UBIKitous

 やにわに。ハランの口が、なにか未知の言語を吐き出した。磁気テープを引っ張り、むりやり繋ぎなおしたものを早回しで逆再生したようなその言葉に、彩羽は不思議に聞き覚えのある響きを感じていた。湖南ははっとしたように目を見開くと、次の瞬間にすっとその場に直立した――国語の時間、朗読をするために立ち上がるように。瞳孔は大きく開き、下の顎がだらりとぶら下がっている。



「ぅぁ」

「そう――こっちに戻りなさい。我々に戻りなさい」



 ハランが一歩、湖南へと歩み寄る。長い髪が風に吹かれるように音もなくそよぐ。その毛先のひとつひとつから、白い粒子が撒き散らされているようだった。また一歩、湖南へ歩み寄る――彼女は動こうとしない。だらっとその場に立たされている。彩羽は何か声をあげようとして、目の前に広がる異様な光景に息を呑んだ――視界にノイズのような光が走っている。ドット状の光の粒、線を描きながら縦横に飛び交う水の矢。雨粒が空中で見えないガラスの板のようなものに乱反射し、逆再生され天へ吸い込まれていく。不意に空間に亀裂が走ったかと思うと、白い稲妻が近くの電信柱へと落ちた。そこを中心に放射状に亀裂が走り、真っ白な光に目を焼かれるような思いがした。



「こっち」



 ぐい、と手首を引かれる冷たい感触によろめき、その場に崩れ落ちた。彩羽の身体はアスファルトに倒れることなく、一瞬の無重力――ビルの窓から落ちていくような恐怖に内蔵がぎゅと縮む。視界が真っ黒に染まった。






「うわっ、」



 とバランスを崩して、雨に濡れたぬるいアスファルトに尻餅をついた。咄嗟についた手がじんと痛み、すぐに水たまりの中の雨水に冷やされていく。そこはさっきまでの異常な世界とは、何もかも違っていた。弱々しく遠くまで灯る街灯の明かりと、雨が通り過ぎた後のじめった空気。彩羽の目尻に、痛みで涙が滲む。

 その時初めて気が付いた。自分がいま、瞼を開けているということに……生々しい夏の夜の暑さ、ぼやけた周囲の風景とその輪郭。

 ここは基底現実だ。間違いない。離脱し、戻ってきたのだ。

 彩羽は周囲をぐるりと見回した。そこにはハランも、雲居湖南もいない。右手首に残るひんやりとした感覚、細く絡みつくような檳榔子黒の白い指の――しかし当然、彼女もそこにはいなかった。



 夜の街は、異様なほど静まり返っている。まるで『Hxyrpe』のようだ。彩羽は不安になって、目の前の雑居ビルのガラスに反射する自分の姿を見た。自分の顔、自分の姿、雨で汚れていること以外はごく普通の、パジャマ姿のままの自分自身。目は、しっかりと開いている。何かの拍子に、こちら側へ戻ってきたのだ。

 何かの拍子。

 それは、あの時自分の手を引いた、檳榔子黒の力に他ならないだろう。



 彩羽は誰もいないのに、出来るだけ人目を避けながら大通りを進み、こっそりと家へ帰り着いた。幸いなことに鍵は開いている。湖南の言った通りだ、おそらく家の中で『Hxyrpe』へと侵入した彩羽に置き去りにされた身体が、勝手に家の鍵を開いて外へと出て行ったのだ。音を立てないようにそっと扉を閉め、しっかりと鍵をかけた。汚れたパジャマを洗濯機に突っ込み、いやに冷えきっていた身体を温めるためにシャワーを浴びようと洗面所の扉を開いた。



 嫌な予感がして、覚悟をしながらそっと開いたが、何の変哲もないシャワー室だ。つい数時間前に浴びたときとは、身体がまるで違う。ずっと冷凍庫の中に放っておかれていたような、奇妙な状態だ。随分雨に濡れたのだろうか、身体の内側、下着の中まで泥のような黒い汚れがこびりついている。三十九度のお湯を頭からかぶっているうちに、ようやく彩羽の気分は落ち着いてきた。

