0-Day Strikes

 地図アプリは相変らず狂ったままだ。画面の中によると、彩羽はぐるぐるとフィギュアスケート選手のように激しく回転しながら、そこら中のビルを突っ切って、車道を何度も横切りながらじぐざぐと北に向かって進んでいる。いらいらと彩羽はスマートフォンをポケットに突っ込んだ。自分がいまどこにいるのか分からない。確かに自分の足で歩いてきたはずで、自宅からそう遠くに行っていないと思うのだが、どうやらそうでもないらしい。



 地図アプリに、試しに自宅の住所を打ち込んでみる。自分はそこから五十キロも離れた場所にいるらしかった。そんな馬鹿な、どんなに頑張っても五十キロをひとりで歩いてくるなんて無理だ。まだ正午にもなっていないというのに。



 さっきの通り雨のせいで、猛暑に湿気という余計なものがついてきて、もはやこの世のものとは思えない不快感が彩羽に襲いかかった。どうして自分はこんなところにいるんだろう、早く帰りたい、帰ってクーラーの効いた部屋でだらだらしたい――そんなことを考えながら歩いているとどんどん知らない道へと入り込んでいくようで、彩羽は心細くなってきた。やけに思考を阻害されると思ったら、それは東京のど真ん中でも喧しく鳴き続けるセミの声だ。ノイズのようなその音が耳に入り込んでくるだけで、ほんとうにノイズとなって思考をかき乱される。目に映る景色とアスファルトの向こう側の陽炎、どれもこれも全て、彩羽の脳へ余計な刺激を与えるものに感じられた。



 逃げ出したい。

 手っ取り早い方法が彩羽にはあった。『Hxyrpe』へ――あの世界へ逃げ込むことだ。そうすれば余計なものを見たり聞いたりしなくて済む。だが、次の瞬間にその甘い誘惑は、恐怖によって掻き消されてしまう。



 裏側の世界、基底現実、ハラン。



 彩羽はスマートフォンで調べてみた。基底現実――それはとある漫画の中で、身体の存在する物理的な現実のことをそう呼称するらしい。『基底』とは、ものごとを生成するうえでのもとになっている部分のことを指すらしい。

 檳榔子黒も雲居湖南も、基底現実という言葉を遣う。それが、いま彩羽が汗を流しながら歩いているこの場所のことなんだとしたら、裏側の世界というのは、この現実を元にして作られたものということになるのだろうか。だから、この現実に存在する無機物が輪郭と実体とを残して、同じようにそこに存在する。



 彩羽はそこで疑問をおぼえた。では、どうして『Hxyrpe』には、生きた人間がいないのだろうか? 基底現実が『Hxyrpe』の基底ベースとなっているのだとしたら、当然、そこにいるはずの人間や自動車など、ありとあらゆるものが向こう側へ存在していないとおかしいということになる。

 いや、存在はしているのだ。例えば彩羽が『Hxyrpe』の中で好き勝手に歩いていたとしたら、そのあたりを歩いている人間にぶつかってしまうことはあるだろう。学校の踊り場で起こったこともそうだった。彩羽の目には見えていなかっただけで、確かにクラスメイトはそこにいて、彩羽はそれに触れたのだ。基底現実の人間は、『Hxyrpe』でも確かにそこにいる。ではなぜ彩羽には見えないのか? あるいは、彩羽は自分では向こう側の世界にいると思い込んでいるが、実はただその世界を見ているだけで実際に入り込んではいない、だから基底現実にいる人間たちに物理的に干渉できてしまうのではないか?



 じりじりと音を鳴らして肌を焼く太陽の光から目を逸らしながら、彩羽は横断歩道を注意深く渡っていく。なんとなく――なんとなく、白い所を踏まないようにしながら、一歩一歩、飛び石のように。やけに長い横断歩道だ、まだ半分もわたっていないのに青信号が点滅を始めた。彩羽は小走りになって、早く渡り切ろうと横断歩道を急いで渡っていった。ようやく半分というところで信号は赤になった。彩羽はスニーカーのソールをアスファルトにこすりつけるようにして全力で走った。車両用の信号が黄色になる。あと少しで信号を渡りきる。もうちょっと……あと数秒というところで、車のクラクションが鳴り響いた。はっとして横を振り向くと、目の前にネイビーブルーの自動車が迫っている。横断歩道の向こう岸まではあと数歩というところだ。確かに、車両用の信号は青になっている。だが、彩羽はまだ渡っている最中なのだ。鼻先のエンブレムが彩羽の太腿の辺りにめり込んでくる。文字通り、焼き鏝を押し付けられるような鋭い痛み。彩羽の身体はもう動かなかった、そのまま自動車はブレーキをかけることもなく走り続け、彩羽の身体は宙高く打ち上げられた。ボンネットの上を転がり、フロントガラスに身体を打ち付ける。もう自分の意思では身体が動かない。そのまま平衡感覚を失って、彩羽の身体はアスファルトに叩きつけられる。すぐさま、もう一台、別の車が、倒れた彩羽の身体を引き潰そうと走ってくる。今度は大型のトラックだ。自動車なんかよりずっと大きなタイヤと車体、ひどい臭いの排気ガスが、もう目と鼻の先だ。身体には鈍い痛みと、アスファルトに肌を焼かれる鋭い感覚だけがある。もう動くこともできない。トラックはクラクションすら鳴らすことなく、彩羽に突っ込んできた。巨大な前輪タイヤに右手が踏み潰される、骨の砕かれる感覚。だが痛みはもうほとんどなかった。そのまま、タイヤは彩羽の手をすりつぶして、こんどは彩羽の目の前に迫ってくる。首がねじれる。アスファルトにこすれた頭が痛い、そして、重く熱されたゴムの塊がそのまま彩羽の頭蓋骨の上にのしかかって来て、






