Blackhat #00081a

 彩羽はおそるおそる、エメラルド・グリーン色に光り輝く針金で形作られたような歩道橋の階段を上り、ずいぶん時間をかけて一番上までたどり着いた。その少女はまだそこにいる。改めてはっきりとその姿を見たとき、髪の毛が異常に長いことに気が付いた。辛うじて分けられた前髪も含めて、膝から下を通り過ぎて、もはやほとんど地面に引きずるほどの長さだった。毛先は乱雑に切りそろえられていて、黒という色はすべての色を内包しているはずなのに、その黒からは「黒」以外の何も感じられなかった。『Hxyrpe』の空は、あんなに色とりどりの点を内蔵した黒なのに――



「だ、だれ……?」



 恐る恐る問いかけると、意外にもセーラー服の少女は、はっきりとした口調で返事をした。



くろ

「くろ?」

「名前。檳榔子びんろうじ……くろ



 細いのに、随分よく通る声だと思った。それだけ、この世界が静かだからだろうか? それにしても、ここまで黒く存在感を放つ少女に「黒」という名前が付けられているとは、よく似合っていると思う。



「私は、鷹山彩羽」



 いちおう形だけの自己紹介を返して、彩羽は歩道橋の下を指さした。



「あの落書きをしたのは――あなた……?」

「そう」

「どうしてこの世界のことを知っているの?」

「それは順序が違う。この世界のことを知ったのはあなたのほう、鷹山彩羽」



 彫像のようだった。彼女は背筋を伸ばし、細い脚で真っ直ぐに立ったまま、全く動かない。 

 こんな風に立ってしゃべる人間を彩羽は見たことが無かった。



「どういうこと?」

「もともとあったこの世界に『侵入ジャック・イン』してきたのは、あなたのほう。だから、私がこの世界を知っているんじゃなくて、あなたがこの世界を知った。私はそれに気が付いて、あなたをここに招き寄せたの」



 檳榔子黒はそこで初めて人間らしく、真っ黒のローファーで地面を踏み鳴らしながら彩羽のほうへ身体を向けた。



「あなたは未熟。この世界に順応して間もない。そんな時に、あんなことをされたら困る。もう少しで死ぬところだった。この世界を認識できていても、肉体は別。激しく損傷したら、生きてはいられない」

「じゃあ、さっき私の足を引っ張ったのって……!」

「あなたには生きていてもらわないと困る。正確には――まだ基底現実に肉体を置いておいてもらわないと。そのためにも、迂闊な行動は控えたほうがいい」

「あなたも、雲居さんと同じようなことを言うんだね」

「あの人はもう、こっち側を歩くことに慣れているから。あなたとは違う」

「雲居さんとも知り合いなんだ」

「でも、たった数日でこの世界をはっきり認識できるようになるのは、すさまじい素質。だから、あなたはもっと順を追ってこの世界に適応していくべき。それまで、基底現実下であなたの肉体に物理的な損傷があると、それはとても……困る。あなただってまだ、死にたくはないでしょう?」



 その時だった。ぐらっと地面が大きく揺らいだかと思うと、遠くで重たい瓦礫を引きずりまわすような轟音がした。それはだんだんこちらへ近づいてくるようで、彩羽の身体が強張る。そのけたたましい音は、彩羽たちの足元――歩道橋の下を通っている幹線道路の向こう側から、だんだんこちらへ近づいてくるようだった。



「なに?」

「気付かれた。ついてきて、逃げなくちゃ」



 と、檳榔子黒は彩羽の手首をつかむと、軽やかな足取りで歩道橋を駆け出した。

 彩羽は突然、機敏な動きで走り出した黒のことよりも、自分の手首を握っている細い指の異様な冷たさに驚いていた。その温度の無さは、質量を感じないほどのもので、そんな軽い身体に引っ張られていく自分の身体の方から熱が奪われていくような感じがした。



 階段を駆け下り、誰もいない歩道を黒に引かれるがまま駆けて行く。その間にも、特急電車が急ブレーキをかけた時のような音が背後から近付いてくるのは、ちょっとした恐怖だった。

 すぐ先の曲がり角を折れると、その先には住宅らしい形の影絵が浮かび上がっている。黒はそこで一瞬だけ立ち止まると、また、ふと彩羽の手を引いて走り出す。舗装された車道、オーロラ色に光り輝く道路標識には『一方通行』を表す矢印が浮かんでいた。それを矢印とは別の方向へ全力で疾走していき、やがて道路の隅へ入り込むとそこへしゃがみこんだ。



「どうしたの?」

「静かに――ここでじっとしていれば大丈夫」

「ここって、なにもないじゃない!」

「あなたには見えていないだけ。ここは駐車場で、私たちは今、大きなトラックの影に隠れているの」



 言われたとおりに触れてみると、確かに何もない黒い空間には、冷たい金属質の肌触りがあった。トラックの荷台か何かだろうか。



「それよりも、あれは何?」



 ブレーキの軋む音はやがて破壊音のようなすさまじい大音声となって、『Hxyrpe』の空にこだまする。ただでさえ音を感じない静かな世界なのに、これだけの音が鳴るというのはちょっとした暴力だった。