 念入りに身体を洗い、ほっと温まったところでシャワーを止める。目の前には、シャワーの湯気で結露した姿見があった。

 手のひらでぐいっと拭う。

 一糸まとわぬ姿の、鷹山彩羽がそこにいた。何もかもいつも通りだ。



「はぁ」



 鏡に手をついて、足を滑らせない程度に脱力する。頭ががんがんする、冷えた身体に急に熱湯を被ったせいか、それとも寝不足が祟っているのか。身体を起こしたとき、べったりと姿見に貼りついた手形から、結露した水が線を描いて滴り落ちた。

 彩羽は新しいパジャマに身を包み、そのまま自分の部屋へ向かうと、倒れ込むように眠った。もはや『Hxyrpe』への恐れなどどうでもよくなってしまっていた。それよりも、自我を保つだけの気力が既に尽きてしまっていた。自分は『Hxyrpe』で散々走り回り、冒険をしたようなおぼろげな記憶があるが、この身体の方は基底現実でどれだけ歩き回ったのだろうか。まるで何時間もずっと歩きっぱなしだったかのような、猛烈な疲労感が身体に残されていた。






 翌日、目を覚ましては不健全な浅い眠りに落ちを繰り返しながら、ようやく昼頃になって身体を起こした。窓からのぞくからっとした炎天にどこか奇妙な安心感を覚えながら、玄関でスニーカーを引っ掛けて扉を開いた。その取っ手に手をかけた瞬間から、既に予兆のようなものを感じていたので、目の前にいる少女の姿を見ても、彩羽は驚かない。



「ありがとう」



 檳榔子黒は頷きもせずそこに立っている。



「あなたが助けてくれたんでしょう、私を、基底現実こっちに引き戻してくれた」

「ついてきて」



 言うとおりにした。扉を閉め、振り返ると、彩羽の家は赤から紫、そして赤へと相転移を繰り返しながらその輪郭を闇に閉ざしていく。それを見ている間にも、檳榔子黒はすいすいと進んでいく。彩羽の身体はいつになく軽やかで、この裏側の世界はいつになく輝いて見える。真っ黒で、冷たく、色とりどりに輝く美しい世界。



 信号機の形をした、アイスキャンディ色の柱の足元をくぐると、街路樹は世界の果てのような夕陽色をして、葉が風にこすれるたびに暖色の細音を立てる。



「雲居さんに吹きとばされていたのに、どうして?」



 彩羽は思い切って聞いてみた。はっきり見た黒の最後の姿は、雲居湖南によって固めフリーズられた時のものだ。



「あんなのは、時間稼ぎ。あの子も、本気で私を消そうとしたわけじゃない。私はこの世界の一部。この世界があれば、私もまた、在る」

「どうして、雲居さんに化けて私を助けようとしたの?」

「鷹山彩羽、あなたは、私のことを警戒していたから。ああするしか、なかった。でも、あの時は咄嗟に、手を引くのが精いっぱいだった。そしたらあなたは離脱した。突然……予期しなかった挙動。偶然か、それとも、この世界からあなたが基底現実の肉体を呼び戻したか」

「雲居さんはどうなったの?」

「どうもなってない。元に戻っただけ」



 ハランも同じことを言っていたことを、彩羽は思い出していた。



「元に、って?」

「この世界に戻った」



 淡々と黒は告げた。



「雲居湖南も、私と同じ。この世界から生まれたもの。ただ、基底現実に転がっていた、空っぽの肉体に潜り込んで、あちら側へ活動領域を広げただけ」



 空っぽの肉体。



「それって、もしかして――」

「多分、身体の元の持ち主は――ハランに喰われてる、と思う。入れ替わって、うまく動かしていたところまでは良かったけれど、今度は雲居湖南、あの子の方が喰われた。だから、次にあの子に出会っても、それは、雲居湖南じゃない――その姿をしただけの別の誰か。鷹山彩羽、あなたを必死になってこの世界から追い出そうとしていたのは……たぶん、その姿をしている人間がいると、彼女にとっては都合が悪いから。かといって、あなたを殺してしまうのも、余計に騒ぎが大きくなるから都合が悪かった。あなたを遠ざけたかったの、この世界から」

