第3想定 第4話

 今日は非番。

 基地での勤務は明日から。

 ……のはずだった。

 今日は何をして遊ぼうかワクワクと考えていたら携帯電話に姪乃浜から着信。

 緊急招集の電話だった。

 予定を狂わされた俺と姉ちゃんは二人仲良く電車に揺られて基地に出勤してきた。

 宮崎県は普通電車が1時間に1本しか来ない。

 特急も入れれば1時間に2本。

 普段は普通電車で出勤しているが今回は緊急招集。特急乗車券を経費として出してくれるということでここぞとばかりに黒い特急電車に飛び乗った。

 それでも日向市駅から宮崎空港駅までは1時間以上かかる。

 やっと出勤できた頃には12時近くになっていた。

「おう、来たか上岡姉弟!」

 基地で真っ先に俺たちを出迎えたのはヘリパイロットで機長を務めている小川さんだった。今日もいつものように宮崎県警航空隊の隊員を相手につまらないジョークを飛ばしていたのだろう。小川さんに捕まっていた隊員が疲れた顔をしている。

 それにしても今日は見慣れない顔が大勢いる。

 別に誰かが転勤してきたわけではない。

「小川さん、今日はどうしたんですか?」

「なんだ姪乃浜から聞いてないのか? 第1戦闘班が出動した事件が大規模化するかもしれないってよ」

「いやそれは聞いているんですけど、この人たちは応援の人ですか?」

「おいおい忘れたのか? 警察学校の生徒たちだ」

 呆れた様子もなく笑い飛ばすかのようにそう説明されて俺は思い出した。

 次の基地勤務で警察学校の初任科生たちの実習があるって姪乃浜に説明されていたんだった。いくつかの班に分かれて実習に来るらしいが、それでも結構な人数だ。

「お、宗太郎じゃねぇか」

 懐かしい声が突然飛んできた。

 振り返るとそこにはよく知っている人物、基山先輩が立っていた。

「おうお前、宗太郎と知り合いか?」

「はい。高校で同じ野球部だったんです」

「そうか、宗太郎もここでなかなか頑張ってるぞ」

 小川さんは初めて会った時のように俺の頭をバシバシとドリブルする。

 馬鹿になったらどうするんだよ。

 近いうちに定期テストがある。

 赤点取ったら小川さんのせいだからな。

「そこらへんの警察官とか自衛官よりもコイツのほうが強いかもしれんぞ~?」

「ははは……でしょうね」

 近くの県警航空隊の隊員と軽く会話を交わしたのちに更衣室へと向かう姉ちゃんを見て誰もが恐れおののいていた。最初の展示訓練で医務室送り、もしくは半殺しにされた学生たちは気のせいか震えているように見えた。

 あれから訓練を積んだからこそ分かるけども、あの時の姉ちゃんはかなり手加減していた。相手は一般部隊どころか初任教育中の学生だったからな。

 もちろん訓練はそれぞれのレベルに合わせるが簡単なものだけをさせるわけにはいかない。俺たちが倒されたら後ろの民間人が危険に晒される。今年採用されたばかりの学生とはいえ訓練が厳しくなるのは当然のことだ。しかも俺たちは最前線で命のやりとりをやっている。血を流して倒れている民間人を何人も見てきた。それを経験しているからこそより訓練は厳しくなったのだろう。

「じゃあ俺も着替えてくるので」

 そう言い残して俺は現場を離脱した。

 もしもずっとそこに居たら小川さんのドリブルが続いていただろう。

 さっきので一部の脳細胞が死滅したかもしれないがまだ全滅はしていない。赤点を回避するためにも一刻も早くその場から逃げなければならなかった。

 繰り返すけども今度のテストで赤点を取ったら小川さんのせいだからな。


 更衣室に行く前に事務室へ寄って特急乗車券の領収証を経理係に突き出してきた。後で渡そうとして紛失したら完全自腹になってしまう。それに後日渡そうものなら知らないと突っぱねられそうだったからな。ヘリコプターを運用できているのが奇跡なほど貧乏な愛情保安庁ブラック組織ならば言いかねないから困る。