 檳榔子黒は静かに、息を潜めながら語る。



「この世界を作ったモノ」

「この世界を……?」

「私たちは『ハランHarran』って呼んでいる。誰がそう、呼び始めたかは知らないけど」

「さっき、あなたは『逃げなくちゃ』って言った。どうして逃げるの?」

「ハランが探しているのはあなた。鷹山彩羽」

「私を……?」

「あなたは突然、この世界に『侵入』してきた、異分子みたいなもの。この世界がハランの身体の中だとすれば、あなたはウィルスで、あの暴れ回っているのは、免疫細胞みたいなもの。この世界に不正に接続したあなたを見つけ出して、取り込んでしまうつもりなんだ」

「と、取り込む?」

「そうしたら、鷹山彩羽、あなたのありとあらゆる認識は消えて失せて、基底現実に在るあなたの肉体も意識を失って動かなくなる。簡単に言ってしまえば――」



 檳榔子黒の薄い色をした唇が短く告げる。



「死ぬ。向こう側の肉体にはなんの傷もつかないけど、とにかく死ぬ。分かる?」



 まったく分からない。彩羽はそのまま逃げ出したかったけれど、ひとつ道を隔てた向こう側でとてつもない音を立てながら暴れ回っている何かに向かっていく勇気も、その前に姿を現す勇気もなかった。身体ががたがた震えだす。それはこの世界の肌寒さとは別のものだ。心臓が激しく暴れ出す。



「どうすればいいの……?」

「落ち着いて、じっとしていればいい。あいつを倒すのは無理」

「じっとしているって……言われても……」

「いま、目を開こうとしても、できないでしょう」



 図星をつかれて、はっとした。

 檳榔子黒は――彼女はこの世界で、はっきりと目を開いている。その黒い瞳に浮かんでいるわずかな光が揺れる。



「それは、ハランがあなたのことに気が付いているから。あなたがこの世界から離脱して、基底現実へ帰還するのを妨害しているの」

「それって、もう見つかっているってことじゃ……!」

「それは違う。たぶん、こちら側にいる人間はみんなそう。まず出入り口を全部塞いで、それから私たちを探し出すつもり。だいじょうぶ、黙っていればあいつもあきらめる。そして、ガードが薄くなった瞬間に向こう側へ戻ればいい。それまでは我慢」



 震える身体を必死に抑えながら、彩羽は身を小さく縮こまらせた。ぎゅっと目をつぶっているのに、視界に入り込んでくる様々な恐怖が、身体の中で渦巻いた。破壊音がひとつ、なにか大きな音が立てられるたび、地面がかすかに揺らぐ。それが、直に身体に伝わってくるような気がして、より一層の恐怖をあおった。

 じっと黙っている間、黒は手首をがっしと掴んだまま、離してくれなかった。けれど、自分以外の存在がそばにいてくれることが心強かった。

 そうしているうちに、どのくらいの時間が経っただろう――ようやく破壊音がしなくなり、揺らぎが収まった。そこでようやく檳榔子黒は手を離してくれたが、彼女はそのまま彩羽のほうを見もしないまま立ち上がると、



「ここで待っていて。私が戻るまでここを動かないで」



 と、言い残して、足音ひとつ立てずにさっきまで破壊音のしていたほうへ駆けて行った。



 いったい、何が起こっているのだろう。ふと彩羽は溜息をついた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が解けて余計なことを考えてしまった。――いま、元の世界はどうなっているのだろうか? あれだけの騒音と、地響きすら起こるほどの衝撃。今まで『Hxyrpe』に写るのは、現実世界に存在する無機物だけだった。



 今、自分はどうなっている?

 自分の身体はいまどこにあって、どういう状態なのだろう?

 こうしてうずくまっているのは自動車の陰だと檳榔子黒は言ったが、それは果たして本当なのか?

 彼女や、雲居湖南が言う所の「基底現実」という言葉――耳慣れない単語だが、いわゆる現実世界のことだと予想は出来た。自分の身体はいまどこにあって、どういう状態なのだろうか? そして、いまもしかして自分の周囲にいる人間からは、自分の姿はどう見えているのだろうか?



「鷹山彩羽」



 名前を呼ばれただけで心臓が跳ねる思いがした。振り返ると檳榔子黒が、人形のように棒立ちでそこにいた。



「もう大丈夫。ハランはここを離れたみたい。今のうちに離脱ジャック・アウトするんだ」



 檳榔子黒はまた彩羽の手首を掴み、有無を言わせずに引っ張り上げて立たせるとそのまま駆け出した。それは、風が吹き抜けていくように軽やかな足取りだった。

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