第3想定 第3話

 体育館に生徒たちの拍手が沸き起こる。

『以上、株式会社高城工業にて代表取締役を務める高城社長の講演でした』

 司会を務める教師のアナウンスを聞きながら講師として呼ばれた地域の会社の社長が謙遜するように片手を掲げる。

『うちの高校の3年生は半分が卒業と同時に就職しています。高城工業さんには去年の卒業生を採用して頂きましたが、みなさんの先輩が会社にどのように貢献しているかを経営者の視点から教えて頂けたことは貴重な経験になったと思います。もう一度、高城工業の社長さんに盛大な拍手を送りましょう』

 ここ家鴨ヶ丘高校は商業高校だ。

 進学校であればほとんどの生徒が進学することだろう。日向市内に進学校は自称進学校の財光寺高校しかないが、そこの学校の卒業生は卒業と同時に就職するのは1、2人程度らしい。

 しかし全国的に商業高校は進学せずに就職を選択する生徒が多くいる。

 そういう背景もあり家鴨ヶ丘高校では就職カリキュラムの一環として全生徒を体育館に詰め込んで就職関係の講演会を定期的に実施しているのだ。卒業生を呼んでどのような仕事をしているとか説明してもらったり、職業安定所や民間の転職エージェントから講師として招待することもある。

 今回の講演会では日向市内でかなりの知名度を誇る『株式会社高城工業』から社長がやってきた。この会社は日向市や近隣市町村の資源ごみや産業廃棄物の処理。つまり燃えるごみ以外のゴミを処理している企業だ。俺も何度か粗大ごみを処分するために姉ちゃんの車でついて行ったことがある。

 そしてここ家鴨ヶ丘高校から毎年1人が就職している会社でもある。

 講師として招かれた高城社長は会社の背景として市内のゴミ処分場の問題を説明したうえでいかにリサイクル業界が地域に必要とされているかを熱弁していた。そこからどのような動機で卒業生が就職しどのような仕事を担当しているか。そして今後どのような仕事を任されるようになるのかという将来のビジョンを説明していった。

 壇上では生徒会の役員と思われる生徒が高城社長に花束を贈呈している。そしてそのマイクに一言吹き込むと校長の誘導の元に体育館を退出していった。

 講師が退出した体育館ではそのまま簡単な全校集会が行われた。生徒指導部や進路相談室といった各部門の教師たちがマイクで連絡事項を伝えていき、最後に教頭が総まとめをしてイベントの全てが終了。

 今日は学級に戻ってのホームルームはない。

 生徒会役員の誘導のもと生徒たちはクラスごとに体育館を退出していく。

 教室に向かって移動する人混みのなか、1人で歩く舞香の姿を前方に発見した。

「舞香」

「あ、宗太郎」

「今日もこの後は部活だろ?」

「うん。でも明日の午後はちゃんと休みだから」

「分かった」

 今日は金曜日。

 そして明日の土曜日は学校は休み。

 しかし部活に励む高校生にとっては部活の練習日だ。

 県内有数の強豪である吹奏楽部は当然のように練習が行われる。

 弱小チームとはいえ俺が所属している野球部も練習の日だ。

 しかし明日はどちらの部活動も午前中で練習は終わり。どうやら教師たちに何かの会議が入っているらしい。

 休みの日まで仕事するなんて高校教師って大変だなぁ。

 ブラック度合いで言えばSSTといい勝負かもしれない。

 まぁ教師の休日出勤なんて俺にとってはどうでもいい。

 最近は舞香と休みが合う日がなくてデートに行く機会がなかった。

 それに明日は日向市でイベントがある。

 部活動が午前中で終わりというのは俺たちにとって都合が良かった。


 日が変わって土曜日。

 吹奏楽部と野球部のそれぞれの練習が終わった舞香と俺は校門で待ち合わせ。合流したのちに俺の自宅にり移動し、俺は部活で汚れた体をシャワーで洗う。舞香は俺の自室で学校指定のジャージから私服に着替えている。隠しカメラがあるんじゃないかと疑っていた彼女だったが俺はそんなことはしない。

 準備を終えた俺たちは奮発してタクシーに乗って細島工業港に来ていた。

 港湾には海上自衛隊の汎用護衛艦が停泊している。太陽に照らされて輝くねずみ色の船体。艦首部分には『107』の艦番号。76ミリの速射砲と20ミリのバルカン砲が堂々とたたずんでいる。