 更衣室へ向かう途中に先に着替えに行っていた姉ちゃんとすれ違った。いつもは黒いアサルトスーツだが今回は迷彩服を着用している。

「山に出動するかもしれないから迷彩服を着ておいて」

 そう姉ちゃんに指示されて俺も同じ服装に着替えたのち、武器庫に向かって自分のライフル89式小銃拳銃USPの点検。

 銃火器以外の装備品の点検も済ませると指令室へと向かった。

 指令室で状況を確認したら、あとは待機室で出動指令がでるのを待つだけだ。

 通常であれば待機中にも訓練を行っている。1週間の基地勤務が始まれば起きていても寝ていても、訓練中も休憩中も24時間常に警戒態勢だ。しかし今回は緊急招集がかかるほど緊迫した状況。増援での出動がかかりそうな状況で訓練は行われないだろう。やったとしても軽い筋トレぐらいだ。

 出動指令を待つとはいえ何も起こらないに越したことはない。出動がかからないということは無事に作戦が終了したということだし、なにより待機しているだけで給料が発生するからな。

「おう宗太郎!」

 指令室に行くためには待機室を通らなければならない。

 待機室のドアをくぐると郁美と鉢合わせした。

 彼女の右手は俺の股間へと伸びていき、がっしりと俺のムスコ大佐を鷲掴みにする。

 一緒に待機していた初任科生たちがその行為を見てビクッとしていた。

「遅かったじゃないか」

「俺の自宅は日向市だ。これでも十分早いほうだぞ」

「宮崎市に引っ越して来いよ」

 そういいながら郁美は指を動かして俺のキン☆タマをもてあそぶ。

 俺たちのやり取りを見ていた初任科生たちは「こいつらマジか……」とでも言いそうな顔をしていた。何人かは股間を手で隠している。

「で、今日は何人潰したんだ」

「おいおい、潰したなんて失礼なやつだな。オレは握っただけだ」

「それを男たちは潰されたって言うんだよ」

 校長のキン☆タマを握り潰して高校を退学になったというのに学習しないやつだな。

 そのうち冗談じゃなくて本当に潰してしまうぞ。

 アンタ弱いほうの右手でさえ握力が50キロ以上あるじゃねぇか。

 キン☆タマなんて50キロで潰れてしまうんだからな。

「それにしても宗太郎、さては抜いてきたな?」

「………………隣に美雪がいるんだぞ。ここで抜いたとか言うんじゃねぇよ」

 郁美と美雪は双子でありながら、その性格は正反対だ。

 姉である郁美が男の股間を鷲掴みにする一方で、妹の美雪は下ネタを嫌う純粋培養のお嬢様。もしも彼女の前で下ネタを使おうならば股間を蹴り上げられてしまう。郁美が男のキン☆タマを握るのはボディタッチの一環だが、美雪の金的は殺意むき出しだ。

 というかなんで抜いてきたって分かるんだよ。

「なんだぁ~? なんかやましいことでもあるのかぁ~?」

「やめろよ。美雪が睨んでるぞ」

 勘弁してくれよ。

 アンタの下ネタでも金的を食らうのは俺なんだからな。

「もしかしてオレで抜いたのか?」

「悪いが趣味じゃない」

 郁美は俺の股間から手を外すと自身の体を抱きしめるようなしぐさをしながら俺から遠ざかっていった。

 悪いが本当に趣味じゃないんだ。

 アンタの体にはちっともムスコ大佐が反応しない。

 それにいまさら胸を隠すようなしぐさをしても意味ないからな。俺が初めて出勤したときにその胸を押し付けて、いわゆる「当ててんのよ」をしていたじゃねぇか。そもそもそんなエロいことが苦手なやつは男の股間を掴んだりしないからな。

