第五話(後編)ー③
空気が変わった。
それは気のせいではなくって、わたしの肌に突き刺さるような、確かな変化だ。
だって、嫌な予感がしたから。背筋がぞくぞくってして、どうしようもない不安が心に
このまま
怖いよ、クレア。今更ながら、都合よくクレアに頼っている自分を
でもね、こんな時、クレアがいてくれたら、きっといつもの強気な笑顔で、わたしを
ごめんね、クレア。1人にさせちゃった罰だよね。
心の中で謝罪を続けていたわたしだったけれど、次の瞬間にはそれすらも考えられなくなった。
空気だけの変化だったなら、わたしの思い違いで済んだのかもしれない。
だけどね、次に訪れたのは、何者かの存在だったのだから。
茂みの中を、何かが
わたしはここで確信していた。
野生動物なんかでは出せない気配が、危機を
どうしよう。
わたしはひたすらに走り続けることしかできなかった。
当然、準備はしてきてあるよ。腰のポーチには授業でもらった
だけど、実戦の経験はクレアに連れていってもらったあの
心の中ではすでに
精神面の弱さが
走りっぱなしだったわたしは、体力の限界も近かった。それでも、足を緩めたらいけない。息が苦しくなって、肺が酸素を要求してくるけれど、必死になって地面を蹴りつける。
だけど、普段から運動をしていないわたしの身体がついてこれるわけもなかった。
足が何かにつまずいてしまい、盛大に身体を投げ出していた。
この山で転ぶのは2回目だなあ、なんて考えが
それすらものんびりと味わわせてくれないのか、音の
出てきたのは、最初は人間かと思わせた。二足で直立していて、中肉中背。
だけど、皮膚は体毛に
そして特筆すべきなのは、その頭部。そこは狼のものとなんら
図鑑で見たことがある。
もしもクレアがいてくれたなら、この数くらいはなんてことないだろうね。クレアが
なぜかといえば、筋力こそは人類よりも遥かに上だけど、
わたしだって、もしもこれが1体だけだったならば、どうにか
だけど、現状を
わたしは腰が抜けてしまい、立ち上がることもできない。地面にお尻をつけて、ぶるぶると
それが彼らをさらに刺激させてしまったのだろうか。わたしは競売にかけられている品物のように、見定められていた。
ああ、クレア、今頃何しているのかな。わたしの帰りを待っていたりするのかな。そういえば、今日は学生寮の食堂は閉まっているんだっけ。だから、夕飯の
わたしは現実が直視できなくなって、楽しい妄想に
人間って生命の危機に
しかしながら、わたしの妄想を打ち切ってくるのも、人狼だった。
彼らは慎重なのか、じりじり、と詰め寄ってくる。だけど、わたしからは抵抗の意思を感じ取れないと見たのか、徐々に大きな足取りで進み始めてきた。
わたしの頬には涙が伝っていた。
どうすることもできない。声をあげることすらも。歯がカチカチと噛み合わない無様な効果音を発生させるのが関の山だった。
人狼たちが間合いに入ってきて、腰を沈める。どうやら、一斉に飛びかかってくるつもりだ。
次の瞬間には、自分はこの世にいないんだ。
わたしは体温がなくなったかのように冷え切って、目を
風が吹いた。
それは、人狼が襲いかかってきた時に巻き起こった死の
しかし、その風が運んできたのは、わたしの知っている匂いだった。
はっとなって顔をあげると、間合いにいたはずの人狼たちは、一瞬にして遠くへ退いている。
「やっぱり、これ、とってもいいわねぇ」
風は後方から音色のような美声と、そして甘ったるいお
わたしが振り向いた先には、傘を差しながら優雅に歩くユーリィ。魔物に取り囲まれた状況だというのに、まるでのんきに散歩道を歩いているかのような、やんわりとした雰囲気を
彼女は真っ昼間なのに左目のガーゼが外されていて、紫色の瞳を輝かせている。さらには、太陽の下だっていうのに、
わたしはユーリィの空気に
すると、人狼たちは
ユーリィは魔物なんて気にもならないのか、わたしへ穏やかに近づいてくる。傘がよっぽど気に入ってくれたのか、手でくるくると回しながら、鼻歌も口ずさんでいた。そして、わたしににっこり、と微笑んでくれる。
その後、
再び、風が吹く。
……風?
