Substitution "Layer"

 いま何時だろう。

 部屋の電気を常につけておいて、部屋にある背の高いものはすべて壁際へ寄せた。勉強机は、椅子を収納する方を壁に向けて置き、本棚にはカーテンのような大きな布をかぶせている。ベッドは解体して押入れに入れておいた。もちろん、押し入れの襖は閉じたままにしておいて、二度と開くことはないかもしれない。壁に貼っていたポスターやカレンダーの類いも全て取り外され、神経質なことに、壁にあけられた画びょうの穴はすべてマスキングテープで塞がれていて、現代美術のようにカラフルになっている。



 異様な空間がそこには広がっていた。フローリングの上に敷いたマットレスの上で蹲りながら、彩羽は必死に睡魔にあらがっていた。傍らには、近所のドラッグストアで安売りしていた缶コーヒーの山がある。今日だけで三缶ほど飲み干し、いま四缶目を手に取ってプルトップを開けた。砂糖とミルクがほどよく混じり合った茶色く冷たい液体を胃袋に流し込み、今晩だけで何十回目かの溜息をついた。遮光カーテンに遮られて、窓の外の様子を窺い知ることは出来ない。



 もう何日も眠っていない。

 あの日以来――電車の中で、窓に写った自分が勝手にしゃべり出したあの日以来、彩羽は夜に眠ることや暗い場所へ行くこと、鏡を見ること、瞬きをすることさえ恐れるようになった。

 というのも、たったそれだけの僅かなきっかけで『Hxyrpe』へと入り込んでしまうようになったのだ。

 入るのは一瞬だけで、すぐに脱出することは出来るのだが、ふたつの世界を激しく行き来することによって脳が異常に疲労し、視界は常にぼやけ、身体の輪郭が溶け出していくような奇妙な感覚が常に身体にこびりついていた。

 悪夢を見ないための方策として、彩羽は「眠らない」という、きわめて原始的な手段に打って出た。結果、更に脳は疲労し、ぼやけた感覚も悪化するという悪循環へと陥っている。それでも完全に眠ってしまうよりはずっとましだと思っていた。次に『Hxyrpe』へ入り込んだら戻ってこられない。そういう確信があったからだ。



 あの時、窓ガラスに映った自分の姿を借りて、「見つけた」と告げたもの。あれが何であろうと、たとえ自分の心が見た妄想や幻視であったとしても、それを感じてしまったのが自分自身である以上はそうなってしまうのだろう。



 もはや自分で起きているのか眠っているのかも曖昧になりつつある彩羽だったが、その度に新たなコーヒーの缶を手に取って開け、胃の中に流し込む。大量の茶色の液体は、コーヒーの刺激とミルクと砂糖の甘ったるさ、それらが混じり合うことにより生じる独特の粘度によって彩羽の内臓をライトブラウンに覆いつくしていることだろう。見ていないから、分からないけれど。



「気持ち悪い……うっ、」



 だんだん胃が痛くなってきた。頭はぼんやりしてもう平衡感覚も失われつつあるところだ。完全に本末転倒だが、彩羽はそれも気づかないほどに眠ることを極度に恐れていた。

 ――もしかして、自分は既に眠ってしまっているのではないか?



 もぞもぞと、身体に巻き付けていた毛布をはぎ取る。



「トイレ……、」



 と、いちいち口に出すのも、目を閉じないために必要なことだ。目を閉じたままトイレには行けないので、彩羽はまだ眠らずに済んでいるらしかった。



 扉を開く。現在はおそらく夜中なのだろう、家族はみな寝静まっているようだ。時どき、ぎしっと木の軋む音がするだけで、あとは無音。そして無明――部屋の明かりを出来るだけ廊下に取り込ませるように扉を大きく開いたまま、彩羽は廊下をよろよろ歩き出した。



 廊下の電気のスイッチは、彩羽の部屋から少し離れたところにある。暗い中でも、自分の意識だけはしっかりと持つようにして、歩き続ける。

 だってここは『Hxyrpe』とは違う――確かに黒いけれど、そこには浮かび上がる美しい輪郭がない。波打つ光の層がない。たかだか、部屋の蛍光灯に消えて負けてしまう程度の闇だ。



 スイッチまではあと何メートルほどあるのだろうか。ふと、暗闇にぽつんと蛍のように浮かぶ緑色の光が見えた。廊下の明かりをつけるためのスイッチだ。それはリビングの入り口のすぐ手前にある。トイレは彩羽の部屋から見て、リビングとは逆方向にあった。しかし、彩羽は先に廊下の照明を点けようと思った。極度に恐れていた。あの『Hxyrpe』のことを。自分の意思で没入はいり、自分の意思で離脱るのは良い。それは心地よく、それでいて刺激的な体験だった。目の前に広がっていたのはプラネタリウムのような神秘の宇宙であり、それは美しかった。