「それじゃあ美雪か。そうだよな~。美雪もエロい体してるもんな~」

「どこがだよ! 俺はAにしか興味はない! あのなだらかな曲線がいいんだ! 妥協してもBまで! C以上なんて俺は認めないぞ!」

 まったく失礼なやつだ。

 巨乳が好きな変態野郎と俺を一緒にするんじゃねぇよ。

「……宗太郎」

「ん?」

 俺の肩を叩きながら呼びかけたのは美雪だった。

 彼女は俺を正面に捉えると無言のまま俺のムスコ大佐を蹴り上げた。

「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」

 美雪の強力な蹴りを食らって平気な男なんていない。

 いや、美雪じゃなくても金的を食らえば男なんて一撃だ。

 彼女の蹴りをモロに食らった俺はムスコ大佐を押さえ、絶叫しながら膝をつく以外になかった。

「……アンタなにやってるの?」

 ドアが開く音がしたらそう声を掛けられた。

 痛みを我慢しながらも声がした方向に顔を向けると、指令室から出てきたばかりの愛梨と姪乃浜が立っていた。

「どうせ宗太郎がやらかしたんだろう」

「そんなわけないだろ」

 姪乃浜が断言するがとんだ見当違いだ。

 郁美の下ネタで美雪がキレて俺が被害を受けただけ。

 俺はとばっちりを食らっただけなんだよ。

「今日は警察学校から実習生が来てるんだぞ。ただでさえ宮崎県警で悪い噂をされてるから変なことはするなよ」

 そうだそうだ。

 SSTにはセクハラする奴や金的をする奴がいるって悪名が広まったらアンタらのせいだからな。同じ部隊に所属している俺も同じような目で見られるんだからいい加減にしろよな。

 小言を言いながらも愛梨と姪乃浜は椅子に座った。

 腰を叩いてくれてもいいのに俺にはちっとも目をくれない。

 今度姪乃浜が金的食らっても俺は叩いてやらないからな。

 少しずつ下腹部の痛みが引いてきた。

 隊長による応急処置が見込めないと諦めた俺は立ち上がり、自分で腰を叩きながら椅子に座った。

「姪乃浜、いまの作戦状況はどうなんだ?」

「現場は膠着している。今は副隊長に指揮を預けて俺は一旦休憩だ」

 休めるときに休むのは作戦の基礎だ。

 きっと何か動きがあったら呼び出されるのだろう。

「それにしても美雪にエロいことを言うなんて宗太郎は学習しないやつだな」

「元々はアンタが言い出したことだろ」

 ケラケラと笑う郁美に苦情を申し立てたが、彼女はまったく聞いていない。

 これだからこいつは苦手なんだ。

「宗太郎、そのうち本当に潰されるぞ」

「その時は労災で処理してくれよ」

「作戦中の事故だったらな」

 出動中に破裂するよりも待機中に郁美によって潰される可能性のほうが高い。どうやら姪乃浜は労災として処理しないつもりらしい。

 俺のキン☆タマを郁美は握り潰し、美雪は蹴り潰し、そして姪乃浜が事件を握り潰す。

 もしも揉み消したら労基署に駆け込むからな。

「美雪が手加減してくれている今のうちよ?」

「金的に手加減もクソもねぇよ」

 ちょっと物をぶつけただけでも激痛なんだからな。

 この痛みは絶対愛梨には分からない。もしもタマを持っていない愛梨がこの痛みを知っているとしたら、本当にタマを蹴られている俺としてはタマったものじゃない。

「そうだ金的で思い出した。年末に都城駐屯地で格闘指導官課程の訓練があるんだがそれに愛梨を送り込むことになったから」

「マジか! ってことは2カ月間も留守にするってことだな!」

 よっしゃ。

 鬼軍曹が2カ月も部隊を留守にするだなんてまるで天国だ。

「いや、試験にだけ参加して部隊格闘指導官の資格を取ってくるだけだ」

「なんでだよ!?」

「訓練はいつもSSTでやっているからな」

 格闘訓練は訓練どころか実戦でも使っている。SSTは任務の特性上、作戦は近接戦闘が使用される。至近距離に近づいたら銃火器よりも格闘のほうが都合が良かったりする。そのため全国のSSTでは陸上自衛隊でいう部隊格闘指導官以上の格闘技術が必須要件となるらしい。

 まぁSSTは拉致同然に入隊させられるから、入隊した後で陸上自衛隊に預けられて強制的に取らされるんだけどな。

 え?

 もしも資格を取れなかったら?