ううん。違う。これ、風じゃない。風じゃないんだ。
だって、風が
今になってようやく、わかった。
わたしが全身で受けた風のようなものの存在に。
これはユーリィが発している圧倒的な威圧感。
彼女から放たれている気配が、強風のように、わたしの肌を突き刺しているのだ。
全身から嫌な汗が吹き出てくる。本能が逃げろ、と
ユーリィは物凄く強い。
こんなへっぽこなわたしにでも、彼女の
それに、わたしはクレアほどの凄腕剣士を間近で見てきたこともあるんだから。あの実戦場で戦っていた時のクレアが本気だったかは知らないけれど、それを遥かに上回るプレッシャーがユーリィからは感じ取れるのだ。
ユーリィに視線を向けられた人狼たちは、今すぐにでも逃げ出しそうな怯えきった表情を浮かべている。しかしすぐに立ち去らないのは、身体が動かないからなのか。さっきのわたしとおんなじ心境のように思えた。
「エリナさん、1人で魔物を相手にできないのなら、こんなところに来てはダメよ」
ユーリィは自身がそんな威圧を放っている、なんて素知らぬように、いたずらをした我が子を
「ご、ごめんなさい……」
わたしはユーリィが相手だったから、ようやく声を絞り出せた。けれど、それは自分でも予想以上に震えており、しっかりと相手に伝わったかも謎だ。人狼たちによる恐怖が残っていたのもあるだろうけれど、今、ユーリィはそれ以上に
ユーリィは笑みを崩さず、外見だけならば、さっき会ったばかりの彼女と何ら変わらない。
「失せなさい」
人狼たちはそれで時間を解放されたかの如く、一斉に逃げ出していった。ユーリィに
魔物の気配が
だけど、わたしはすぐに元の状態を取り戻せず、いまだに心臓がばくばくと音を立てている。ふつう、ってなんだっけ。みたいな感情だった。
ユーリィはわたしの
だからなのかな。恐怖でドキドキとしていた心臓が、ユーリィに恋をしているのかと勘違いしそうになっていた。
視線1つで魔物を追い払って、それが何でも無いかのように、わたしへ微笑んでくれる。それに加えて、わたしに好意を持ってくれているのかな……? クレアの影を重ねてしまいそうになる。
ううん、違うよね。ユーリィは生まれつき女の子が好きでえっちなだけだよね。
そんなことを考えていると、わたしの気持ちも落ち着いてきていた。
だけど、どっとした疲労もおまけされている。
「うふふ。こんないい傘、もらっちゃったものね。気分がいいわ。でもね、この辺はエリナさんには危ないのよ。だから、今度は、私がそっちに行くわ」
わたしに優しく語りかけたユーリィは、またもや傘をくるくると回しつつ、立ち上がった。そして、緩やかにわたしから離れていく。
木々の合間に溶け込むかのようにして去るつもりのようだ。
「あ、ありがと、ユーリィ! また会えるってことだよね?」
「ふふ。お迎えがきたわよ。またね、エリナさん」
彼女は振り返りもせずに、手をあげて応答する。
そして、ユーリィの存在が幻だったかのように、ふわっと消えてなくなった。
きっと、余りにも
彼女の
わたしは彼女の別れ
お迎え……はなんのこと? まさか、わたしがもう死んじゃってるってこと?
ほっぺたをつねってみるけれど、痛いだけだ。
わたしは頭にクエスチョンマークを大量に浮かべながら、その場にへたり込んでいた。だって、腰が抜けちゃったままで、しばらく立ち上がれないんだもの。
少しの間、
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