I.D.P.S.
「もしもし……」
『もしもし』
「だ……だれ?」
数秒の無言。
『黒』
「黒?」
『繋がった――今すぐ逃げて。そこにいたら危ない』
「危ないって?」
『ハランがあなたを狙っている。すぐに私のところに来て』
「狙っているって? どういうこと?」
『このままだと、あなた、鷹山彩羽』
「私がどうなるの?」
『のっとられる』
その言葉だけ妙にオカルトめいていた。
『ハランは、鷹山彩羽、あなたの身体を奪って基底現実へ逆侵するつもりなんだ。気が付いているかどうか、分からないけれど、あなたは既にこっち側に
「ちょっと待って、どういうこと? どこに行けばいいって?」
『公衆電話――街灯の下――噴水――横断歩道――白い歩道橋――』
いきなり耳に氷の詰まった雪玉をぶつけられたときのような音がした。驚いて電話を耳から離したとき、既に電話は切れていた。そしてディスプレイの光も消え、なんどボタンを押しても反応しない。
「み、い、つ、け、た」
振り返ると、テレビに幾何学的な格子状の白いノイズが入り、薄いガラス板の上でダンプカーをゆっくり走らせるような冷たい音がした。次第にそのノイズは激しくなっていく。
やがてテレビの画面の中から、白くてほっそりした人間の手が現れた。三原色のブロックノイズが激しく走りながら、次第に輪郭をはっきりさせていくと共に、テレビの画面の中から現れていくそれは、幼い女の子だった。ホラー映画よろしく画面から這い出てきて、小さな裸足で床に立った時、身体じゅうを覆っていたサイケデリックなノイズは消えて失せ、真っ白な輪郭が顕になった。
白い髪、白い顔、白い肩、白い腕と脚……身体が蛍光灯で出来ているんじゃないかと思うほど無機質で、ぼんやりとした光が漏れ出してくるようなその少女は、彩羽のことを見てにっこりと笑った。
「みいつけた。いろは」
足がすくんで動けない。いまにもへたり込みそうになる膝と身体を支えるだけで精いっぱいだった。なんだ、これは。
あの白く罅割れた道路を思い出す。
目の前には、白がある。
「あなたが……ハラン?」
一歩。彩羽のほうに歩み出した足を中心にして、ぶわっと床にノイズが走る。
「でていって。わたしのセカイから、きえて。はいって、こないで」
胃の奥がぞわぞわした。
一歩。また一歩と、近付いてくる真っ白の少女に、彩羽は何の感情も抱かなかった。ただ恐ろしかった。目の前の、せいぜい十歳かそこらにしか見えない子どもと相対して、身体が動かない。呼吸が浅くなり、そのうちに息が出来なくなる。
少女は彩羽の目の前にいる。
手を伸ばせばすぐ届きそうなほど近く。
ハランはほっそりした、折れそうなほど透き通った右手で彩羽の胸に手を翳すと、そのまま手を彩羽の身体に差し込んだ。ぐっと、身体じゅうの痛覚をかき集めたような衝撃が心臓を叩いた。――自分の胸に、ハランの腕が突き刺さっている――心臓をぎゅっと細いガラスのような指で掴まれているのが分かった。傷口には激しいブロックノイズが走り、ぼろぼろと身体が崩れ落ちていく。激痛と、血の失せていく衝撃で、意識が急に遠のいていく。
「きえて――しんで――」
「か、は、ぁ……」
ハランの手首を握ると、赤熱した鉄の棒を掴んでいるような激痛と共に、手のひらがハランの手首に貼りついて離れない。そこから、赤い線状のノイズが肘まで這い上がって来て、腕全体がしびれるように蠕動する。
ハランはずっと、貼り付けたような笑顔のままだ。
心臓がぎゅっと縮み上がり――いや縮み上げられ、声にならない悲鳴が口から漏れた。肺の空気が一気に吐き出される。激痛と酸欠で声が出ない。
「――かはっ、こほっ……!」
突然。身体に力が入らないままだった彩羽の意識が、急に鮮明になった。
肺いっぱいに冷たい空気が流れ込んで、脳いっぱいに酸素が行き渡るような感覚。
「おまえ!」
誰かの声がする。
ハランと彩羽の間に人影が割って入った。その姿をおぼろげに見たまま、彩羽はそのままへたり込んで心臓を抑え、深呼吸をしていた。
「雲居、さん……?」
雲居湖南。
夜中だというのに、制服姿で現れた彼女は右手でハランの手首を掴み上げると、左手をその顔の前にかざした。
やにわに、白い少女の顔に黒い影が走ると、そのまま後方へ吹き飛んでいく。リビングを通過し、ベランダに続く窓をすり抜けて、暗い闇の中へ霧散していった。家具やフローリング、天井にまで、粗密混交した三原色のノイズが一斉に走り出し、みしみしと音を立てて震えだす。
「逃げるよ」
湖南は彩羽の腕を手早く肩に回すと、そのまま玄関へと駆けていく。
「雲居さん、どう……して、っう!」
「しっかり。とにかく、今は逃げるの」
湖南に引きずられるように彩羽は玄関から外に出た。靴も履かず、着の身着のままで夜の街へ飛び出した。
ひやりと肌を撫でる冷気。アスファルトに引かれた白線は油ぎった玉虫色に浮かびあがり、電柱や信号機、電線の一本一本に至るまで、ワイヤーフレームのように夜の黒に浮かび上がっている。
そこは、まぎれもなく『Hxyrpe』だった。
いつの間にか、また、没入り込んでいたのだ。
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