「吹雪型駆逐艦の23番艦にいかづちって駆逐艦があるんだよ。人によっては特型駆逐艦とか、より精密に暁型3番艦とか特Ⅲ型とかいうけどな。それでその雷が1942年3月1日のスラバヤ沖海戦で僚艦と協力して英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープを撃沈する。それで次の日の3月2日。雷は漂流していたエクセターとエンカウンター乗組員を発見。のちに中佐に昇進するんだが、当時雷の艦長だった工藤俊作少佐はこの敵の漂流者の救助を指示。雷は停船して救助活動を開始する。その海域は数日前に味方輸送船が潜水艦に撃沈されるほどに危険な海域だったにも関わらずな。しかも一番砲要員以外を救助活動に向かわせた。水兵たちは命令を無視して海に飛び込んで重傷者を助けるし、しかも最後には内火艇や魚雷搭載用のクレーンを使ってまで吊り上げるんだ。それに遠くに漂流している遭難者まで船を近づけて助けたそうだ。そして食料を分けて器用な軍曹がミシンを使ってぼろ布で褌を作るんだ。話は逸れるがそれに喜んだ英兵は衣服を脱ぎ捨てて全裸で褌が配られるのを待っていたそうだ。フル〇チンだぞフル〇チン。大の男たちがち〇こをぶらぶらさせながら甲板に並んでいたんだって。雷の乗組員は200名ほど。それに対して救助した英兵は422名。倍の人数を救助したわけだ。そして一番すごいのが敵兵救助を指示した工藤艦長も乗組員も、誰もこのことを一切人に言っていなかったことなんだ。このエピソードがなぜ有名になったかというと救助されたサムエル・フォールという元海軍中尉で元外交官の男が工藤艦長を探していたんだ。彼が探し当てたころには工藤艦長はすでに他界していたが元海上自衛官の人間に依頼して墓を探し出す。そして数年後、駐日イギリス大使館の職員や自衛隊員に付き添われて墓参りをする。それは六十六年ぶりの再会で日本中にこの話が知られるんだ。それがフジ〇レビの『奇跡体験アンボリバビー』で再現ドラマ付きで紹介された。その再現ドラマの撮影で使われたのがこの護衛艦で、しかもフォール卿は訪日したときにこの艦を訪問したんだ」

 舞香はぐったりとしている。

 長蛇の列に並んでいるのに疲れたのだろう。

 それにまだ気温が高いというのもあるだろう。秋になったとはいえまだ夏の暑さが残っているからな。

 よし、もっといろいろ話をして元気にしてやろう。

「『敵兵を救助せよ!』って工藤艦長の伝記があるんだけど俺は三冊持っているぞ。そうそう、工藤艦長を語るうえで欠かせないのが上村彦之丞ひこのじょうという海軍大将だ。こっちは日露戦争で活躍した軍人だけど蔚山沖うるさんおき海戦を指揮して勝利する。当時中将だった上村は沈みながらも砲撃を続けるロシア巡洋艦リューリクを見て、「敵ながら天晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令して627名を救助させた。このことが国民に伝えられると彼らは上村を称賛して『上村将軍』という歌を作ったんだ。話は戻って工藤艦長は幼少期に祖母から子守歌代わりに――」

「ねぇ宗太郎、別に私って冷たいわけじゃないんだけどさ」

「なんだ?」

「人を黙らせたいときってどうすればいいの?」

「1発ぶん殴ればいいんじゃないか?」

「………………」

「舞香、もしかしてイラついてる? 便秘か?」

 彼女は無言で俺の足を踏みつけた。

 はは~ん。

 分かったぞ。

 舞香はきっと生理中なんだろう。それに加えてこの長蛇の列やこの日差しでイライラしているのだろう。

 だけど俺は「生理中なの?」なんて馬鹿なことは聞かない。

 俺はデリカシーのある男だからな。

 せっかく上村彦之丞大将の話が出たから、日露戦争繋がりで広瀬武夫中佐の話もしたかったんだけどな。

 広瀬中佐とは同じく日露戦争時代の軍人で旅順港閉塞作戦に参加した海軍将校だ。閉塞作戦というのは敵の軍港の入り口に大型船舶を沈めて敵の軍艦を閉じ込める作戦のことな。彼はその第二回閉塞作戦で閉塞船福井丸を指揮して突撃したが敵の魚雷を受けてしまう。乗組員は離艦するが、自沈のための爆薬に点火しに行った部下の上等兵曹が戻ってこない。それに気づいた広瀬中佐は沈んでいく福井丸に戻って捜索する。しかし残念なことに部下は見つからず彼は救命ボートに戻るが、その時にロシア軍の砲撃が頭に直撃して即死した。

 そんな彼の人格を称えて『広瀬中佐』という歌がのちに作られた。

 俺がまだ小さい頃。じいちゃんがよく子守歌で『上村将軍』も『広瀬中佐』も歌ってくれたものだ。

「………………」

 気が付くと舞香に睨まれていた。

 え?

 俺が考えていることが分かるの?

 というか頭の中で考えることもダメなの?

