Water holing
歩道橋のあたりまで戻ってくると、そこには、さっきまで見えていた世界とは全く違う、別の世界が広がっていた。
車道には大地震のあとのように亀裂が入り、その部分は白く塗りつぶされている。まるで、アスファルトの裂け目になったところに白くどろっとした塗料を流し込んで型を取っているかのようだ。真っ黒な『Hxyrpe』のなかでその白い裂け目は、光り輝く現実世界への出入り口というよりも、無理矢理に世界を塗りつぶしてしまおうという悪意のようなものを感じる。
檳榔子黒は、彩羽のことをウィルスと、この白い裂け目を作りながら世界を破壊していくハランのことを免疫細胞だといった。もし、自分がハランに見つかっていたとしたら――この白い暴力的な塗料の下敷きにされていたのだろうか。
「基底現実へ離脱するには――」
檳榔子黒はようやく彩羽の手首から手を離した。
「自分で目覚められないときには、こちらへ『
「でも、今まではこっち側で移動したら、その……キテイ現実? でも、身体は移動していたけれど」
「それは、偶々うまくいっていただけ。知らない建物に入ったとき、ふつうは、入ってきた扉から出ていくでしょう。でも、今までのあなたは、その扉が大きかったか――あるいは、扉ではなくて壁や窓を壊して出ていたようなもの。とても乱暴で、下手をすれば肉体にも悪影響が出る。今のあなたの意識レベルなら、きっとそこまで深く没入していないから、それが少なかっただけかもしれない。でも、ハランに見つかってしまうほど深く入り込んでしまった今は、そういう風に乱暴に出入りすると、お互いに良くない。あなたにとっても、私にとっても」
一気にしゃべり終えると、檳榔子黒は凍り付いたように黙り込んで動かなくなってしまった。
「あの……、」
たまりかねて声をかけると、彼女は動き出した。歩道橋の上の方を細い人差し指で示しながら告げる。
「ここをのぼって、向こう側の階段で降りて行って。その途中に元に戻れるはず。自分で、いま離脱できると感じたら目を開くだけでいい。ここからは、私には手伝えないから」
「どうして?」
「この世界の感じ方は、人それぞれ違う。あなたが見ているこの世界と、私が見ているこの世界は違うものに見えている。さあ、早く行って。またハランに見つかると面倒だから」
彩羽は言われたとおりにした。檳榔子黒の言うとおり、走り出しそうになる自分の足を必死に抑えながら、色彩の失われてしまった歩道橋の階段を一段、また一段と昇り始めた。
あれだけきらきら輝いていた世界の輪郭が失われてしまっている。ただ、そこにほっそりと見えるだけだ。階段を上りきると、長い歩道橋の反対側へ向けて歩き出す。手すりはすっかり色あせて、今や単なるグレーだ。古びた蛍光灯のように頼りなく、くすんだ色を呈していた。あの美しい緑青色や、ネオンのように激しく、美しく光り輝く輪郭はそこにはない。
一歩、一歩と歩いていると、不意に踏み出した右足がどすんとやけに重たく感じられた。身体いっぱい、ふいに重力が襲い掛かってくる――そう感じた瞬間にたまらず目を開き、彩羽は基底現実へと戻ってきた。
車がごうごうと足元を行き交う。
あのアスファルトの裂け目は影も形もない。ただの現実がそこに広がっていた。ただ現実ではないことと言えば、彩羽の足に確かにあったはずのスニーカーが無くなっていたことだった。薄いソックスのまま歩道橋を最後まで渡りきると、その階段の足元、一段目に、忘れ形見のようにそっとスニーカーが置かれていた。――落書きの書かれていた、あの手すりの辺りだ。けれど、そこまで下りていってスニーカーに足を突っ込んだ時、既にあの落書きは消えて失せていた。それと同じように、周囲を見回しても、檳榔子黒の姿はどこにもなかった。
「懲りないね。あなた」
背後から投げかけられたその声に振り返ると、パーカーにショートパンツというラフな格好をした雲居湖南がそこにいた。呆れたように腕を組んで、指先で前髪をくるくるいじっている。その眼には侮蔑と怒りが半分になったような色が浮かんでいた。
彩羽は居心地悪く、手すりにもたれかかった。
「また――見てたの?」
「『向こう』には行かないほうがいいって、私は忠告したはずだけど」
「そんなこと言われても――私だって本意じゃなかった。気がついたら向こう側に行ってたの。変な女の子がいて――」
その瞬間、湖南の血相が変わった。
やけに涼しい風が吹いたと思ったら、あの青空には重たい雨雲が覆いかぶさって、日光を遮っている。彩羽はひるむことなく、言葉を継いだ。
「檳榔子、黒。知っているの?」
「もう関わらないで。これはあなたが首を突っ込む問題じゃないの」
「ねえ、あの世界って何なの? それに、あのアルファベット――H、x、y、r、p、e――あれがあの世界の名前なんだと思ってた。ねえ、あれは何? 基底現実って? それに、ハランとかいう変な……免疫細胞みたいなやつがいるって……」
「ねえ――自分で気づいているの? 鷹山彩羽さん」
「気付いているって……何に?」
「これ、たぶん、最後の忠告だからよく聞いておいて。もうあの世界には行ってはいけない。例え
「さもないと、何なの? ねえ、教えてよ、雲居さん」
「あなた、戻ってこられなくなるよ。基底現実に。殺されるよ、あの世界に――黒に」
ぬるい雨が降り始めた。
湖南は彩羽の肩をぐいと引っ張って歩道橋の最後のステップから引きずり下ろすと、歩道橋の上へと歩いて行った。ねえ、ちょっと、と声を賭けようとした瞬間にはもう湖南の姿はなかった。影も形もなく、消えて失せていた。歩道橋の向こう側に降りたのだろうか、とも思ったが、それにしたって異常に速すぎる。文字通り、そこから消えていなくなってしまった。もしかしたら『Hxyrpe』にいったのかもしれない。
もう一度目を閉じても、もう向こう側へとつながることは出来なかった。
遠くから、救急車がサイレンを鳴らしながら走ってくる音が聞こえる。彩羽は一瞬、身をこわばらせたが、すぐに持ち直してその場を離れた。気が付くと雨がいつの間にか止んで、さっきまでこの辺りを覆っていた雨雲が嘘のように消えてなくなっていた。
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