「それならそうと――」

「私も、今になって初めてわかる。あの子がこの世界とまた、一つになった今になって」



 檳榔子黒が立ち止まり、首をかしげた。



 はらっと細い髪の隙間からのぞく瞳には、ぼうっと赤や緑の光がちらついた。それは暗闇の中で見えるストリート・ビューイングのように激しく、細やかに明滅し、じっと見ていると頭が痛くなってきそうなほどの戦災で強烈な信号だ。



「黒」



 彩羽はほとんと初めて、はっきりと、その名前を呼んだ。



「あなたは、いや、この世界はいったい何なの……」

「…………、基底現実を説明できないように、それは説明できない。ただ、ここにあるだけのもの。何かが生まれて、何かが滅んでいく。ハランは、その滅びと再生の循環を担うシステムのような存在。この世界を喰って、また別のものを吐き出し、それがまたハランに喰われる。黒しかないこの世界を照らすような存在なの」



 彩羽はそこで、ようやく気が付いた。



 檳榔子黒。

 頭のてっぺんから足先まで真っ黒に染められたその瞳、その中に灯る色とりどりの信号のような光――それらが一瞬重なるとき、中に見える色。光が全ての色を帯びるとき、そこに見える色。



 それは、曇りのない白だ。



「あなたは――ハラン……!」



 に、と口を裂くように檳榔子黒は微笑んだ。



「鷹山彩羽、あなたは……この世界から生まれたわけでもない、異物。これ以上この世界にいてはいけない。私たちは、あなたのような存在を放っておくわけにはいかないの」



 包帯が解けていくように、檳榔子黒を覆っていた闇が剥がれていく。剥がされた内側から露になる、細く白い氷細工のような身体――やがてそれは、真っ白な少女の姿をとった。檳榔子黒とそのまま、全く同じ顔立ちと姿。ただ、白い。色とりどりの輪郭と無間の黒が支配する世界では、暴力的なほど眩しく、熱い。



「あなたを取り込むのも、それはそれで良い選択。事実、私のうちひとりはそれをしようとした。けれど、あなたはこの世界にとっては不要な循環を身にまとっている。ただただ、不必要で無意味」



 ハランの足元から少しずつ、白い亀裂が入っていく。この世界を壊そうとする白い光。しかし、それらは広がっては黒に塞がり、また走っては黒く塗りつぶされていく。そこにはほかの色が入り込む要素はどこにもない。



「檳榔子黒は、我々の世界に必要な存在だ。だからこうして生かしている。雲居湖南もまた、そう。一度は我々の支配を逃れ、基底現実へと脱出したようだが――無事に捕らえることができた。アレは、こちら側の存在、あなた達のほうへ在ってはならない。ところが、鷹山彩羽」



 ハランは彩羽の眉間へと人差し指をつきつけ、



「お前は、よくない。白でも黒でもない不確定な存在は、この世界には不要だ。故にお前を追放する。二度と、この世界へは入ってこないことだ」



 すると、それまで見たこともないような素早さで振り返り、彩羽の顔へと小さな手のひらを叩きつけた。突然のことに強張った身体は、次の瞬間には基底現実へと戻ってきていた。そこは線路の上へ真っ直ぐにかかる、青い歩道橋の上だった。ちょうど電車が足元をごうと音を立てて通り過ぎていく。

 太陽の眩しさに、目がちらつく。頭痛のような感覚フィーリング



 彩羽は、とっくに気が付いていた。白でも黒でもない自分は、ハランたちにとっては、恐れるべき存在なのだ。彼女たちに喰われ、利用されることを恐れる道理はない。まず、やるべきこととして、彩羽はスマートフォンを取り出し、発信履歴からある番号を呼び出した。

 長いコール音。しかし、その後にがちゃり、と、そっと受話器を取る音がした。



『だ、だれ……?』



 か細い少女の声だった。しかし、よく聞き覚えのある――夏目漱石でも朗読させたら、よく似合いそうな、芯のこもった声だった。

 彩羽は震えそうになる声を必死に奮い立たせながら、受話器に向かって告げる。



「――すぐにそこから出ていきなさい。できないなら……私が助けに行くわ。そこから、何が見えるの?」

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Hxyrpe 王生らてぃ @lathi_ikurumi

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