 資格を取れるまで厳しい訓練を受けさせられるだけだ。

 他の部隊なら原隊復帰、つまり訓練から脱落して元の部隊に戻されて終わりだが、SSTにはそんなものはない。資格を取るまで延々と地獄の訓練を受けさせられる。SSTは予算を優先的に充てられるからそれなりの結果を残せというわけだな。

 しかし予算が優先されるとはねぇ……。

 危険度は他の部隊よりかなり高い。

 にもかかわらず給料はほとんど変わらない。

 危険手当があるが満額は支給されない。

 こんなブラックな行政機関が他にあるだろうか。

「愛梨、どうせなら2カ月間フルに参加してこいよ」

「あら宗太郎、そんなに私にいてほしくないの?」

「もちろんだ!」

「ぶっ殺す!」

「痛ってぇ!」

 言うが早いか。

 愛梨の右フックが飛んできた。

「……もうコイツに資格やっていいんじゃねぇの?」

「一応形式的に試験を受けるだけだ」

 あ~あ。

 せっかく2カ月も愛梨に会わなくて済むと思ったのに。

 姪乃浜のやつ期待させやがって。

「宗太郎が部隊格闘指導官課程に行くのはまた来年の年末だな」

「分かった」

「その前の夏には第1空挺団で自由降下フリーフォールの試験だ。これには愛梨と宗太郎を一緒に送り込む」

 宮崎SSTは九州を管轄する第七管区愛情保安部で唯一空挺降下エアボーンが可能な部隊だ。

 俺はSSTの活動を支援する『SSTサポートシステム』、通称、システムの支援を受けて何度か訓練で降下している。愛梨も無資格だけど彼女はシステムの支援を受けずに自身の技術だけで空挺降下ができるようになっている。

 しかも自動で落下傘が開くパラシュート降下ではない。

 もちろん基礎としてそれも訓練されている。しかし基本的に宮崎SSTで使っているのは航空機から飛び降りて任意の高度で落下傘を手動で開放する自由降下フリーフォールだ。

 そのため入隊してまだ日が浅い俺と愛梨を除くと第1戦闘班、第2戦闘班の全員がパラシュートの上に『FF』のマークがついた空挺徽章と特殊作戦徽章と部隊格闘指導官のバッジを胸に装着している。

 しかも姉ちゃんと浦上さん、そして第1戦闘班の班長に至っては上級格闘指導官のバッジと潜水徽章を着けている。

 さらに両班の班長はレンジャーのおまけ付きだ。

 もしもこれが陸自だったら余裕で特殊作戦群に飛ばされているだろう。

「おっとその前に宗太郎はレンジャーに行かないとな」

「はぁ!?」

 初級幹部特別集合教育課程。

 通称は陸自からパクってレンジャー課程。

 あらゆる状況下でも隊員を統率して任務を成功させるための隊員を養成する選抜訓練だ。全国の特殊部隊から選抜された隊員を素養試験にかけてさらに選抜。残った20名がこのレンジャー課程を受講し、訓練を全てクリアできるのは半分もいない。

 この訓練はレンジャーじゃない。デンジャーだ。

 終わりのない体力調整、いわゆる筋トレやランニング。それに座学。そして後半からはさまざまな想定シチュエーションでの実戦訓練。中には数日間の間、食料は現地調達の不眠不休で歩き続けるものもあるという。

 部隊に戻った頃は筋肉が削げ落ち、血液検査はすべて異常。

 普段から厳しい訓練を受けている連中が次々に脱落していく訓練だ。

 ついでに言うとこの訓練課程は行くものじゃない。逝くものだ。

 なんでだよ。

 なんで俺がレンジャー課程に逝かないといけないんだ。

「この前は三間坂さんが参加したんだろ?」

「ああ、だけど三間坂は宗太郎を推薦していたぞ」

「あの野郎!」

 ちくしょう!

 完全に思い出した。

 アイツが夏に言っていた。

 俺がレンジャー訓練に逝けば自分が逝かずに済むと。

 だからアイツは俺を推薦したんだ。

「戻ってきたらドツき回してやる!」

「大丈夫だ。通常は各部隊から1人送り込まないといけないが、今回は三間坂と宗太郎の2人を素養試験に申し込んだから」

「よっしゃ!」

 死なばもろともだ。

 一緒に逝こうぜ、ヒアウィーゴー!

