

 クラスでは文化祭の出し物についての話題で持ち切りだったが、それでも関係ないとでも言うかのように中間テストはやってくる。

 どうしよう。

 救済措置の問題が分からない。

『I'm an idiot. But she is more an idiot.』

 この英文を訳せという問題。

 idiotってなんだよ。

 授業でこんな単語出てきたか?

 東大入試レベルじゃねぇのかこれ。

「はい、あと1分~」

 刻々と時間は過ぎていく。

 仕方ない。

 自分の名前を書いておくか。

『私は宗太郎だ。しかし彼女はもっと宗太郎だ』

 答案用紙の分からないところを空欄のまま出すのは馬鹿がすることだ。適当でもいいから何かを書いておけばまぐれで正解するかもしれない。お情けで点数を貰えるかもしれない。

 先頭に戻ってきちんと名前が書かれていることを確認。

 他に空欄がないことを確かめる。

 よし、完璧だ。

 しばらくするとスピーカーがジーと唸りだし、チャイムが鳴った。

 教室に普段の騒めきが戻り答案用紙が回収される。

 さて、今日のテストも全部終わった。しかも今日で中間テストのすべてが終わった。あとは終礼を済ませて帰宅だ。今日はテスト明けということで部活動は休み。

「ねぇみんな聞いてー!」

 答案用紙を回収した試験監督は教室を出ていき、クラスの緊張が緩んで騒めきだしたときにその声は響いた。

 その声はクラスのリーダー格の人物であり、今回の文化祭の出し物のリーダーに立候補したうちの1人だった。

「今日はみんな部活が休みだと思うからこれから文化祭の班分けをしたいんだけど」

 なんだ、文化祭の班分けの話か。

 それなら俺には関係がない話だな。

 だって俺、両方の班で活動することになったんだもん。

 この前のクラス会議でどちらの班に押し付けるかの話になっていたが、結局両方の班で活動することになった。両方の班長が相手に押し付けられるぐらいならば引き分け、つまりお互いが俺を半分ずつ受け入れたほうがマシだと判断したのだ。

 よし、せっかく両方の班に入ったんだから大活躍するぜ。

 しばらくすると学級担任がクラスにやってきて帰りのホームルーム。

 それが終わるとクラス会議の準備が始まった。トイレに行くと言って数人が教室を出ていく。俺はその人の流れに紛れ込んで教室を脱出した。


「ただいま~」

「おかえり~」

 部活を終えて自宅に帰ると台所で姉ちゃんが夕飯を作っていた。

 今日の夕飯は水炊きか。

 いつもならばどんぶりが一つで済むような料理なのに珍しい。といっても親子丼とか牛丼とかそういう丼物ではなく、なんでも白米の上に乗せているだけだけどな。マッシュポテトだろうが野菜炒めだろうが煮物だろうが問答無用でどんぶりにぶち込まれる。

 俺が料理当番のときに作るのも似たようなものだけどな。洗い物が少なくて楽だし。

 まぁ水炊きって楽だもんな。たまには手を抜くのも大事だ。

 俺は居間を後にして自室へと向かった。

 それにしても今日の俺はナイスプレイだった。

 クラス会議から脱走した俺だが誰からも呼び戻すための電話は来なかった。つまり俺が教室にいないことに誰も気づかなかったわけだ。

 さすがは俺。

 まぁ俺のステルス能力は高いから気づかなくても仕方ないな。

 自室へ入ると鞄を放り投げ、制服を脱いで部屋着に着替える。

 居間のほうで固定電話が鳴り響いた。

 ちょうど作業がひと段落したところみたいだったから姉ちゃんが出るだろう。

 その予想は的中し、数コールしたところでその音が鳴りやんだ。

 俺は机の引き出しからエアガンとマガジンを取り出した。ボトルからトレイに広げたBB弾を7発だけマガジンに装填し、ガスを充填する。

 さて、日課の射撃練習が終わったら宿題をしないとな。

 エアガンにマガジンをぶち込み、スライドをコッキングして初弾を装填。サムセイフティをかけて準備完了だ。

「宗太郎~」

 いよいよ標的に向けて射撃を開始しようとしたところで姉ちゃんに呼ばれた。

 さっきの電話は俺に用事があったのだろうか。

 電話を受けるような心当たりはなかったが呼ばれたのであればそうなんだろう。俺はマガジンを取り外し、初弾を抜いてホールドオープン状態にしたエアガンを机に置いて居間へと向かった。


