第二話ー②
まるで別人のようだった。
彼女に触れでもしたら、心身ともに切り裂かれてしまいそうなほど、鋭い気配を身に
実戦場に足を踏み入れたクレアは、それほど
どこかに切り替えスイッチでも隠し持っているのか、ってくらい普段とのギャップがすごくって、わたしはたじたじしてしまいそうになる。
やっぱり達人の域になると、すぐにでも戦闘態勢に入れるものなのかな……。
林道のような平地を歩き続けて、1時間ほどが経過したところ。
その間、魔物に出会うことはなかった。中級の実戦場っていっても、魔物がうようよしているわけではないみたい。
わたしはクレアに話しかけてみようと何度か試みたけれど、彼女の持つ雰囲気に圧倒されちゃって、黙って後をついていくことしかできなかった。
逆に、クレアが声をかけてくれることもない。
それに関しては、
クレアの極限にまで高められた緊張感がちょっとだけ怖いな、なんて思う反面、凛々しい後ろ姿に、きゅんってする。
……ううん、これは吊り橋効果ってやつだと思うけどね。
そのままの状態で少し歩くと、開けた場所にたどり着いた。
花が地面に咲き乱れ、まるで庭園のような空間。風が
魔物の巣食う場所だなんて、とてもじゃないけど思えない。
「あ、あの。クレア」
落ち着ける空気だったから。わたしは思い出したことがあって、声をかけてみた。ちょっとだけ、震えた響きを持っていたかもしれない。
「どうしたの? 歩きっぱなしで、疲れてしまったかしら?」
振り返って、応じたクレアは意外にも、いつもの彼女だった。
一気に緊張がほぐれたわたしは、
「その、もうお昼だし。お腹空いていないかなあ、って思って。ほら、ここ、見渡しもいいし」
「私、何も持ってきていないの。エリナが食べたいなら、その間、待っててあげるわ」
クレアは剣以外に持ち物がない。
今日のデートで、昼食をとることなんて想定していないのだろう。
だけど、わたしの申し出を拒否しなかったことを見るに、休息じたいは問題ないみたい。
「えっとね。クレアに食べてもらいたくって、2人分、用意してあるの。良かったら、どうかな……?」
「本当に? 嬉しい……。エリナが私のために作ってくれたなんて。ありがとう、エリナ」
心の底からの
だけど、こんなにも嬉しそうなクレアを見ると、今度は逆にお弁当が心配になってきた。
口に合ってくれるといいな……って。
クレアは早速、周囲を見通せる中央付近に陣取った。さらには近くに何者もいないか、注意深く首を巡らせている。
そこまで慎重に警戒して、何の気配も感じ取れなかったのか、ゆっくりと腰を下ろした。
わたしもクレアが大丈夫って判断したなら、それに従って、安心しきって隣に座る。
「はい、どうぞ。美味しいかどうかは、保証できないけれど……」
キュートなピンク色の布に包まれた、四角いお弁当箱をクレアに手渡す。
彼女は、それを初めて見る物体かのように、戸惑いながら受け取った。
わたしはその反応に、首を
「どうしたの?」
「ううん。こういうのが初めてだから、嬉しくって。本当にエリナと出会えて、良かった」
お弁当の箱そのものは、全然珍しいものじゃないのに。
それを"初めて"、なんて表現するクレアに、違和感を覚える。
でも、本当にお金持ちなら、こんな庶民的なお弁当箱、縁がないのかもしれない。
クレアはおそるおそる包みを開いて、ゆっくりと蓋を開けていった。
そして、その中身に
「すごい綺麗にできているわね。とっても美味しそう」
そう言って、おかずを1つ、口内へと放り込む。わたしはどきどきとしながら、まるで我が子の旅立ちを見守るかのように、それを凝視していた。
「凄く美味しいわ。エリナって、お料理上手なのね。ふふ。将来が楽しみだわ」