「はっ」



 そこで彩羽は気が付いた。自分の身体は無事だ。横断歩道の途中で立ち止まって、ぼうっと立っている。一体どのくらいの時間、そうしていたのだろうか――見ると、信号機が青く点滅している。彩羽は慌てて小走りに駆け出して行こうとして、足がすくんで動けなくなってしまった。さっきの光景が、残像のように脳裏にフラッシュバックする。足がアスファルトに縫い付けられたように動かない。歩行者用信号が赤に変わる。すくみあがる身体、早くなる動悸、ぎゅうっと映画館の照明が消えていくように狭窄していく視野――外から黒く染まっていって、目の前が暗くなる。



「引き返して」



 肩にそっと置かれた手は冷たかった。



「戻って。元いた場所まで」



 振り返っても誰もいない。けれど、彩羽はその通りにした。振り返って、横断歩道を引き返して走り出す。向こう岸までの距離が異様に遠く感じられたけど、走って、走って、なんとか歩道へと足を乗り上げることができた。すぐ後ろを、ごうごうと自動車の奔流が駆け抜けていく。さっきまで自分がすぐそこにいるのかと思うと、ぞっとした。



 さっきの声――肩を引っ張って、自分を救ってくれたあの冷たい手。檳榔子黒だ、間違いない、彩羽はそう思った。彼女の姿を直接、目で見たわけではないし、『Hxyrpe』へと没入した自覚もないが、彼女が助けてくれたのだと思った。大きな通りを避けて、できるだけ車道を避けて、避けて歩いていく。寂れた商店街をくぐり抜け、にぎわうアーケードを通り過ぎていくと、ようやく駅までたどり着くことができた。そこは、自宅の最寄り駅から二駅離れた小さな駅だった。降りたことも何度かある。けれど、それまで見てきた景色とはぜんぜん違うものを体験したような――

 恐る恐る電車に乗って、もう今日は帰ろうと決心した。扉に寄りかかり、窓から外の景色を眺めた。うっすらと映った自分の顔越しに、凄まじい勢いで流れていく街の景色。色とりどりの屋根。遠くに見える大きな建物は学校か、病院だろうか。太陽の光に淡く、白く照らされた風景は、まるでアニメの中の背景のように現実味がなかった。

 住宅街やマンションの色、色鉛筆で塗りつぶされたようにむらのある単色、そのくせ光と影の塩梅だけは妙に写実的だった。たまに、電車の方をぼんやり見ている人と、電車の窓越しに目が合う瞬間があった。そういうとき、彩羽はたまらずどきっとして視線をそらしてしまう。



 身体が鈍い空気の層に叩かれるような感覚――トンネルに入ったのだ。目の前が黒一色になり、窓ガラスに映った自分の顔が鮮明に映る。車内を寒々しい蛍光灯の光が照らし、言いようのない孤独を感じた。周囲には、ほかの乗客もたくさんいる。けれど、そんな乗客たちの様子を子細に観察するのもなんだかばつが悪くて、彩羽は自分と同じように扉の近くに立っている乗客たちがそうしているように、なにも映っていない窓ガラスをぼんやりと見続けた。

 白い光が目の前を横切った。たぶんトンネル内の誘導灯だ。これだけ高速で走っていたら、文字をいちいち確認することは出来ないけれど……



 彩羽は笑っていた。

 正確には、扉に写った自分の顔が笑っていた。にっと、歯を見せて。



「……え、」



 窓の中の彩羽は口を動かさない。溜息のように漏れたその声を発しない。



 ん、い……



 やがて、窓の彩羽が勝手に口を動かし始めた。気持ちが悪くて窓から目を逸らして振り返ろうとしたが、身体じゅうの筋肉が緊張して上手く動けない。呼吸が荒くなる。窓の中の彩羽は唇を真横にひっぱって、それから歯を見せて――声は聞こえないけれど、こう言っているのだと彩羽は理解した。



「――――み、い、つ、け、た」






 ばっと視界が白一色に染まる。電車がトンネルを抜けたのだ。

 明順応の一瞬、元に戻った視界に写るのは、もう鏡に映った鷹山彩羽の姿だけだった。

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