 居間へ向かうと姉ちゃんが受話器を突き出してきた。

「赤岩中の吹部から」

 電話の相手は俺の出身校である赤岩中学校だった。

そこの吹奏楽部からの電話と聞いて心当たりがあった。

 そうか。

 もうそんな季節か。

 俺は受話器を受け取って耳に当てる。

「はい、上岡宗太郎です」

『先輩、お久しぶりです』

 電話の向こうの人物はよく知っている人物だった。

 彼女は最も長い時間を共にした女子だ。もしかしたら舞香以上に長い時間を共にしているかもしれない。もちろん姉ちゃんには敵わないけどな。

「高砂さん、久しぶり」

 彼女は中学校の吹奏楽部の後輩だ。

 俺にとって妹のような存在といっても過言ではない。

「もしかして『シンフォニエッタ』の件?」

 俺の出身の吹奏楽部には代々受け継がれてきている楽曲がある。

 それが『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』。

 通称、『シンフォニエッタ』だ。

 赤岩中吹奏楽はずっと昔、とある伝説的な顧問が転勤してきたことによって九州大会に連続出場。そしてさらに全国大会へと出場。初出場にして金賞を受賞した。それを記念して日向市出身の作曲家に委託されて作曲されたのがこの『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』なのだ。

 ちなみにそれから約10年後。

 県北の吹奏楽部をかき集めて行われたコンクール対策の講習会。

 俺はその伝説的な顧問によって衆人環視のなかで吊るし上げられるわけだけどな。

 おっと話が逸れた。

 その『シンフォニエッタ』は毎年秋に行われる定期演奏会で必ず演奏されている。

 それだけではない。卒業した元部員を招待して共に演奏しているのだ。卒業生はこの定期演奏会に里帰りして、初めて顔を合わせる後輩たちと共に演奏する。なかには全国大会を経験しているような超古参も帰ってくる。

 現役部員たちは全員がこれを演奏する。三年生たちは最後の本番である定期演奏会でこれを演奏して引退し、次の年からは卒業生として演奏に戻ってくる。

 先輩たちから受け継いできたものを、次の世代へと伝えていく。

 それがこの曲のコンセプトであり、赤岩中吹奏楽部が最も大切にしている楽曲だ。

『はい。参加してもらえますか?』

「……いや、今回も辞退するよ」

 シンフォニエッタへの出演の打診は去年もあった。

 しかし俺はそれを辞退した。

 この質問に対する答えも去年と同じだ。

『なにか用事でもあるんですか』

「いや、もう俺はチューバは吹かないって決めているんだ」

『私、今年で引退なので最後に一緒に吹いてほしかったんです』

「ごめん。それでも俺はもう吹けないんだ」

『そうですか……分かりました』

 高砂は深く追及はしてこなかった。

 彼女とは長い時間を共にしたんだ。俺の心の中を察してくれたのかもしれない。

「もう高砂さんも引退か」

『はい。あっという間でした』

「今年のコンクールはどうだった?」

『銀賞でした』

「そっか、上手くなったな」

 俺が現役だったときは三年連続で銅賞だった。

 それ以前は九州大会には進めなかったもののいつも県大会では金賞を受賞していた。そんな学校が突然銅賞しか獲れなくなったため、その3年間は『赤岩中吹奏楽部の暗黒時代』と呼ばれていた。

 金賞と比べたら銀賞なんてまだまだなのかもしれない。

 しかし彼女たちは暗黒時代を脱出したのだ。

 教え子が暗黒時代を乗り越えた。つまり俺たちを超えて行ったというのはこれ以上に誇らしいことはない。

「高校はどこに行くんだ?」

『家鴨ヶ丘を受験します。推薦入試で』

「高校でも吹奏楽を?」

『はい。ただ入部テストに受かるか分かりませんけど』

「それなら大丈夫だ。あそこは誰でもウェルカムだから」

 楽器のオーディションを突破した特待生しか入部できないという学校もあると噂で聞いたことがあるが、うちの学校の吹奏楽部はそんなことはしていない。さすがにコンクールに出場するとなると人数制限があるから選抜があるだろう。しかし舞香に聞く限り入部のためのオーディションなんてものはなかったらしい。