うっとりと語るクレアのお陰で、わたしも胸を撫で下ろした。
食べている人の表情を見れば、それが本当か嘘かなんて、判断しやすい。
クレアは幸せそうに、わたしの作った料理を
……手料理を食べてもらえるのって、なんか、こそばゆいね。
「良かったぁ、クレアのお口に合わないか、不安だったんだよ」
お弁当は、あっという間に平らげられた。
クレアの食べっぷりは、見ているだけで満腹感のお
わたしは彼女を眺めてばっかりいたので、自分の分はほとんど食べていなかったけど。
それでも、なんだか満足しちゃっていた。
「今まで食べてきた物で、一番美味しかったわ」
「えへへ。これでもね、小さい頃からお母さんの手伝いで料理してたから、少しは自信があるんだ。でも、一番は言い過ぎだよ」
わたしは照れ笑いしたけど、内心ではにやにやってしっぱなし。ここまで褒めてもらえるなんて、初めての経験だもの。
「本当よ。愛がこもっている料理は、本当に美味しいのね」
クレアが真顔でそんなことを言うものだから、わたしは赤面して
……うん、確かにね、気持ちは込めて作ったよ。クレアに美味しく食べてもらえたらいいな、っていう思いだけで作った、っていっても過言ではないもの。
だけどね、面と向かって、愛、なんて言われた日には。
恥ずかしくって顔が燃えているのかと思った。ほんとに。
「……あ、ありが、と……」
でもね、クレアの心が嬉しかったんだ。
愛かどーかはわかんないけど。気持ちを込めて作ったものを、しっかり受け取ってもらえたんだから。
わたしはいまだに顔面が熱かったので、ちらちら、って上目遣いでクレアのことを盗み見る。
彼女の表情は、どこか遠いものでも見つめているような、
会話の流れからはいささか不自然な反応なので、わたしは不思議に思った。
「エリナは家族と仲が良いのね。……少し、
消え入りそうなほどの小声で、
でも、わたしの耳にはしっかりと運び込まれている。
わたしの視線に気づいたクレアは、その雰囲気を
「ふふ、エリナは、誰とでも仲良くなれそうだものね」
どこか
わたしは、そんなクレアをどうにかしてあげたい、って気持ちで胸がいっぱいになる。
だって、
彼女の台詞から察するに、家族関係に問題でもあるのかな?
そこまで考えて、はっとなった。
わたしって、クレアのこと、何にも知らないんだ。
出会った時に、自分で言ったことなのに。お互いのことを良く知らないから、って拒否をしようとしたほどなのに。
でもね、今は違うよ。クレアのこと、もっともっと知りたくなってる。
家族関連のことだとしたら、軽々しく口に挟んでいいのかな。
でも……クレアはわたしのことを本気で想っていてくれてるし。だからこそ、わたしも本音でぶつかりたい。
意を決して、
「ねぇ、クレア」
わたしの声に
彼女はさっきよりも、より一層
「エリナ。私の後ろに下がっていて。どうやら、匂いに釣られてやってきたようね」
クレアは重心を低くして、剣の
それが余りにも美しすぎる姿勢だったため、はふぅって息が出てしまいそうになった。
だけど、ぼんやりと眺めている場合ではない。魔物の出現のようだ。
わたしはクレアの指示に黙って従った。
研ぎ澄まされた彼女の感性は、いったいどれほど遠い存在を察知したのだろうか。
わたしには全くといっていいほど、魔物の気配なんて感知できない。クレアがこんなにも真剣な表情じゃなかったら、冗談だと思ってしまいそうだ。
クレアは魔物の位置に
その状態が継続して、時間だけが経過した。
このまま何も起こらないんじゃないのかな。わたしがあっけらかんとした思いを巡らせた時に、変化は訪れる。
クレアの視線、その先。
どうやら、相手は複数のようだ。
わたしの緊張は高まる。