 まぁそれなら仕方ない。

 順番が来るまで護衛艦を眺めておくか。

 俺は左を向いてその巨体に塗装された艦番号を見つめる。

 守るも攻むるも黒鐵くろがねの浮かべる城ぞ頼みなる。

 むらさめ型護衛艦の7番艦、いかづち。

 横須賀に司令部を置く第1護衛隊群第1護衛隊に所属するこの船は広報と物資の補給のためにこの細島工業港に寄港しているのだ。

 ちなみに俺の母ちゃんは海上自衛官。母親の乗る船が日向市に寄港するということで、地方協力本部の知り合いの広報官が教えてくれたのだ。

 白地に太い黒線が入った三角形の旗。

 いわゆる不在旗はマストに掲揚されていない。

 つまり艦長がまだ艦内にいるということだ。

「それで対空戦闘発令したのに「ハープーン戦、用意!」って艦長が言い出してさ~」

 会話が聞こえてきた。

 一人は宮崎地方協力本部日向地域事務所の広報官。今日の見学に招待してくれた人だ。それでもう一人がどうやら上陸から帰ってきた隊員のようだ。

 それにしても艦長のやつ、そんなミスしたのかよ。

 会話に出てきた「ハープーン」というのは米国製の対艦ミサイル。ちなみに「ハープーン」とは「捕鯨用の銛」という意味だ。対艦攻撃用のミサイルであって、どう頑張っても対空戦闘には使えない。ちなみに『いかづち』が装備している対空ミサイルは発展型シースパローESSMな?

「こんにちは、海老津1曹」

「お、宗太郎君、久しぶりだね。デート?」

「まぁそんな感じです」

 知り合いの広報官に話しかける。

「母ちゃんはどこいますか?」

「さぁ? まだ艦の中にはいると思うけどどこにいるかはねぇ……」

 あらかじめメッセージを入れておけば良かった。

 今日見学に行くって。

「親がこの艦で勤務しているのかい?」

 そう尋ねてきたのは海老津1曹と会話していた男性隊員だった。彼も同じく一曹だ。

「はい。母親がお世話になっています」

「そうなんだ。親子2代で海上自衛官になるといい」

 似たような仕事はしているけどな。

 戦死した数は俺のほうが上だけど。

「お母さんの部署は?」

「今はよく分からないんですけど昔は砲雷科だったそうです」

 艦長の職種って何になるんだろう。

 海上自衛隊のことはよく知らないんだよな。

 もしかしたら艦長まで昇進したら職種という概念はなくなるのかもしれない。

「俺と同じだ。俺はそこで射撃管制員をしている」

 ということは母ちゃんの部下か。何の射管なのかによるが彼と母ちゃんの間には砲雷長。そしてその下に砲術長なり水雷長なりの尉官がいると思うけどな。

「それじゃあ緒方2曹によろしく」

「いや、俺は上岡ですよ」

 誰だよ、緒方1曹って。

「え? 上岡?」

「はい。上岡です」

「上岡って砲雷科員いたかな?」

「今も砲雷科かどうか分からないんですけど……」

「職種が変わるってことはよっぽどなことがないと無いからなぁ。上岡、上岡……砲雷科の上岡……え!? 」

 その苗字に心当たりがあったようで驚きの声をあげた。

「もしかして艦長の!?」

「……どうも、上岡2佐の長男です」

 気まずそうに俺は母親の正体を明かした。

 目の前の射撃管制員の隊員は「嘘ぉ……」とでも言いたげな表情をしている。

「……さっきの会話、聞こえてた?」

 苦笑いするしかなかった。

 俺だって気まずい。

 あの距離で聞こえないわけねぇじゃねぇか。

 適当にごまかしながら、海老津一曹にパンフレットを貰い、タラップを上って船に乗り込む。

 大丈夫、母ちゃんには黙っておくよ。

 男同士の固い約束だ。

 もしもバラしたらピストルで頭をぶち抜いてやる。

「ねぇ宗太郎、「ニサ」ってなに?」

「2等海佐。海外の海軍でいうところの中佐だ」

「……もしかして宗太郎の家って凄い家系?」

「どうなんだろうな」

 母ちゃんは護衛艦の艦長で2等海佐。

 簡単にいうと姪乃浜と同じ階級。指揮官の威厳では母ちゃんのほうが上だけどな。少なくとも部下に雑用を押し付けられるようなことはないだろう。

 話が逸れたが父親は海上保安庁の巡視船船長。階級は1等海上保安正。海外の軍隊で言うところの大尉から少佐クラスだ。

 それに加えてその子供たちは愛情保安庁とかいう秘密組織の特殊部隊に所属する少尉と2等兵。まぁ自分で言うのもなんだがそこそこのエリート家系なのかもしれない。

 乗艦すると見学順路に従って艦尾方向へと歩く。

「宗太郎、これって何?」

 舞香が指を指したのは三つの筒が合体した装置。

「これは短魚雷発射管」

「魚雷ってまだ使われているの?」

「昔は水上艦を攻撃するために使われていたけど、今では三次元機動ができるようになって潜水艦攻撃のために使われているな」

 ちなみに水上艦艇や航空機が装備しているものが短魚雷。射程が短く威力も小さいが潜水艦を攻撃するにはこの程度の破壊力で十分だ。そして潜水艦が装備しているものが長魚雷。射程が長く威力は短魚雷とは比べ物にならない。駆逐艦クラスの船が被雷すれば真っ二つにへし折られてしまう。下手すれば轟沈するかもしれない。