 私立高校ならそういう事もあるかもしれないが、うちの高校は県立高校だからな。税金で運営されている学校だから希望があれば誰でも吹奏楽に関われる環境になっているのだ。

「うちの吹部の顧問って知っているだろ?」

『柘植先生ですよね。『宮崎県の吹奏楽の女神様』って呼ばれている』

 その名前に二つ名がついて回るのはその顧問がそれだけ有名という証拠だ。

 彼の存在は俺が現役だったときに高砂に教えた。ちなみに俺も先輩から教わった。男性の指導者なのになぜ『女神様』と呼ばれているのか不思議に思ったのはみんな一緒だった。

「その柘植先生はどんな平凡な部員でも精鋭に育て上げるからな。入部したあとに上手くなればいいって方針らしいし、コンクール選抜者だって無名校出身者もけっこう多いらしいぞ」

『本当ですか?』

「俺の彼女だって中学は銀賞だったらしいけど、1年目からレギュラーで全国大会に行ったぞ。今年は九州大会止まりだったけどな」

『え!? 先輩って彼女いたんですか!?』

「……普通にいるよ」

『へ~、先輩でもできたんですね』

 失礼なやつだな。

 こう見えて俺はモテモテなんだぞ。

 俺を奪い合って流血事件が発生するぐらいには。

 まぁ俺の仕事が増えるだけなんだけど。

「吹奏楽部には知り合いが何人かいるから伝えておくよ。柘植先生ともよく立ち話しているし」

 別に俺は柘植先生の授業を受けているわけではない。

 それなのになぜか彼は俺のことをよく知っているのだ。おおかた舞香が部活でのろけているのだろう。まったく困った彼女だぜ。

「そっちの顧問はまだ変わってない?」

『はい、まだ今年も転勤にはなりそうにないらしいです』

「そうか。それじゃあ伝えておいてくれ。俺はまだ生きているって」

『まだ生きているだなんて、そんな大げさな』

 意外とそうでもないぞ。

 いつ殉職するか分からないからな。

 なんか俺、よその部隊から『死神』って言われているらしいし。

 俺が出動すると誰かの死体が増えるからというわけではない。

 ありえないような死にかたをする。

 死にかたが神ってる。

 だから略して『死神』と呼ばれているらしい。

「定期演奏会には参加できないけど、来年の4月に高校で待っているぞ」

 定型的な会話を交わし、俺は電話を切った。

 俺はもうチューバを吹かないと心に決めている。

 だから二度と母校には戻らない。

 そう覚悟していたが、あの時代を共に過ごした後輩の声を聞くことができて懐かしさを覚えた。まるで母校の音楽室にいるかのような感覚もした。

 次に彼女の声を聞くことができるのは来年の4月ごろだ。

「宗太郎、さっきのってシンフォニエッタの話でしょ?」

 台所で水炊きを皿に分けていた姉ちゃんが聞いてきた。

 姉ちゃんも俺と同じく赤岩中吹奏楽でチューバを吹いていた。俺にチューバを教えてくれたのは稲葉という先輩だったが、その彼女にチューバを教えたのが姉ちゃんなのだ。

 出身者である姉ちゃんも当然、シンフォニエッタの演奏で卒業生が呼ばれるということを知っている。俺が一年生だったころは卒業生として姉ちゃんが戻ってきて一緒に演奏だってした。

「参加しなくてよかったの?」

「いいんだよ」

「打診されるのって今年が最後でしょ?」

「それはそうだけどさ」

 毎年里帰りしてくるような大物卒業生ならば話は別だが、基本的に打診の電話が来るのは現役部員が知っている卒業生だけ。俺と同じ世代に活動していた高砂は今年で引退だから来年からは打診の電話は来なくなるのだ。

 もちろん打診の電話を貰わないと参加できないというわけではない。

 しかし誰も知っている現役部員がいないというのに里帰りするというのはなんだか気恥ずかしい。戻るのが九州大会や全国大会の経験者というのであれば喜ばれるかもしれないが、暗黒時代出身の部員が戻ってきても困惑されるだけだろう。

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