 三間坂の野郎が作戦から帰ってきたら教えてやる。

 アイツの思惑どおり俺が訓練に参加することになったこと。そしてそれを進言した三間坂のヤツも一緒に参加することになったこと。

 そして「ねぇいまどんな気持ち?」って聞いてやるんだ。

 あー、早く帰ってこないかな。

 少しでも早く絶望する顔を見てみたい。

「宗太郎……アンタいい性格してるわよね」

「だろ?」

「………………」

 愛梨は何か言いたげだったが俺は気にしない。

 あー、早く三間坂の野郎を絶望のドン底に突き落としたい。

 いつ出動指令がかかってもおかしくない緊迫したこの状況。しかし俺の心の中ではいろんな感情が駆け巡っていた。

 とんでもない訓練に送り込まれることが決まった絶望感。

 それに同僚を連れて逝ける喜び。

 来年に実施される陸自での試験への期待。

 軍職業スキル。いわゆるMOSを取得して制服にはバッジを、戦闘服にはワッペンを装着した自分の姿を想像してニヤけてしまう。しかしその過程を思うと絶望しかない。

 もうめちゃくちゃだ。

「愛梨、コイツには何を言っても無駄だ」

「……そうね」


 出勤して時間が経過した。

 時計の針はそろそろ13時を指そうとしている。

 緊急招集されて警戒態勢とはいえ通常通りの勤務だ。第2戦闘班のみんなは待機室で休憩している。指揮を副隊長に預けた姪乃浜も時々指令室に顔を出しながら休憩している。

 休憩といっても休んでいるだけではない。

 みんな書類仕事をしている。

 休憩している姪乃浜だって指令室から戻ってくると書類にハンコを押しまくっている。

 まったく本部の連中は何を考えているんだ。

 休憩時間には完全に休憩できるように人員を増やしてくれよ。

 現場実習で来ている警察学校の連中は何もすることがない。姪乃浜は「忙しくなるから今はゆっくりしておけ」と指示していたが、それでもSST隊員が休憩中にも仕事をしている隣でただ休んでおくというのは気まずい様子だ。浜崎さんはこの空気に耐えられなくなったようで「航空隊に配属されたいからOB訪問してくる」と言い残して県警航空隊の事務室へと逃走した。俺たちが仕事をしているのに加えて以前の訓練で彼をフルボッコにした姉ちゃんが同じ空間にいるのが気まずかったのだろう。

 しかし浜崎さん、アンタはとんでもないことを忘れている。

 もし本当に航空隊に配属されたら、それこそ嫌ってほど姉ちゃんと顔を会わせることになるぞ。

 まぁそんな事は知ったこっちゃない。

 俺は姉ちゃんが一緒なら大歓迎。俺と姉ちゃんはいつでも一緒だ。

 書類にハンコを押す。

 さてと、この始末書はこれで完成だ。

 できあがったばかりの書類を眺める。

 俺はこれまで何枚の始末書を書いたものか。

 いったい給料からいくら差し引かれたものか。

 やべっ。

 誤字ってるじゃねぇか。

 二重線と訂正印で修正しようにも、書類が書類だからそういうわけにはいかない。

 くそぅ、書き直しかよ……。

 できたてホヤホヤの始末書を誤って提出しないように大きくバツ印を書き込む。間違ってこれを提出しようものなら副隊長に怒られる。教育係である愛梨にも怒られる。

 これを書くのに時間が掛かったんだけどな。

 しかし誤字ってしまったものは仕方ない。気づかなかったと突っぱねるにもバツ印を入れてしまったから提出はできない。もしもこれを提出したら大目玉だ。

 新しい用紙を取りに行くために俺は椅子から立ち上がる。

 それと同時に指令室のドアが勢いよく開いた。

「隊長! 機動隊から救助要請です!」

 支援部隊の隊員に呼び出された姪乃浜は椅子から飛び上がって指令室へと駆け込んでいった。

 まだ出動指令は下されていない。

 しかし救助要請が来たということは出動になる可能性が高い。

 SSTの全員が書類を片付けると椅子から立ち上がり、それぞれ思い思いに体のストレッチを始めた。

《ビ――――――!》

 しばらくするとブザーが鳴り響いた。

 俺たちにとっては聞きなれたアラートだ。

《出動指令。東諸県ひがしもろかた郡、綾町。山岳作戦第三出動》

 SSTの隊員たちはその放送を聞きながら隣の指令室へと駆け込んでいく。警察学校の初任科生たちは戸惑いながらも俺たちに続いた。

 困惑するのも当然だろう。彼らは初めてこの基地に見学に来た。それにまだ警察署に配備されていないどころか交番実習も終わっていないのだから。

 当然、警察学校でも緊急招集のブザーは鳴ったりするのだろう。

 しかし今回のは訓練ではなく本物の出動指令。グラウンドに集合してランニングするだけでは済まない。その先には人間の死体が転がっているかもしれない。この中の誰かが戻ってこないかもしれない。この先にあるのは訓練ではなく本物の戦場なのだ。