 俺たちは構造物の外側に設置された急な階段を登る。

 上った先には別の兵装が設置されている。

「そしてこいつが対艦ミサイルの発射筒。この中には90式とハープーンが入っている」

「私、ハープーンなら知ってる」

 舞香が食いついてきた。

 ミリタリーなんて全然興味なさそうなのにな。

「『亡国のイージス』って映画でテロリストに占領された「いそかぜ」が「うらかぜ」を沈めるために発射したやつでしょ?」

「そうそう。ちなみに撃沈された「うらかぜ」の撮影で使われた護衛艦がこの「いかづち」な?」

 舞香は驚いたような表情になった。

 聖地巡礼というか、その聖地が向こうからやってきたようなものだからな。

「劇中ではハープーンをシースパロー……Mk48VLSから垂直発射するタイプのRIM‐7で迎撃していたがなぜか一発しか発射されていなかった。対艦ミサイルに対しては複数の対空ミサイルで迎撃するのがセオリーで、さらにむらさめ型のイルミネーターは二発同時誘導が可能なのになぜか発射されたのは一発だけだった。それにチャフが間に合わないと言っていたが本来は自動射出されるはずだ。むらさめ型に搭載されている電波妨害装置ECMはNOLQ‐3。こいつは電波探知機ESMと従来のECMを一体にして開発されたものだ。ハープーン攻撃を受けた時点で「ESM探知」と言っているからECMも機能している。それにNOLQ‐3はワンマンコントロールによる自動運用が基本。対艦ミサイルの識別と妨害を自動で行うことが――」

「宗太郎、もういい」

「いや、話はまだ――」

「もういいから」

 舞香はずんずんと進んでいき次の階段へと足を掛ける。俺はあとを追うが彼女は振り返ることはない。そしてさらに次の階段を登り始めた。

 映画では敵艦から発射された1発目のハープーンを主砲を使って至近距離で撃墜していたが近接防御火器システムCIWSが動作していなかった。本来あの距離にミサイルが接近したらCIWS、いわゆるバルカン砲で迎撃する。撃墜したときの爆発炎の位置からしてCIWSは仰角を取って射撃するはずだ。しかし砲身と共に動く白いレドームはミサイルを撃墜したときに垂直に立っていた。ミサイルに対して射撃をしているのであれば仰角を取るからレドームも傾くはずなのに映画では垂直なまま。つまり対空目標に対して射撃を行っていないと推測できるのだ。

 その話もしたかったが舞香は先に進んで行ってしまった。

 それに彼女が素通りしたMk137チャフ散布装置の説明もしたかったんだけどな。

 こうなってしまっては仕方ない。舞香は変わっているところがあるからな。

 仕方なく俺は彼女の後を追って階段を登る。

 階段を登った先は艦橋横のウイングだった。

 振り返ると二基の煙突。

 高くそびえるマスト。

 出港前には必ず点検するらしいが、あの上には登りたくないなぁ。

 外の景色に満足した俺たちは艦橋の中に入って設備を見学する。飛行甲板の様子を映しているモニターに航行用レーダーのモニター。ぐるっと一周して正面の窓の前に行くと目の前にはファランクスCIWSのレドームが見える。こんなに近くで見るとファランクスって結構デカいんだな。

 後から来た見学者で艦橋が混んできた。

 そろそろ次の場所に行こう。

 次は艦橋の下か。

 掲示されている順路の矢印に従って舞香は艦橋奥にある階段を下っていく。

「!」

 護衛艦の階段は急なものだ。

 彼女は足を踏み外して階段から落下した。

「大丈夫ですか!?」

 下にいた自衛官たちが転倒した舞香を引き起こす。

「舞香! 大丈夫か!」

 俺は階段を駆け下りて彼女の元へと駆け付ける。

 接地した衝撃で足首を痛めているかもしれない。それに加えて階段を滑り落ちるように落下したから脚を打撲しているかもしれない。

 彼女の元にたどり着くと俺の名前を呼ばれた。

「宗太郎?」

「え?」

 俺の名前を口にしたのは舞香ではなかった。

 それは自衛官であり、嫌というほどよく知っている人物。

 やばい。

 やばいよ。

「……母ちゃん」

 一番驚いているのは舞香だった。

 彼女は俺と母ちゃんの顔を交互に見ている。

「あんたの彼女?」

「……まぁそんなとこ」

「なんで女の子を先に降ろさせるの!?」

「だって舞香が先に行くんだもん」

「それを予想して先回りしなさい!」

 親に怒られるというのは珍しいことではない。

 しかし今回に限っては勘弁してほしかった。

 気まずそうな周囲の隊員。

 何があったのだろうと野次馬根性丸出しで聞き耳を立てる一般見学者。

 そして激痛に耐えながらもニヤニヤと顔を歪ませている舞香。

 こんな衆人環視のなかで説教なんて何の羞恥プレイなのだろうか。

 というか彼氏がそんな辱めを受けているというのに、なぜ舞香は喜んでいるんだ。アンタのサディズムは激痛を上回るものなのか?

