DIAL-UP
ぐいと強引に引っ張られた彩羽を連れて、湖南は駆け出した。最初は上手く足が動かなかったが、次第に自分の足で走り出した彩羽を見て、湖南は手を離した。この時になって、ようやく雨が降っていることに彩羽は気が付いた。けれど、雨粒なんかちっとも気にならない。緑と青、不思議と寒色が目に付く『Hxyrpe』の街並みを横目に走り続ける。だんだんやけっぱちの爽快感がこみあげてくるにつれ、『Hxyrpe』の輪郭はより鮮明に強く光り出す。そこは見渡す限りの黒、黒、黒。さっきまでの暴力的な白は、もう影も形もなかった。
ロータリー状に広がる巨大な円形の五叉路に差し掛かった時、息を切らしながら湖南が立ち止まった。
「おかしい……この辺りから没入したはず」
「どういうこと……?」
「ここは駅前のロータリーなの。あなたの肉体は、この辺りをほっつき歩いていたってわけ――深夜料金のタクシーにクラクション鳴らされながらね。それを捕まえて、ここから没入ってきた。だから。ここから基底現実に戻れるはず。なのに――その目印がない」
「雨で流れちゃったとか?」
「いや、たぶん……」
ふたりは同時に背後を振り返った。何か大きな音や光を感じたわけではない、ただ、お互いにお互いの身体にわずかなノイズが走るのが分かった。
「ハランがこっちに向かってきている……急がないと」
「さっきの、またできないの?」
「さっきの?」
「ほら、あの…‥スマートフォンで何かしたでしょう。私とハランを引きはがした、あれは一体なに?」
「この世界に干渉することができる特殊なダイヤル」
「ダイヤル……?」
「この世界は――光の三原色に支配されている。十六進数の組み合わせで色を表すことができるように、規則性のある数字を発信すればこの世界に干渉できる。言うなれば、そう、この世界そのものに電話をかけているような……って、言えばいいかしら。そのためのパスコードが、さっきあなたが入力した『4420』。それさえわかれば、あなたも同じようにこの世界を思うままに動かすことができるはず。でも、ハランに直接干渉するような強力なダイヤルは、そう何度も使えるものじゃないけれど――」
「そ、それを使えば、ハランをやっつけられるんじゃあないの?」
「それは無理――ハランは存在が純粋すぎて、ダイヤルでの干渉には限度がある」
「どういうこと?」
「さっきのダイヤルはハランじゃなくて、あなたに干渉したの。あなたがハランに喰われたのは不幸中の幸いだった。ハランがあなたになったから、ダイヤルで無理やり引きはがすこともできた。ハランそのものの純度が落ちて、少しだけこの世界に染まったの。それも、あなたがこの世界に対して高い適応力を持っていたから。あなたは何者よりも、この世界に染まりやすく、実際そうなっていた――」
また、ビルの遠くで白い光が迸った。
「行きましょう、基底現実へ脱出するの」
そう言って駆け出した湖南のあとを、彩羽も遅れてついていく。湖南はロータリーをぐるりと回り、その先にある何もない黒い空間へと一歩踏み出すと、杖に体重をかけるような体勢で、右手で空中を押した。すると、チューブに液体が注ぎ込まれるように一瞬でワイヤーフレーム状の光が広がった。ピンク、オレンジ、黄色、緑、青、紫。たちまちそこには、駅の建物が現れた。彩羽にはそれがずっと見えていなかったので、驚いた。湖南はそうしている間にもさっと駅の中へ入り込んでいく。見失わないように必死で後を追った。
ゲートをくぐり、改札の前で湖南は待っていた。
「早く。こっちへ」
「電車なんて走ってるの?」
「いいから、こっち。基底現実と繋がっている場所は、いくつかあるの。そこから――」
その瞬間、湖南の頭が吹き飛んだ。
彩羽は何が起こったのか分からなかった。さっきまで頭があった場所から、『Hxyrpe』よりもずっと真っ黒な血が吹き出して、だらりと四肢から力が抜けたかと思うと、首から下だけになった身体がぐにゃぐにゃと歪に崩れ落ちた。
さりっという足音。振り返ると反対側のゲートに――雲居湖南が立っていた。
「鷹山、彩羽」
