Zombie Grrrl

 鷹山彩羽の姿をとったハランは、黒い踏み石すら白く踏み潰し、石垣を白で呑み込みながら、裏側の世界を進撃する。

 ひたひたと、裸足で黒いアスファルトを歩いていく。たったそれだけで、足元から白いペンキの水風船を叩きつけたような波紋が広がり、街が白一色に染められていく。やることはただそれだけだった。

 ハランには目的が一つもなかった。自分の世界に入り込んでくるものを喰らい、呑み込み、排除し、自分の世界へと造り替えていく。やることはたったそれだけだった。ハランには自分の意思も思想も存在しない。いうなれば機械のようなもの、檳榔子黒が言うように、その作用は免疫と呼ぶべきなのだろう。機能と目的が存在し、それ以外には何もない。その先に在るものが快楽であったり、住み心地の良い世界であったり、そういうことは一切ない。この世界をすべて真っ白に染め上げたとき、その先にハランは一体何を成そうとしているのだろうか?



 彩羽は、自分の体の中に在る、自分ではない空間からその光景を俯瞰しながら、ただただ襲い掛かる不安と焦燥に駆られていた。自分の身体が水に溶けていくような感覚。それと共に視界が鮮明になっていく。彩羽は彩羽の身体の中に在りながら、全く別の世界に入り込んでいたのだ。自分の身体が、自分の声で、自分ではないものの意思で歩き、喋り、触れる。それは彩羽が基底現実で味わっていた、情報の暴力そのものだった。だがひとつ違うのは、入り込んでくる情報のひとつひとつに、不快な要素が全くないということだった。

 そして、自分に密に語り掛ける人間が存在しないように、ハランもまた、自分の中に在る彩羽へ語り掛けたり、なにかメッセージを向けたりということはしなかった。彩羽の身体はハランに飲み込まれ、侵食され、その境界を失った。しかし、彩羽の自我と呼べるものはどこかに残っていて、彩羽の身体であるハランの目を通して外界を知覚することができたのだ。そしてそれと同じように、彩羽はハランがいったい何を考えているのかを知ることは分からなかった。ただ、その行動をひたすら俯瞰しながら、共感しながら、文字通り体で覚えていった。



 ハランの行動は単純明快だった。

 黒い所に歩いていく。するとそこが白くなる。

 黒い壁に触る。すると壁が白く崩れていく。吐く息は白く、夜空まで昇っていって消えていく。

 流石に夜の空を白く染めることは出来ないようだが、星の光は少しずつ増していくように思える。

 ハランの進撃した後に残るのは、ただ一面の白。雪景色ほど美しくもなく、無地のキャンバスほど創造性にも満ちていない、一面の暴力的な白。



 彩羽はその行動に、感情らしきものを見出すことができなかった。欲求と言ってもいいだろう、ハランがなぜこんなことをするのか全く理解が出来なかった。だが、同時にハランにとっては、それはひどく自然なことであるかのようでもあった。間違った答案を消しゴムで消すくらいに、自然なことなのだろうと。



 ふとハランは立ち止まった。彩羽の視界に飛び込んできたのは、十字路の中心に立つ背の高い少女だった。雲居湖南――彼女の姿を見た瞬間、ハランの身体が強張るように固まるのを彩羽は感じた。湖南は、背中に負っていた少女をその場にそっと下ろすと、濡れたアスファルトの上に横たえた。

 彩羽は戦慄した。

 それは鷹山彩羽だ。なぜ、自分があそこに――



「……喰われたのね」



 湖南はハランではなく、その内にいる自分に話しかけているようだった。



「来ないで、雲居さん」



 ハランが彩羽の声で言った。



「来ないで。お願い、こっちに来ないで」

「いくら言っても無駄だぞ、ハラン。お前の居場所なんてこの世界にはない」

「――――、」

「お前は、ここが自分の世界だと誤解しているかわいそうな虫螻バグ、知っている? 人間の世界では、お前のような害虫は駆除されなければならないのよ」

「だマれ」



 彩羽の、否、ハランの声には、怒りのようなノイズが混じった。



「虫螻、ダと。それハ、お前ノ方だ。消エろ、私ノ、世rldかラ」

「こっちは、この世界のことは知り尽くしているんだ。隅から、隅まで――――」



 湖南は手に握っていたスマートフォンの電源を入れた。侵食する白に対抗するように、湖南の立っている場所はまだ、雨に濡れた羽色の黒を保っている。その中にうっすらと輪郭もおぼろに浮かびあがる電子画面。親指でスワイプすると、緊急時通話用のテンキーが出現する。十数ケタの見知らぬ番号を素早くブッシュし、発信した。

