INSTALL

 雲居湖南も、檳榔子黒も、ハランも、皆それぞれ違った思惑を持って自分に接触していきている。だが、何が見えていて何が見えていないのか、それすら信用できない『Hxyrpe』の中でじっとしているのは耐えられなかった。このまま黙っているよりも、脚を動かしているほうが、ずっと安心できる気がしたのだ。



 一段一段、階段を踏みしめて降りていく。踏みしめるたびに石造りの冷たくしっかりした感触が、足の裏に返ってくる。それを頼りにしながら、更に足を前へと進めてゆく。降りているうちは確かに安心することは出来たかもしれないが、それでも生きた心地はしなかった。ただでさえ冷たい『Hxyrpe』に充満した空気が、下へ、下へと降りていくたびにますます冷たくなっていく気がした。でも、肌を撫でる冷たい空気は、彩羽の身体の輪郭をよりはっきりと再認識させてくれる。身体じゅうのノイズが無くなって、完全に鷹山彩羽としての輪郭を取り戻したとき、ようやく階段を最後まで下りきった。



 再び地図を確認する。ここから先は狭い一本道が続いていく。高い石塀に挟まれたその道は、まともな舗装がされているわけではないようだった。実際にどうなっているのか、基底現実ではどのような姿をしているのかは分からないし確認する方法もない――正方形の石が、等間隔に配置されてずっと伸びている。その周囲にあるのは、ただ闇。一切の光がない、黒でもない。ただ、何色もそこには存在していないという闇だけだった。石のブロックの上へ飛び乗ると、そのブロックは輪郭をわずかに乱れさせると同時に、周囲の闇へ同心円状の波紋を広げた。まるで池の上に配された飛び石だ。もちろん、ここが池になっているということはないだろうが、ともかく彩羽はこの正方形の石の上だけを通っていくことを決めた。

 さっき降りてきた階段の上から、突然、白い光が彩羽の元へ降り注いだ。思わず見上げると、そこにはさっきの白い少女がいた。

 ハランだ。さっき離れていったはずなのに、もうこちらの居場所に勘付いたらしい。



「みいつけた!」



 彩羽は振り返って走り出した。振り返らずに、一歩一歩、確実に飛び石の上を跳びながら――ふと、飛び石の周囲に広がる闇が白く染まっていくのを、視界の端に見た。まるでコーヒーに溶かされたミルクのようにじわりと、しかし素早くそれは浸透し、黒い飛び石の姿を白の上に浮かび上がらせた。すぐ近くまで、ハランは追ってきている。『Hxyrpe』を、この漆黒の世界を、白く破壊しながら。彩羽に出来ることは振り返らずに逃げ続けることだけだった。自分の向かう先へ、濃い影が落ちる。



 その影は常に一定せずに、濃淡のグラデーションをノイズのように遷移させている。彩羽は慌てて自分の身体を見たが、そこには一切のノイズが入っていない。むしろ、身体の輪郭が淡く光っているようにすら感じる。青……どちらかというと紫がかった、藍色のようなわずかな色彩。



 地図はまだ、まっすぐ進むように彩羽へ促す。だが、ハランはすぐそこまで迫ってきている。この道はずっと、どこまでも続いていき、白い水面に黒く浮かび上がった正方形の飛び石はどこまでも等間隔に続いていく。周囲の石塀のブロックのひとつひとつ、その隙間に至るまで、白い液体は浸透して行って、格子状の輪郭を崩し、白一色に染め上げていく。異様なその光景に戸惑いながら、緩やかにカーブした一本道を進んでいったとき、彩羽は気が付いた――そのカーブの先から、まばゆい光が漏れ出しているではないか。