初めての戦い。本当に見ているだけでいいのかな。
ちょっとしたパニック状態に陥りそうだった。
「安心して」
わたしの顔なんて見えていないはずなのに、クレアは絶対的な安心感をもたらしてくれる、いつもの力強い言葉をかけてくれた。
たったその一言で。
わたしにも周りが見えてくるほど、落ち着きが取り戻せた。
広がった視界が
おでましになったのは、狼に良く似た種族だった。しかし、
飢えているのか、唾液を滴らせながら近づいてくるその様は、凶暴性を強調していた。
わたしは無意識に、後ずさりをしてしまう。
「ヘルジャッカル、という魔物ね。大したことはないわ」
1匹を筆頭に、続々と集結してくる。
どうやら、全部で5匹みたい。
わたしにとってみれば、息を
うう。あの牙で噛まれでもしたら、人間の肉なんて、やすやすと食い千切られちゃうだろうね。怖い想像しか思い浮かんでこない。
わたしの内面なんてつゆ知らず、クレアは
様子を伺うように動きを止めていたヘルジャッカルたちは、本能的に危機を感じ取ったのだろうか。統制の取れた動きで、クレアを取り囲むように、にじり寄ってくる。
お互いの間合いの外で、時が止まったかのように静止した空間が完成した。
空気が張り詰められていく。
ヘルジャッカルたちは攻める機会が見出だせないのか、低い
クレアは今まで一歩もその場から動いていなかったのに、ついに前へと踏み出す。
それが合図にでもなったかのように、ヘルジャッカルたちは一斉に飛びかかってきた。
「きゃあっ!」
思わず叫んでしまう。
だって……わたしなんて、ただの女の子なんだから。
戦いなんて経験ないし、魔物だってこの目で見るのも初めて。
日常からはかけ離れた、生死を
自分の眼を手のひらで
そして次の瞬間には、悲痛な叫びが場を支配した。
人間のものではない。
おそるおそる瞳を覗かせてみると、そこには血まみれで倒れ伏す1匹のヘルジャッカルが目に飛び込んできた。
わずか一瞬にて、1匹が切り伏せられているのだ。
クレアはそれが何事でもないように、剣を横に一薙ぎして、
残るヘルジャッカルたちは、飛び込めなくなってしまったのか、またもや動きを止めてしまう。
それまでは相手の出方を待っていたクレアだったけど、今度は攻勢に打って出た。剣を後ろに構え、腰を落としきった低い態勢で一気に前進する。
それを受けたヘルジャッカルたちは、弾かれたように各自散らばっていく。一気に四方を取り囲まれるクレアの視線は、前方の1匹をロックオンしたまま動かない。彼女は勢いをゆるめずに、突っ込んでいった。
クレアの右手側に位置していたヘルジャッカルが
空中で身を
しかし、仲間の悲惨な姿を映しても、他のヘルジャッカルたちは止まらない。クレアは囲まれている、ってこともあってか、背後は隙だらけのようにも見えた。ヘルジャッカルたちがそれを見逃すはずもなく、2匹がバックアタックを仕掛けている。
それすらも、クレアには見えていたのだろうか。
正確に彼らの位置を掴んでいるのか、クレアは迷いなく斜め前方へ飛び込む。2匹の牙は、空を切った。
ヘルジャッカルたちは着地と同時に、またもやクレアに襲い掛かる。
今度は3匹全部だ。
すでに態勢を立て直しているクレアは、最初に飛び込んできた1匹を、身を
そして、
残る2匹の攻撃も、まるで舞を踊っているかのように、鮮やかに回避して、攻撃の手も緩めなかった。
わたしには、鳥肌が立っていた。
だって、圧倒的な強さだったから。
最初こそはひやってしたけど。今では、クレアが手傷を負うことなんて想像もできない。
目の前の剣姫に、感動することしかできないでいた。
素早い動きを見せるヘルジャッカルたちに致命傷を与えられないクレアだったけど、その