「……よし、揃ったな」

 出動するSST隊員と見学の初任科生の全員が指令室に揃ったことを確認すると姪乃浜が状況の説明を始めた。

「作戦展開中の機動隊員が負傷して身動きがとれなくなった。今回はその部隊の救出だ」

 俺たちはヤンデレと正面からドンパチするだけじゃない。

 あらゆる状況下で隠密行動を行う訓練もやっている。ヤンデレに誘拐された民間人の救出訓練だってやっている。俺たちSSTは何でもできる部隊なのだ。

 これから送り込まれる任務はヤンデレと戦うのではなく味方の救出。当然これも普段から訓練を積んでいるから不可能な作戦ではない。

「順を追って説明する。今回のヤンデレ事案は観測隊が昼前に探知。現場の綾町に第1戦闘班、通称、特殊1を投入した。作戦開始地点は南俣の広沢だ」

 姪乃浜は机に広げられた地図の小さな集落を指さす。

 近くには水色の空白地帯と『広沢ダム』の表記。

 現場はそこから南に1500メートルといったところか。

「到着して作戦を開始したがヤンデレは人質を取って小林市のほうに逃げて行ったそうだ」

 小林市とは綾町のすぐ隣にある自治体だ。

 姪乃浜はその自治体に向けて地図をなぞる。

「ヤンデレは馬に乗っていてリボルバー拳銃を所持していたと報告が上がっている」

 リボルバーだと?

 それに馬に乗っていた?

「ヤンデレ追跡のために特殊1は小林市へと移動を開始。そして増援のために機動隊を輸送していたが川中自然公園でヤンデレ事件が発生。機動隊はそちらへ投入した」

 再び姪乃浜は地図を指さした。

 ん?

 おかしくないか?

「姪乃浜、ヤンデレは小林市の方向に向かったんだよな?」

「ああ、報告によれば確かに小林市方面の山の中に入っていったそうだ」

「だけど直後に自然公園でヤンデレ事件が発生したんだろ?」

「その通りだ」

 話がおかしい。

 小林市は作戦開始地点の西側だ。

 それに対して新たにヤンデレが発見された場所は作戦開始地点の北側。しかも3500メートル離れている。

「自然公園での発見はいつ?」

 姉ちゃんが姪乃浜に質問した。

「広沢での発見から十五分後だ」

 小林市を経由して北上したにしては早すぎる。そのルートには道という道がない。険しい山岳地帯だ。

「自然公園にいたヤンデレはライフルを使用していて馬に乗っていたという報告がある。同じヤンデレによるもので複数の凶器を使用していると考えるのが妥当だろう」

 どうやってそんな短時間で移動できたのか疑問が残るが、両方とも馬に乗っていて銃器を使用していたとすればそのように考えるのが普通だろう。

「話は戻るが自然公園のヤンデレは北上を始めた。さらに増援のために別の機動隊を送り込んだが、今度は竹野地区にヤンデレが出現した。そのうえ綾町の全域にわたって大規模なヤンデレワールドが観測されている」

 変だぞ。

 竹野地区は自然公園から東に四千メートルだ。

 なんであちこちにヤンデレが出現するんだ。

 相手はプロのゲリラか?

「分かった。今回は長丁場になりそうだね」

「ヤンデレの精密な位置を特定できていないのが現状だ」

 ここまで広範囲で一撃離脱ヒットアンドアウェイを繰り返されたのであれば面倒だろう。

 しかも現場は山岳地帯ときた。

 馬に乗っているとはいえ移動が困難な地形でなぜヤンデレが広範囲で出没しているのか不思議だ。しかし目撃情報が上がっていて実際に戦闘が行われているのであればそれを信じるしかない。

