Pharming

 二日後、彩羽はベッドから目を覚ましたとき、また『Hxyrpe』へと入り込んでいた。

 プラネタリウムのように一面、黒に覆われ、その中にちらちら瞬く光の粒子が浮かび上がっている。ただ、その輪郭は淡く、液体的なあいまいさを帯びていた。ぼんやりと、赤緑にゆっくり波打つベッドの輪郭に恐る恐る手を置くと、そこに感じた確かな手触りにほっと溜息をついた。その瞬間、さっと視界に光が走り、元の表側の世界へと戻っていた。

「あっ、」と声を出してしまったことで余計にそれは鮮明になり、窓の外から差し込んでくる太陽の白い光に塗りつぶされていく部屋の壁紙を憎らしそうに睨みつけた。まだ、部屋の全域をきちんと観察する前だったのだ。

 もったいない。



 彩羽はクラスの大多数がそうであるように、夏休み初日の朝から課題に手を付けるような真面目な人間ではなかった。けれど、机に向かって椅子に座り、じっと目を閉じた。もう一度、『Hxyrpe』へと没入することを試みたのだ。しかし完全に覚醒しきった今となっては、何度試してみたところで無駄だった。

 そのうちに脳が疲れたような気分になって、机に前のめりで倒れるように突っ伏した。目の前に三原色の細かな粒子が振り撒かれたようになったが、それはきちんとした形を成すこともないまま、消えていく。ただ、目の前でうようよ蠢く細かい虫と変わらなかった。それでも、美しいと感じられた。



 黒一色の世界に浮かび上がる細かい粒は、赤と緑と青の三色の光で形作られている。学校で見た世界もそうだ。いま、目の前で散った光もそうだった。一面の黒。そこを蠢き這いまわる、赤と緑と青の小さな点。光の三原色。彩羽は、小さいころに祖母の家で見せてもらったブラウン管のテレビみたいだ、と思った。電源の切れたテレビは、見ているだけで吸い込まれてしまいそうなその黒が怖くて、出来るだけテレビのある部屋にはいかないようにしていた。そんな黒い箱の中で賑やかに踊るアイドルの姿や、アニメのキャラクターたちは、とても楽しそうだったけれど、電源を切ったその瞬間におそろしい黒い画面へと変わってしまうのが嫌だった。だから夜中にうっかり目を覚ましてしまったとき、すぐに電源を付けて、あの白、赤、緑、青、ピンク……の、ただプゥ――――と音が鳴り続けるだけの画面をじっと凝視していた。吐きそうなほど気分が悪かったが、真っ黒な画面と接し続けるよりはマシだと思った。それに、これはこれで悪くないような気分になってきた。だってよく見たらカラフルでとてもきれいだった。



 今の家に古い箱型のテレビはもう無い。もう一度、あの黒い画面を見たら、ひょっとしたら何か新しいものが見えるかもしれない。今は白い部屋、白い太陽がまぶしすぎるとすら感じるくらいだった。

 そう思ったらいてもたってもいられなくて、彩羽は立ち上がってパジャマを脱ぎ、Tシャツとショートパンツを適当に引っ張り出して身体を通した。リビングを通り抜けてスニーカーを引っ掛け、玄関から外に出ると、猛暑の熱気が一気に彩羽の身体を叩いた。たまらなく不快なそれをかき分けるようにして歩いていく。



 目が痛い。

 ただ外を歩いているだけだというのに、彩羽は妙な疲れを感じた。街はにわかに浮足立っているように思える。アスファルトからゆらゆらと立ちのぼる陽炎が距離感を狂わせ、街のようすをどこか広大な迷宮のように見せた。太陽がやたらと眩しく、その白い光に照らされた街は眩しくて、ただ目を開いているだけで目が疲れるような思いだった。耳に飛び込んでくる音、視界にうつる光景の全てが、彩羽の脳をノックする。



 この感覚は、レンタルDVDショップや、新宿や池袋のような人通りの多い駅前に立っているときとよく似ている。自分の知っている言葉や音楽が、それぞれ別々の方向から自分に襲いかかってくるような感覚だ。自分の脳の処理能力を、限界ぎりぎりまで酷使させられているような感覚だ。自分の意思ではないあらゆる情報が、外部からの刺激によって無理矢理脳へ刻み付けられているような、嫌な感覚だ。



 目が回る。

 熱中症の症状のせいではない、確かに暑くて、汗が止まらないけど、この不快感と吐き気はそのせいじゃない。日陰に入って休んでも、多少、身体のほてりが収まるばかりで、何の解決にもならなかった。