残りの2匹は、攻撃の手を止めてしまう。どちらの身体にも深手ではないけど、どうやらダメージが入っているのか、血を滴らせている。
彼らは、クレアを相手にするのは無駄とでも悟ったのか、攻めあぐねているようだった。
クレアの優勢が目に見えてわかると、気が抜けてしまう。
もう勝利もすぐそこ。
わたしがほっとした息を吐くと、クレアが凄い勢いでこちらへ向き直ってきた。そして、そのまま駆け戻ってくる。
わたしは、ぽかんってしていた。
何を慌てているんだろ、って。だって、ヘルジャッカルたちは、クレアを挟んで遠い位置にいるし。
だけど、いつの間にか、奴らの狙いはわたしに変更していたんだ。
狂気を向けられているのに、気づくのが遅れた。それにいち早く感づいたのが、クレアだったのだ。
でも、ヘルジャッカルは四足獣。その身体のバネに、人間がかなうことはない。
クレアが走り出してからのかけっこだったけれど、ヘルジャッカルたちは見る見るうちに彼女を追い越そうとしている。
「へっ」
わたしは、
だって、自分の身に危機が
だけど、足は動かない。脳内は両足に命令を送るけれど、体が恐怖によって固まっている。
わたしの目前にまで迫ったクレア。しかし、その両隣にはヘルジャッカルたちのおまけがついている。それら2匹が
叫び声もあげられなかった。
わたしにできたのはそれだけだった。
まず訪れたのは、身体に走る衝撃。そしてその直後、ふわりと宙に浮く感覚がした。
痛みはない。
次に五感が伝えてきたのは、甘い花のような香りだった。
良く知っている匂いだ。
「ごめんなさい、怖い目に合わせてしまって」
呟きは耳元から聞こえてきた。
そーっと目を開けると、クレアの顔がすぐ傍にあった。
そこでようやく、現状を把握する。
わたしを襲った衝撃は、クレアが思い切り抱き寄せてくれたから、だったんだな、って。
どうやら、間一髪、助けてもらっていたらしい。
クレアはわたしのことを片腕で抱いたまま、剣先をヘルジャッカルたちへ向けた。
「もう、おしまいにするから。エリナはこのまま、じっとしていて」
クレアは優しく、いつもの声音で言ってくれた。
彼女の
わたしは、それから逃れるように、クレアへ抱きついた。
「怪我はない?」
わたしを地面へ座らせたクレアは、心配そうに顔を覗き込んできた。
「うん。それは大丈夫」
まだ心臓がどきどきしている。
魔物との初めての
クレアはあの後、残りのヘルジャッカルたちをすぐに
クレアの強さが実感できたと同時に、自分は本当に何もできないんだな、って痛感させられた。
それどころか、わたしを狙われて、足を引っ張って……。
「クレア、とっても強くて、格好良かったよ。……本当に強いんだね、すごいよ」
「それでも、エリナを怖い目に合わせてしまったわ。……助けられる自信はあったけど、こんなんじゃダメね。まだまだ、
「そんなことないよっ! クレアが戦っているのに、ぼけっとしてたわたしが悪いんだから。――魔法も使えないし、本当にわたしなんかで、いいのかな……」
わたしの
悲しさと悔しさが入り混じっで、俯いてしまう。
クレアは、またもわたしを抱き寄せてきた。
彼女の豊満な胸の中に、顔面が埋もれる。
「私はね、エリナがいいの。エリナじゃないと、ダメなの。だから、気にしないで、行きましょう?」
わたしはクレアの抱擁が心地よくて、穏やかな気分になることができた。
強さ、そして優しさを両立させる彼女の胸が、ポカポカってしていてあったかかったのだ。
「うん。ごめんね」
わたしはどうにか気持ちを切り替えて、立ち上がるのだった。
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