 そもそも俺たちの存在自体が不思議なものだからな。

 恋愛成就を支援して少子化を防ぐという愛情保安庁の任務は分からないこともない。しかしヤンデレと実際に戦闘を行う特殊部隊があるだなんて、日本にはそれを信じるやつはいないだろう。

「しかしまずは負傷した機動隊員の救出を優先する。要救助者は自然公園から北東に1000メートルの地点で左足を骨折。ヤンデレが広範囲で発見されていることから包囲されていると考えたほうがいいだろう。現地の戦力で脱出できないことはないが奇襲を受ける可能性が高い。自力で脱出せずに防御陣地を構築して待機したほうがいいと判断したそうだ」

 一人の負傷者を搬送するには最低でも二人は必要と言われている。つまりそれだけ戦闘力が減るということだ。それに森の中であるということで移動は困難だろう。しかもヤンデレの勢力下でいつ遭遇するか分からないため下手に動けないのだ。

 ヤンデレ鎮圧の目途が立っていない今の状況では、ヤンデレを鎮圧するよりも救助を優先するのは当然のこと。

「市街地への侵入を防ぐために他の部隊をかき集めて防衛線を構築しつつあるのが現状だ」

 ある程度の戦闘訓練を受けている一般部隊を招集し、さらには他の市町村を担当している機動隊まで呼び寄せているそうだ。

 最低限の人数を残して県内の戦力をこの現場に投入。そしてヤンデレが侵入すると大規模な被害が見込まれる市街地へと展開し防衛をしている。

 民間人への被害を食い止めるのが先決だ。

「繰り返すが今回の任務は負傷した隊員一名を含む機動隊員五名の救出だ」

 俺が言うのもアレだけど、特殊な状況での戦闘に関してはSSTのほうが遥か練度が高い。相手の位置が特定できていない状況下で多人数のチームで救助に向かうのは自殺行為。山に潜伏する元グリーンベレーランボーを捕らえるために普通の州兵を差し向けるようなものだ。

「救助目標の位置は綾町の照葉大吊橋から北に800メートル。山頂から100メートル南下した場所だ」

 姪乃浜は机に転がっていた赤マジックで地図に印を書き込んだ。

「照葉樹林文化館の付近は使えそうにないね」

「そうだな。現在はヤンデレの勢力下と考えてもおかしくはない」

 機動隊員が遭難しているのは森の中だ。

 周囲で最も開けているのは照葉樹林文化館の駐車場。そこにヘリで乗り付けて吊橋を渡り森に進入し、さっさと遭難者をさらって引き返してヘリに放り込めば作戦は一時間とかからずに終了するだろう。

 しかしそのエリアで最も目立つ場所が照葉樹林文化館でもある。

 綾町市街地にはまだヤンデレが侵入していないようだが、森林の中にあるその建物はヤンデレの勢力下であると考えるのが妥当だろう。残された機動隊や緊急招集された一般部隊によって市街地の防御は強固なものとなっているが、いつヤンデレに襲撃されるか分からない森林エリアへの展開は困難なものとなっているのだ。

「救出目標から遠いところに展開したほうが良さそうだね」

 飛んでいるヘリを目撃されて戦力を集中される可能性がある。俺たちが展開中に攻撃されるのは構わないが、負傷している機動隊員の近くでドンパチするわけにはいかない。なるべく遠くに展開し、そこから徒歩で移動して確保するべきだ。

「よし。福岡から観測機を借りてこよう」

「観測機なんて呼んでどうするんだ?」

 ヤンデレワールドの探知には地上の観測基地と同時に航空機による空からの観測も行っている。軍隊でいうところの早期警戒管制機AWACSみたいなものだ。

「今回は高高度からの空挺降下による潜入作戦を行う」

「パラシュートだと?」

「大規模なヤンデレワールドが観測されていることからどこにヤンデレが潜んでいるかわからない。竹野地区のヤンデレはヘリが見つかって迎撃された可能性がある」

「つまりヤンデレワールドの範囲外から敵地のど真ん中に降下するわけか」

「そういうことだ」

 おいおい。

 訓練は受けているが実戦で空挺降下をするのは初めてだ。

「宗太郎、できるな?」

「やるしかねぇだろ」

 山の中で味方が助けを求めている。

 通常部隊で対処できない作戦を実施するために設置されているのが特殊部隊であり、それが俺たちの任務だ。どのような状況であっても特殊部隊が助けに来てくれる。そのような信頼関係が彼らの士気の上昇にもつながるのだ。