 しかしその羞恥プレイ説教はすぐに終わった。

 なぜなら最優先で対処しなければならない患者がそこにいるから。

「艦長、そちらの方を医務室に連れて行きます」

「いや、私が連れて行く。相原一曹は医務室へと連絡をいれておけ」

「了解」

「それと私はしばらく配置を離れる。息子に説教しないといけないから」

 嘘だろ。

 まだ怒られるのか。

 観客は減るのは救いだった。

 だけど俺が母親に怒られる姿を見て舞香がまた喜ぶんだろうなぁ。

 舞香って思っていた以上のサディストなのかもしれない。


 俺は舞香を背負い、母ちゃんに連れられて医務室へとやってきた。

 患者をベッドに寝かせると衛生隊員がやってきて彼女の靴と靴下を脱がし、状態を確認する。

「症状はどうだ?」

「靭帯を痛めているかもしれません」

 こんな小さなむらさめ型護衛艦には医師免許を持った医官は乗艦していない。そもそも医官が乗艦するのは砕氷艦や練習艦のような数か月に渡って行動するときや災害派遣の時だけだ。

 舞香の治療にあたったのはまだ若い三等海曹。しかし医療に関する教育を受けている。医師免許がなくても分かるほど症状が悪いのかもしれない。

「すぐに病院に行ったほうがいいでしょう」

「分かった。応急処置にかかれ」

 母ちゃんは衛生隊員に処置を命じると、艦内電話の受話器を外してどこかに電話をかけ始めた。

「こちら医務室。艦長だ。見学者が負傷した。緊急性はないがすぐに搬送する必要がある。地本から車と人員を借用できるか確認せよ。同時に受け入れ可能な病院を探せ。負傷者は左足首靭帯を損傷していると思われる。現在応急処置中」

 受話器を元の場所に戻すと、母ちゃんは舞香に話しかける。

「うちのバカ息子がごめんね。宗太郎って人を思いやることとかできないから」

「いえ……大丈夫です」

 そういえば舞香と俺の母ちゃんが会うのって初めてだよな。舞香が俺の家に来たことは数回あるが、そもそも母ちゃんはほとんど家に帰っていない。いつも海の上だし、停泊地は横須賀だしな。

「名前はなんて言うの?」「宗太郎に変なことされてない?」と舞香は質問攻めにあっている。人見知りの傾向がある彼女はやや引いている様子だ。

 舞香はときおり俺に救援を求める視線を送ってくる。

 へへへっ。

 ざまぁ。

 さっき俺が怒られて喜んでいたんだから、いまさら助けてやんないよ。

 そんな二人の様子を見ていたら艦内電話が鳴り響いた。

 先ほどの指令の報告だろう。母ちゃんが質問攻めを中止して受話器を取った。

「こちら医務室。艦長だ。…………了解。負傷者はこちらで艦外に搬出する。地本から車が来たら報告せよ」

 受話器を再び元に戻すと舞香へと向き直った。

「舞香ちゃん。近くの総合病院が診察してくれるって。自衛隊の車が向かってるからね」

 近くの総合病院ということはおそらくあの病院だろう。日向市で最もデカいショッピングモールのすぐ隣に最近移転したあの病院だ。

「誰か家の人に電話できる?」

「たしか家に誰かがいたと思います」

「親御さんに報告しないといけないから電話してもらえる?」

 舞香はバッグから取り出した携帯電話を操作して自宅へと電話をかけ始めた。いや、この時代は固定電話を設置していない家もある。親の携帯に電話をかけているのかもしれない。

「あ、お母さん? ……うん、日向市にいる。いま自衛隊の船に乗っているんだけど、宗太郎のお母さんが話したいって」

 舞香が差し出した携帯を母ちゃんが受け取って耳に当てる。

「お電話替わりました。私、海上自衛隊護衛艦『いかづち』の上岡と申します。……はい、息子がお世話になっています」

 どうして母親同士が電話をすると声が高くなるのだろうか。長年の疑問だ。

「実はお宅の舞香さんが階段から転落して怪我をしてしまいまして。……はい。骨折したというわけではありませんが、本艦の衛生隊員の話では靭帯を痛めているかもしれません。これから最寄りの病院に搬送します。……はい、千歳病院の外科が診察してくれるそうで。はい、日向市の千歳病院です。……すみません、お手数おかけします」

 携帯を返してもらった舞香は少し会話をしたのちに通話を切断した。

「舞香ちゃんって延岡に住んでいるんだね。毎日電車で日向まで通学するの大変でしょう」

「いえ、今の学校に進学したかったので」

 舞香は照れくさそうにそう答えた。

 俺たちが通っている家鴨ヶ丘高等学校は商業高校だ。

 わざわざふたつ隣の日向市に出てこなくても舞香が住んでいる地域にも商業高校はある。たしかに俺たちの高校よりも勉強は難しいことで有名だが、彼女の成績であれば何の問題もないどころか成績上位者にランクインできるだろう。

 うちの高校がその延岡市の商業高校より優れている点があるとすれば、それは吹奏楽部が強いことぐらいだろう。一応県立高校だから他県から優秀な演奏者をスカウトしてきて寮にぶち込むようなことはしていない。しかしうちの高校の吹奏楽部が九州大会の常連校であることは宮崎県で吹奏楽を嗜んでいる人間ならば誰でも知っているし、『宮崎県の吹奏楽界の女神様』の異名を持つ柘植先生が顧問を務めていることも有名な話だ。