 だが、その世界には自分の意思ではない別の暴力が存在し、それは自分のことを付け狙い、世界へ取り込もうとしている。それは冒険ではなく、帰還の見込みのない旅であり、ともすれば自分はそのまま死んでしまうのではないかということまで考えた。『Hxyrpe』へ行くのはあくまで自分の意識であり、肉体は基底現実へ置き去りのままなのだ。自分の肉体が自分の制御下にない状態で、なんらかの危険にさらされたら? 肉体をなくした彩羽の精神は消え、それはすなわち死だろう。



 あと少し。

 一歩一歩がとてつもなく重い。目いっぱい手を伸ばし、彩羽は指先でそっと、照明のスイッチを押した。ぶつ、という電気が通い始める独特のノイズと共に、廊下は白い光に包まれた。リビングから廊下、トイレの扉、その先にある玄関への道がはっきりと目に見えた。



「よかったぁ」



 安心すると同時に、彩羽はトイレへ少し早足で向かった。






 用を足すと、不思議と眠気が少し覚めたような気がした。彩羽はほっと落ち着いて、コーヒーではなく冷たい水を飲もうとリビングへ向かった。廊下の電気は点けたまま、リビングの扉を開けて電気をつけた。廊下の寒々しい蛍光灯の光とは違う、アンバーの明かりが部屋全体を包む。テーブルや椅子の影を踏まないようにダイニングを通り抜け、カウンターの向こう側で息を潜めているキッチンへ向かった。寝る前に母親が皿洗いを終えたのだろう、キッチンは整然と片付いている。彩羽はいつも使っているピンク色のコップを手に取ると、水道の蛇口から水を注いでゆっくりと喉に注ぎ込んだ。ぷぅ、というような気の抜けた息が漏れた。



 意識はだんだん明瞭になってくる。散々、彩羽を悩ませていた睡魔も、とうとう諦めたらしかった。山を越える、という奴だろうか。彩羽は上機嫌になってもう一杯、コップの水を飲み干して、部屋に戻ろうとキッチンを這い出た。

 リビングと廊下を繋ぐ扉は開きっぱなしだ。



 廊下の電気が消えている。

 自分は消した覚えがない。



 寝ぼけているのだろうか、と思ってもう一度スイッチを押しても、廊下の電気が点かない。ついさっきまであんなに強く光っていた蛍光灯は、なんどスイッチを押しても点灯しなかった。



「おかしいな」



 かちっと、ガラスの器と器を触れ合わせるような音が耳の中奥深くを叩いた。リビングの電気が消える。アンバーの電球色が消え、部屋の中が冷たい黒に変わった――と、彩羽は混乱したが、すぐにこれが闇ではないことに気が付いた。



 テレビだ。

 つい数年前、買い替えたばかりの液晶テレビの電源が入っている。いや、入れられている。

 何かの番組を放送するわけでもなく、ただ、真っ黒な画面が映し出されていた。それは周囲の暗闇とはまったく異質な黒で、かといってグレーでもない、どっちがより黒いか、とか、そういう次元の話では全くなかった。そこに黒い四角形が浮かんでいる。テレビ本体の輪郭すら曖昧な中で、砂嵐でもなんでもない、一切のむらもない完全な黒。



「だれ――」



 恐ろしくなって、彩羽は思わず呟いていた。

 なに、ではなく、



「だれ? どこにいるの?」



 彩羽は自分が暗闇の中にいることをはっきりと理解していた。

 けれど、それ以外は何も分からない。周囲には何の輪郭も浮かんでこない。つまり、これは『Hxyrpe』ではない。まぎれもない現実を彩羽は見ているのだと、そう認識した。

 突然、夜間モードで通知が鳴らないように設定していたはずのスマートフォンが、音を立てて鳴りだし、光りだした。設定したことのない着信音――デフォルトで収録されているメロディをめちゃくちゃにつぎはぎしたような、奇妙で不快で、何の規則性もない音楽。



 発信源は「42-9293737132」。どう見ても見たことのない電話番号であり、迷惑電話なのは一目瞭然だった。だが、彩羽はその画面を見てはっきりと、分かってしまった気がした。その瞬間、手にしたスマートフォンの画面を中心に、三色に光り輝くドット状の何かが、蜘蛛の子を散らすように周囲へ撒き散らされていくのを感じた。見たことがあったのだ、なにかの本か、ドラマかでやっていた、携帯電話のプッシュ・キーを使った暗号。



 つまり、「4」を「2」回。続いて、「9」を「2」回。「9」を「3」回……ローマ字の母音のように、必ず数字のあとに「2」や「3」が添えられていることにピンと来た。来てしまったのだ。それは解読するべきではなかったと思いつつも、彩羽には一瞬で分かってしまった。



 ――H、x、y、r、p、e。

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