「よし。それじゃあありさ、作戦を頼む」

 姪乃浜から話を引き継いで、姉ちゃんはそばに置いてあったマジックペンを手にした。

「救助目標の北西2800メートル地点にHALOヘイロー降下を実施する。この地点をポイントアルファと呼称する」

 姉ちゃんは広げられた地図に赤いバツ印を入れて『A』と書き込んだ。遭難者から3キロも離れていれば万が一降下するところをヤンデレに見られたとしても救助目標を巻き込むことはないだろう。

 さらに距離的な話をすれば訓練とは比べ物にならないほど短い。訓練では数日間の活動を想定した上に負荷をかけるために重量物を背負って数10キロを移動するが、それに比べれば3キロなんてちょっとした遠足だ。

 それと姉ちゃんが言った『HALOヘイロー降下』というのは『高高度降下低高度開傘High Altitude Low Opening』という降下方法だ。要するに地上からは視認できない10000メートル程度の高高度から輸送機を飛び降りて自由落下を行い、300メートル以下の高度に達したらパラシュートを開くというものだ。地表ギリギリで開傘するから降下中に発見される可能性を下げられるというメリットがある。

「そのあと南東に2500メートル移動。ここをポイントブラボーとする」

 赤いラインがまっすぐに引かれる。

そして付近に『B』の印。

 進撃方向の左手には綾北川が流れている。その河川に沿うようにして移動するのだ。

「ポイントブラボーから600メートル南下した地点をポイントチャーリーとする。ここで機動隊と接触」

 ポイントブラボーから伸びた線は事前に姪乃浜によって記入された印の元へと吸い込まれた。ブラボーまでは斜面を横切るように移動してきたが、チャーリーへ移動するためには結構えげつない斜面を登って山頂を突破しなければならない。

「機動隊を保護したあとはヘリで回収してもらう。回収地点はここ」

 そういって姉ちゃんは三つの丸を付けた。

 一つめはポイントデルタ。チャーリーから600メートル南下したのちに照葉大吊橋を渡った先にある照葉樹林文化館の駐車場だ。

 二つめはポイントエコー。本庄川の開けた場所だ。位置としてはポイントデルタから1000メートル南東に下ったところだが、谷底だから戦闘するには不利な地形となる。

 三つ目がポイントフォックストロット。こちらは東方向に突っ走った先。ちょうど第三波で送り込まれた機動隊がヤンデレと接触した竹野地区だ。すでに展開している機動隊と合流して戦力の増強を図る作戦なのだろう。俺たちの作戦は隠密行動でヤンデレに発見されないのがベストだ。しかし最悪の状況も想定しておかなければならない。万が一ヤンデレに発見され交戦状態に陥った場合や逃走しても振り切れなかった場合にこちらを採用するのだろう。

「負傷者の容態が安定していればポイントエコーで回収してほしい」

「分かった。念のためポイントデルタは都城から機動隊を連れてきて確保しておこう」

 負傷者の回収地点から最も近いのがポイントデルタだが、そこは森林の中にぽつんと建てられている文化館がある。目立つ場所だから俺たちがそこに移動するだろうとヤンデレは考えて待ち伏せをする可能性が高い。

 負傷者の容態が悪く一刻も早く搬送をしなければならない状態ならばポイントデルタを使用するのは仕方がない。しかし負傷者を背負ってヤンデレの勢力下を踏破しなければならないが、安全かつ確実に任務を達成するためにはその労力を惜しむわけにはいかない。

「移動距離は長く見積もっても6000メートルか。そんなに時間はかからないな」

 食料や着替えは持っていく必要はなさそうだ。

 最悪、蛇やウサギを捕まえて食えばいい。

 装備は迷彩服と弾帯とブッシュハットの基本的は服装に加えて89式小銃とUSP。それぞれの予備弾倉と減音器サプレッサー。コンバットナイフに破片手榴弾グレネード発煙手榴弾スモークグレネード。それからメディカルキットとその他もろもろ。

 おっと、念のために動物を調理するための携帯燃料も持って行かないとな。

 作戦開始まであと1時間と数10分。

 俺たちは指令室を出て倉庫に入り、装備品の確認を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る