 延岡市と日向市はふたつ隣の市だけど、高校生がそれを通学するのは意外としんどい。電車が1時間に1本しか走っていない。それを逃せば遅刻確定だ。

 それでも延岡市からわざわざ通学している生徒は意外と多い。成績の関係でそうせざるを得なかった者も多い。しかし奏楽部では『女神様』から直接指導を受けたいがために他の市町村から出てきている部員がほとんどだ。

 彼女もその信者たちのひとりというわけだろう。

「少し外す」

 俺の母ちゃんは舞香としばらく会話をしたのちに何かを思い出したようだ。衛生隊員の3等海曹にそう告げると医務室を出て行った。

「……舞香、大丈夫か?」

「宗太郎って人の痛みが分かるんだね」

 せっかく心配したというのに舞香はからかうような表情でそう返しやがった。しかも少し拗ねてやがる。母ちゃんの前とは大違いだ。

「俺だって怪我したことぐらいある」

「転んで擦りむいたとかでしょ?」

 残念。

 そんな絆創膏で済むような怪我じゃない。

 ノコギリで首筋を引き裂かれたり、ナイフを脇腹に突きさされたり。

 なんなら怪我を通り越して何度も死んでいるからな。

 普段の訓練でさえ姉ちゃんに関節を外されているしさ。

 言っちゃ悪いが舞香の靭帯損傷なんて俺にとっては軽傷みたいなものだ。

 しかしそれを口にするほど俺は馬鹿じゃない。

 もしもそんな事をすれば普段の調子を取り戻した舞香によって母ちゃんにチクられるだろう。そして俺がさらに怒られる。

 俺は自分の首を絞めるような馬鹿じゃない。

「部活には支障は出ないのか?」

「う~ん、持久走は見学かな?」

 俺の中学校の吹奏楽部では実施していなかったが、家鴨ヶ丘高校の吹奏楽部では肺活量の向上のために持久走を導入している。運動部の部員たちと共に学校の周りをぐるぐると走り回っているのだ。それは運動部から見てもスパルタだと評判。なんなら普通の運動部の部員よりも連中のほうが持久力が高いかもしれない。

「柘植先生には俺からも言っておこうか?」

「ううん、大丈夫」

 自分で説明するから、と舞香は頑なに遠慮する。

 さっきまでは俺をからかって遊んでいたのにな。

 少しは俺を頼ってほしいものだ。

 月曜日には少し早く登校して、こっそり柘植先生に事情を話しておこう。

 あの先生ならば仕方ないと考えてくれるだろうけども、先輩たちから何か言われないだろうか。それも含めて先生にはお願いしておこう。

 舞香の今後の部活動のことを心配していたら医務室の扉が金属音を立てて開かれ、向こうから母ちゃんが入ってきた。

 戻ってきた母ちゃんの手には紙切れが握られている。

「舞香ちゃん、これ病院代。たぶんこれで足りると思うから」

 母ちゃんが手にしていたものは1万円札だった。それは1枚だけではない。福沢諭吉が3人もいた。

「こんなに受け取れません」

「いいからいいから。どうせ宗太郎の小遣いから差し引くから」

 小遣いから差し引くもなにもそんなものは貰っていない。

 愛情保安庁からの給料が出るようになったからな。むしろ生活費を徴収されている。

 それに小遣いがないどころか借金している。

 つまり母ちゃんが目の前で舞香に渡している3万円は俺の借金というわけなのだ。

 舞香は受け取りを固辞していたが、「どうせ宗太郎にデートで奢ってもらったことないでしょ?」という殺し文句にトドメを刺され、「宗太郎のお小遣いから差し引かれるんだったら……」と最終的に受け取っていた。

 舞香って俺が経済的な損失を受けるだけだったら納得するんだな。

「それとこれをお家の人に渡して」

 俺の借入金に続いて白い小さな紙片を差し出した。舞香が受け取ったそれを覗き込むと、そこには長ったらしい肩書きが記載されていた。


 海上自衛隊

 第1護衛隊群第1護衛隊

 護衛艦『いかづち』艦長

 2等海佐 上岡志都美


 母ちゃんの名刺なんて初めて見たぞ。

「延岡だったら消防署の近くに地方協力本部の出張所――自衛隊の支店みたいなところがあるから、なにか困ったことがあったらこの名刺を持ってそこに行って。海に出てるときは連絡はできないけど、どこかに寄港したときに折り返すから」