 途端に、彩羽の視界が激しく揺さぶられ、目に映るあらゆるものが三原色のノイズを帯びた。ハランがぐらりと膝を崩し、その場に倒れ伏す。こめかみに針を突き刺されたような激痛が走り、ハランも彩羽も同時に両手で頭を抱えた。



「あ、うう!」

「今だ、鷹山彩羽!」



 湖南の声は心臓の辺りから聞こえた。



「飛び出せ――ハランの中から! ここにあなたの身体がある、戻って来なさい!」



 ――、

 そんなこと言われたって、どうやって?



「パスコード!」



 ノイズまみれの世界は、次第に裂けるように消えていき、目の前の奥に黒い世界が覗く。

『Hxyrpe』――そこに在ったのは、彩羽がよく見なれた世界だった。ふよふよと、揺れる水面の上に墨汁を垂らしたようなその世界は不安定で、様々な色と光がまじりあい、揺らめいていた。その中に彩羽は目を凝らした。微妙な波形の中、そっと指を伸ばす。そう、指を動かすことができる。水に指先を漬けたようなその瞬間、伸ばした右腕をハランの左手ががっと掴んだ。



「ああっう!」



 激痛。熱か冷気か、ともかく尋常ならざる感覚が、神経を苛んだ。



「やめて、やめて、やめて」

「う、う、う……」

「やめて!」



 腕が千切れそうだ。ハランと彩羽は分離しつつあるが、まだお互いの存在は重なり合ったままなのだ。身体の支配権がせめぎ合っている。左右とか上下とか、そういうものでは計れないほど、微妙で複雑な境界線によって……眼球の中から光が漏れ出しているように、視界が眩む。それは太陽のような閃光によるものではない。もっと内的な、神経へ直接働きかける信号だ。だが、再びハランの左腕に激しいノイズが走ったかと思うと、それはたちまち霧散して消えた。



 彩羽は腕を伸ばす。

 暗くて冷たい闇に触れた指で、文字をなぞる。4、4、2、0――闇に書いた数字が解けて消えていくのと同時に、なにかに弾かれたように彩羽の身体が吹きとばされ、その場に倒れ込んだ。視界がぐらぐら揺れて、立ち上がることもできない。激しく、大きく、ゆっくりと波打つ三原色の光に、胃の奥からぎゅっと何かが締め出されるような思いがした。そして結局、それを我慢しきれなくて蹲り、思いっきり吐き出した。その奥から漏れ出してくるのは胃液や夕食の中身ではなく、ただ、空気のように軽い真っ白な何かだ。まるで、人体の中で溶解した発泡スチロールの梱包材が喉を通って出てきたような格好だ。



「もう大丈夫よ」



 湖南の声が耳元から聞こえた。



「あなたの身体はここ。すぐに戻って。すぐに!」



 湖南に手を引かれるがまま、彩羽はもつれる脚を引きずって、身体の中に飛び込んだ。小学生のころにプールに飛び込んで泳ぐ練習を延々とさせられたときの、塩素の匂いのする液体の感触を思い出した――ずるっと、生温かく触れるような自分の肉体に潜り込んだ後、徐々に回復していく視界と五感に気を巡らせた。



 瞳を開く。

 最初は何も見えなかった暗いままの闇が、ノイズにまみれて少しずつ明るく晴れていく――最初に見えたのはアスファルトだった。ガラスの粉末のような、きらきらした小さな破片が無数に埋め込まれた道路。顔を上げると、信号機や横断歩道の線の輪郭。傍らに寄り添うようにしてしゃがみこむ、雲居湖南の横顔と、その視線の先にはぐずぐずに崩れたハランがいた。もうその姿は、もとの小さな少女のものに戻っている。周囲に白い液体を撒き散らし、身体は歪に裂けている。内側から爆発したように吹き飛んだ右腕には赤と緑が交互に点滅し、辛うじて残った顔にはマスクのようにノイズがかかってその表情を窺い知ることができない。

 湖南はハランから視線をそらさないまま、そっと彩羽の手を取った。



「今のうち――逃げるわよ」

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