ぜいぜいと息を切らしながら湖南は彩羽を睨みつけた。確かに、さっき吹き飛ばされたはずの頭で――
「そこから……離れなさい!」
振り返る。
折れ曲がった真っ黒な血だまりに沈む湖南だったものの死体が、どろっとゼリー状に融けてなくなり、粘土の如く練り上げられ、人間の形へと変わる。真っ直ぐ落ちた長い髪、白い肌。真っ黒な胴長の洋服……
「失敗、だった」
檳榔子黒は鈴のように細い、けれど、刃物のように細く鋭い声でつぶやいた。
「残念。湖南――あなたはずっとここを彷徨っていれば、良かったのに」
「黙れ。お前の好きにはさせない……してやるもんですか」
湖南が右手をさっと構える。目の前から飛んでくる手のひら大のおおきさのボールを、キャッチするように。にわかにそれが光ったかと思うと、放たれた緑色っぽい光が檳榔子黒に突き刺さった。楔のように黒の身体を引き裂き、内側から爆散させる。そのまま身体がノイズに塗れ、壊れた時計のように動かなくなった。
「こっちよ!」
彩羽は、呆然とそこに立ち尽くすことしかできなかった。一体、目の前で何が起こっているのか、考えることすらできなかった。湖南の言葉にも反応できず、まごつく足でふらついていると、湖南は強引に彩羽の宙を泳ぐ右手を取って駆け出した。それに引っ張られるままに、彩羽もついていく。
「ねえ、待って、」
「黙ってて、早くしないと――」
「待ってよ! 今のは一体、なんなの? どういうこと? 私、頭がこんがらがって……何が何だか!」
「考える必要なんてないわ、少なくとも今は。ここを脱出するのが先」
「雲居さん。あなたは私をどうしたいの?」
「いいから!」
「何も分からないのに、ついていくなんてできない」
湖南は振り返った。その表情がとても悲しそうな、鋭い眼差しだったので、彩羽は一瞬たじろいだが、ここぞとばかりに言葉をぶつけた。
「黒をどうしたの? あの力は一体、何?」
「……、」
湖南の前髪から雫が滴った。いつの間にか、雨が激しくなってきている。
「ただ、あなたを助けようとしているだけよ。あなたよりずっとこの世界のことを知っているから、この世界を
「何のため?」
「そんなの……」
「目の前で困っているから? それだけのためにそんなに必死になる理由が分からない。雲居さん、私のクラスメイトだけど、ほとんど話したことだってなかったじゃない。たったそれだけの理由で私を助けようとするの?」
湖南は黙ったまま、じっと彩羽を睨みつけた。高架に降り注ぐ雨が、やたらと『Hxyrpe』の輪郭をぼやけさせて、彩羽は自分が果てのない真っ黒な宇宙の中に立っているような気がした。そこには、黒と、灰色にくぐもった雨の青のほかには、何の色もなかった。世界がぐらぐらと揺れて、もやがかかったように不安にさせる光景だった。そこにはもう、彩羽の見出した世界の美しさはなかった。濁った絵の具を塗りたくったカンバスをずっと眺めさせられているような気分だった。耳に心地よくざらつく雨の音だけが、なんとか彩羽を瘴気でいさせてくれた。
「どうして……」
湖南の声は震えていた。
「どうして、分かってくれないの」
唐突に白い光が、彩羽と湖南の間、お互いが両手を伸ばせば手と手が触れあいそうなほどの僅かな距離の間に炸裂した。白い閃光と轟音。彩羽の足元がいよいよおぼつかなくなる。激しく白い火花が散ったそこには、あの白い少女がいた。
「ハラン……!」
「みっけ」
ハランは、今まさにスマートフォンを取り出した湖南に人差し指を向ける。それだけで湖南の身体が、自動車に追突されたようにくの字に折れ曲がり、遥か後方へと吹き飛んで行った。
「貴女の勝手は許しません」
ハランは、彩羽の方を全く向くことなく、
「戻りなさい」
それまでの子供じみた口調とは全く違う言葉で、それはひどく無機質で、冷たく、けれど人工的に付加された「人間味」があった。そう――彩羽は何度かこういう声を聞いたことがある。それは、電話の向こう側から聞こえてくる、女性の声の音声ガイダンスに似ていた。
「戻りなさい、我々の元へ、我々の世界へ」
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