「あ、ありがとうございます」

 グイグイと押してくる母ちゃんのインパクトに舞香は戸惑っている。

 壁に掛けられた艦内電話が鳴り響く。

「こちら医務室、艦長だ。……了解、これより搬出する」

 電話を切った母ちゃんは別の装置に手をかけて声を吹き込む。

「艦長より各員。これより急患を医務室から岸壁に搬出する。搬出経路を確保せよ」

 それは1対1の艦内電話ではなく、艦の全体へ対する放送だった。

「舞香ちゃん、これから病院に連れていくからね」

「あっはい」

 舞香は慌てて貰ったばかりの名刺を財布にしまい込み、搬送される準備をする。

 ここに来た時のように俺は舞香を背負い、母ちゃんの船頭で岸壁に向けて移動が始まった。

 ただひたすら母ちゃんの後を追うと見学順路に合流した。立ち入り禁止のロープを外して俺たちは進み続ける。所々に配置された隊員が母ちゃんに向けて直立不動の敬礼を送り、母ちゃんはそれに返していく。やがて艦の外へと出てきた。艦を降りようとしていた人たちに道を譲ってもらってタラップを降りる。

 母ちゃんの指示で岸壁で待機していた隊員に合流すると彼に誘導されて自衛隊のトラックへと案内された。

 そこに駐車されていたのはオリーブドラブ色の73式小型トラック。

 協力本部の隊員らしい男性が後部ハッチを開放。

 介助を受けながら舞香が乗り込んでいく。

 そして付き添いのために俺も乗り込んだ。

 旧型の73式は仕事で何回か乗ったことがあるが、新型に乗ったのは初めてだ。

「舞香ちゃん、後遺症が残ったらいけないから入念に診察してもらうんだよ?」

「はい」

「お金のことは心配しなくていいから。足りなかったら追加で融資するからね。どうせ宗太郎の借金だし」

 その冗談交じりの言葉に舞香は控えめに笑いながらも返事をした。

 海上自衛官はみんな冗談が上手いと言われているが、母ちゃんのそれは冗談とは思えなかった。これはガチだ。なんなら手数料をがっつり取られてしまう。

「艦長、それでは搬送します」

 後部ハッチが閉鎖され、すぐに隊員が運転席に乗り込んだ。

 自衛隊のトラックらしくエンジンが唸りながら、俺たちは細島工業港を後にした。


 千歳病院は日向市にある総合病院の1つだ。

 細島工業港から千歳病院は車で10分もかからない。

 到着すると俺は舞香を背負って病院の中に入る。ここまで搬送してくれた地方協力本部の広報官もついてきてくれて両手がふさがった俺の代わりに受付を済ませてくれた。あとは大丈夫と礼を述べて広報官と別れ、俺と舞香は待合室で診察室に呼ばれるのを待っていた。

 20分も待っていると舞香の家族が2人やってきた。

「おばあちゃん……」

「舞香が骨つんもったっち聞いて飛んできたが~」

「階段から落ちただけだって……」

 片方は舞香の母親だ。

 何度か会ったことがあるからよく知っている。

 そしてその隣の老人は舞香の祖母だったらしい。

「あんちゃん、舞香の恋人け?」

「そんな感じです」

「あらぁ~、あの舞香がねぇ~」

 ちらりとその舞香を見てみたが俺から顔を背けていた。

「中学までは引っ込み思案だった舞香に恋人ができるなんてねぇ~」

 ほぅ。

 舞香って中学のときは引っ込み思案だったのか。

 今ではいつものように俺をからかってくるが中学のときはそうだったのか。

 意外なことを聞いたぜ。

 それにしてもこの婆さん、舞香と違ってグイグイくるな。

 本当に舞香の祖母だとは思えない。

「病院で心臓の検査した帰りに寄っとったら軍艦から電話が来たから驚いたが~」

「まぁそうなりますよね」

 ぱっと見た限り舞香の祖母は太平洋戦争を経験していそうな年齢だ。

 海上自衛隊の艦は『護衛艦』と呼ばれているが、昔の癖で『軍艦』と呼んでいるのだろう。

「あ、お母さん。宗太郎のお母さんからこれを貰ったんだけど」

 そういって舞香は財布から小さい紙片を取り出した。

 俺の母ちゃんの名刺だ。

 それを舞香の母親が受け取り、それを隣から祖母が覗き込む。

「なんて書いてあるんね?」

「護衛艦の艦長だって」

「へぇ~、あんちゃんところのお母さん、軍艦の艦長さんね?」

「恐縮です」

「そりゃエリートじゃが~」

 確かに世間一般でいえばそうなのかもしれないけども実感がないんだよなぁ。

 だって俺が住んでるアパートは賃貸だし。

 母親も父親も全国転勤がある仕事をしているから賃貸に住んでいるというのもあるが、本当に安い賃貸物件だ。そもそも母親はいつも海上にいるから家に帰ってくることはほとんどないけどな。父親は近いうちに転勤になるかもしれないが、姉ちゃんはあと1年で大学を卒業する。俺もあと1年で高校を卒業だ。もしも次の人事異動で転勤になったとしても引っ越しはせずに父親だけ単身赴任することになるだろう。

「うちんところの爺さんも昔は戦艦に乗っちょったっちゃが~」

「戦艦ですか」

「大和にも乗ってたって言いよったが」

 ほう、戦艦大和か。

 ということは俺の爺ちゃんの兄貴が乗っていたものと同じ軍艦だな。

 敗戦濃厚となった太平洋戦争末期。激戦区となっていた沖縄に突入、座礁して砲台となるために戦艦大和を中心とした艦隊は沖縄に向けて出撃する。いわゆる日本海軍最後の水上特攻隊だ。しかしその動きはアメリカ海軍に捕捉されており400機弱の空母艦載機による攻撃をうけて大和は沈没した。