「――――、みつけた」



 ハランがにっと、引き裂かれたような口で笑う。

 振り返る。そこには黒い水面をかき分けながら、駆け寄ってくるハランの姿がある。



「ハランが、ふたり……?」



 ふたつの白が、同時に走り出す。

 それぞれの距離は、三十メートルほど。走ってくる速さから見ても、十秒とかからずに彩羽は捕まってしまう。逃げる道がない。

 どうしよう、とおろおろするうち、バランスを崩して白い水へ倒れそうになる。あわてて石塀に手をつくと、そこから水没した液晶画面のような白線のノイズが彩羽の腕を這いあがってくる。ものすごい速度と、激痛が、腕を焼くような悲鳴を上げた。



「ああああああああっ、つう……!」



 石塀の上にへたり込んだ。白くなった石垣には一瞬しか触れていないのに、たったそれだけで身体がノイズまみれにはじけている。直接触れた右手の指先は、もはや原形をとどめていない――そこに手のある感覚は残っているが、ノイズによってぼやけた輪郭は既にそれが人間の手であるとは思えないほどにブレていた。



 頬のあたりに、炎が近付けられたような熱を感じて振り返る。そこには真っ白で細い指があった、ハランは彩羽の首のあたりへ手をやると、背中から抱きしめるようにして彩羽の身体を掴んだ。熱したフライパンに大量の水を投げ入れたような音と共に、彩羽の身体は真っ白なノイズに包まれる。



「ふぁぁああぁ……!」



 気の抜けた悲鳴が口から漏れ出てくる。



「つかまえた!」



 視界がちらぢらしく、激しくブレる。

 焼けるような肌の痛み。目で見える情報だけじゃない、身体の輪郭が失われていくような感覚。耳元でハランが何かを呟いているが、もう耳に入らなかった。

 自分が消えていく。

 鷹山彩羽という人間が。



「あぁ、あああ……」



 恐怖はなかった。ただ、痛みにも似た暖かさがあった、無理やり身体から解放させられていくような。熱湯にぶち込まれ、丁寧に髪を乾かされた後に、高級な羽毛布団とスプリングの効いたマットレスへと押し込められ、蒸したアイマスクを目にかぶせられているような、心地よさだけがあった。耳元で絶えず鳴り響く音や声は、不快なノイズから、川のせせらぎ、草木のざわめきのようなホワイトノイズへと変わっていく。そのことが何よりの恐怖だった。恐怖が浮かんでこないことが恐怖だった。

 このまま消えてしまうことに、全く違和感がなかった。



 やがて目の前が真っ白に染まる。なにも聞こえなくなる。彩羽の身体は完全にノイズに包まれて、その身体は原形をとどめていない。激しく三原色へ明滅し、ハランのか細い腕に抱かれ、腐りきった果物がそうなるように、真っ白な水の中へと融け落ちていくところだった。表情を外から窺い知ることは出来ない――顔に貼りついたテクスチャは完全に崩壊し、そこには頭蓋骨を切り開いたような黒い空洞だけが広がっていた。

 もはやただのノイズの塊と化した彩羽を抱きかかえ、かがみこんだハランのもとに、もうひとりのハランが駆け寄ってくる。



「きえた?」

「まだだよ」

「はやく、はやく!」



 そこに石垣をひょいと飛び越えて、更にもう一人のハランが現れた。



「どうしたの?」

「きえた?」

「きえてない」

「どうして?」

「なぜ?」

「なぜだろう」

「なぜなのかな?」

「きえて」

「きえて」

「はやく、はやく」



 その瞬間、彩羽の身体が放り投げられた。黒い飛び石の上へ辛うじて残されたノイズまみれの身体を足蹴にするように、三人のハランが立ち上がる。式典に出席する小学生のように体の筋という筋をピンと伸ばし、互いに目配せしあう。それぞれのハランが纏う白い光がやにわに強くなり、互いの身体に干渉しあう。ハランたちはそれぞれ、お互いから眩しいものに対面したように目を逸らした。白い光は融け合い、一つの強い光になる。やがて終息したとき、そこに立っていたハランはたった一人だった。



「――――、うん、これでよし」



 その姿は――

 彼女の足元からすっかり消失してしまった、鷹山彩羽そのものだった。

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