 確か爺ちゃんの兄貴は九六式二十五粍高角機銃、つまり対空機銃を担当していたと聞いている。階級はたしか上等兵曹だったかな。爺ちゃんの兄弟のなかで唯一海軍に行った人物ということで爺ちゃんはよく彼の話をしてくれたものだ。

 大和が沈没した坊ノ岬沖海戦は悲惨なものだったそうだ。戦闘機の機銃掃射や爆撃機による急降下爆撃で多くの機銃員が戦死した。多くの魚雷攻撃を受けて大和は沈没するが、その中から爺ちゃんの兄貴は生還できたそうだ。

「じつは俺の祖父の兄貴も大和に乗っていたんです」

「あら~、どこかで会ってるかもしれんねぇ~」

 世間はなんと狭いものか。

 爺ちゃんの兄貴は俺が生まれるずっと前に亡くなってしまったから顔は知らない。しかし弟の孫の彼女の祖父も同じ艦に乗っていただなんて想像すらしなかったことだろう。戦艦大和は世界最大の艦だったが乗組員は最終時で3300名。日本中から海軍に集められた兵隊の数に比べたらごく一部に違いない。

 もっとも舞香の祖父がまだ生きているということは当時はまだ若かっただろう。もしかしたら沖縄への海上特攻に出撃するまえに艦を降ろされていた可能性もあるから大和の最期には立ち会っていないかもしれない。

「うちのところの爺さんはもう認知症が進んでいてねぇ~。前は海軍のときの話をよくしてたっちゃけど今はもう家族の顔も分からんなったが~」

 人にもよるかもしれないけども高齢になれば認知症は避けては通れない道だろう。

 俺の爺ちゃんだって家族の顔は忘れなかったが食事を食べたかどうか分からなくなっていたらしいしな。

「私もいつあの世にお呼ばれするか分からないからねぇ」

「なにをおっしゃいますか。俺だって今日の帰りにトラックにはねられるかもしれませんよ?」

「死神は何を考えちょるんやろうね」

 俺たちはケラケラと笑う。

 まぁ本当は笑えないけどな。

 ついでに言えば俺は交通事故死よりも戦死する可能性のほうが高いけど。

「あの引っ込み思案だった舞香にも恋人ができたからねぇ……せっかくここまで生きてこられたんだから曾孫の顔を見てみたいもんじゃが」

「はははっ……」

 結婚は俺が一人前の社会人になってからだ。

 高校を卒業してからすぐになんて責任を取れきれない。下手したら2人そろって苦しい生活になるかもしれないし、子供ができていたらより路頭に迷うことになるだろう。俺が所属する愛情保安庁は日本の少子化を食い止めるために設立された秘密組織だ。ただ単に子供を増やせばいいという問題ではない。きちんと親をはじめとした周囲の人からの愛情を注がれて成長することができなければ意味がない。下っ端とはいえ愛情保安官の一員としても自分の子供をそんな苦しい目に遭わせるわけにはいかないのだ。

 だからこそ結婚は俺が社会人になってからの話だ。

 さすがにこのご時世に専業主婦というのは勘弁してもらいたいが、2馬力で安定した生活を送ることができる水準になってからの話だ。もしも何かがあっても耐えられるような貯蓄ができてからじゃないと責任を持って婚姻届に印鑑を押すことはできない。

 だからこそ結婚はまだ先の話。

 まずは仕事を探さなければならない。

 だけど俺はまだ今後の進路は決めていない。

 高校を卒業したら就職するか進学するか。

 どちらにせよもう少しはSSTは続けるだろう。

 続けたとしてSSTをいつまで続けるかそれとも続けるか。続けるにしてもこれまで通りに非常勤として続けるか常勤に切り替えるか。

 今は高校2年生の秋だ。

 普通の高校生ならばSSTを続けるかどうかを考えたりはしない。そもそもSSTの戦闘員なんて宮崎県に12人しかいないからな。だけども早いやつは卒業したら何をしたいかぐらいのことは考えているのだろう。

 まぁいずれにせよ舞香と結婚するまでは彼女の祖母には元気にしていて貰わないと困る。

 ついでに俺はそれまで殉職することはできない。

 結婚した後ならば舞香に遺族年金が入るしな。それに全国のSST隊員からカンパが集まるしさ。だからこそそれまで殉職するわけにはいかない。

 ……いや、俺は死なないからな。なんで殉職する前提で考えているんだよ。

「一人前の社会人になるまで元気にしていてくださいよ」

「あらぁ~。それは楽しみじゃが。それまで頑張らんといかんねぇ~」

 談笑の途中で再び舞香を見てみたが、彼女はまだ顔を逸らしていた。

 それどころか俺の横っ腹を捻っている。

 舞香の握力程度じゃ俺の腹斜筋にダメージを与えることはできなかったけども。

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