 世界はまぶしい。それに、不愉快だ。ここから逃れて――もう一度、『Hxyrpe』に行きたい。



 人通りの少ない、一方通行の小道に入り込むと、その近くにあった自動販売機に両手をついてがっくりとうなだれた。そして、眩しい光を見上げて一瞬だけ目に焼けるような痛みが走ったのを確認してから目を閉じる。これだけ外が眩しいのだから、残像の世界である『Hxyrpe』には簡単に入り込むことができるだろうと彩羽は踏んでいた。

 そして、実際、その通りだった。

 すっと暗黒の世界に入り込んだ時、さんざん彩羽の脳と身体を苛んでいた視覚情報と喧しい音は消えて失せ、ひんやりとした冷たい空気が肌を撫でた。ふと、雲居湖南が自分に忠告したことを思い出したが、彩羽はそれどころじゃなかった。



 企業の白いロゴマークが虹色に彩られ、蠕動する百足の脚のように様々な色相を示す。赤、青、緑――やっぱりその三色だった。それが遠くから見たときに、細かい点ではなく混色され多様に見えて、紫や黄色のようなサイケな色に見えるのだ。



 周囲には人間の気配がない。しかし、道の向こう側に見える大通りでは、黒い世界の只中に在ってさらに真っ黒に光を吸い込んだような巨大な塊が、ぶんぶん動き回っているのが見える。きっとあれが自動車やバイクなのだ。それらは光の輪郭を発するというよりも、逆に、『Hxyrpe』の中にあるわずかな光の粒子をさらに吸い込んで、周囲からさらに浮かび上がるような闇を呈している。黒の中に置かれた黒、黒よりずっと暗い黒だ。ジェットブラックというのだろうか、彩羽はそれに吸い込まれないように注意深く、道を歩いた。油ぎった金属質の緑色に光る車道外側線を踏みながら、大通りの方へ向かう。



 人のざわめきはない。その気配もない。この世界に人間の姿は映らない。ただ、そこに確かにいる人間にぶつかることが無いように注意深くビルの壁へ身を寄せながら、周囲を観察する。

 時折、ぼっと噴き出る温泉のように、歩道のそこかしこの空間で光が吹きあがったかと思うと、そのまま消えてなくなってしまう。それはよく見ればどんなところにでも現れる現象で、定期的なリズムがあった。はっとして彩羽は自分の胸に手を押し付けて、どき、どき、となる心臓の音と、その炎の現れるタイミングがほとんど同じだということに気が付いた。ということは、あの光は、道を歩いている人間なのだ。

 あれを避けて行けば、きっと人にぶつかることなく歩いていくことができる。試しに触れてみようと手を伸ばして――すぐにやめた。もしこれが通行人なんだとしたら、自分は見ず知らずの通りすがりの他人に手を伸ばして触れようとしていることになる。余計な騒ぎを起こすわけにはいかない。



 そそくさとその場を立ち去ろうとした時だった。ぐいっと、体を後ろに引っ張られたような気がした。足首に鉄の鎖でも繋がれたかのように、足が動かない。急に力が抜けていき、その場にへたり込んで、思わず目が開く。

 次の瞬間、猛烈な風が鼻先を通り過ぎて行った。すぐ手の届く先を、大型トラックが轟音を立てて通り過ぎて行くところだった。ざわっと周囲の人間の視線が、自分へと降り注ぐのを感じるのと同時に、いろいろな感情がないまぜになった汗が額と、背筋を伝った。

 あのまま前に進んでいたら――

 ちっとも気が付かなかった。音も、気配もなかった。偶然、足がもつれて倒れ込まなかったら自分は今頃、血の破片になっていたことだろう――と考えるとぞっとした。



「だいじょうぶですか?」



 水色のシャツを着たサラリーマンらしい若い男が手を伸ばす。髪は短く整えられ、線の細い、人のよさそうな青年だった。彼は何を躊躇することもなく、呆然とする彩羽の額に手を当てると、



「うん……体温は高くないみたいだ。今のうちにどこか、涼しい所に行った方がいいですよ。すぐそこの喫茶店に行きますか?」

「だいじょうぶですっ、」



 と、彼の手を振りほどくようにして彩羽はもつれる脚で立ち上がると、人の目から逃れるように背を向けて歩き出した。

 まだ、背中に視線が絡みついているように感じる。いったんそう感じはじめたら振り返って確かめる勇気もなくて、彩羽は居心地の悪さだけを永遠に感じながら歩き続けるしかなかった。また、あの暑くて、人がいっぱいいる、押しつぶされそうな街の中を歩きながら、彩羽はまた目を閉じることが恐ろしくなっていた。

 おとなしく雲居湖南の忠告を聞き入れていればよかったのかもしれない。あの世界は美しいけれど、そこにぴったり重なった現実には、余計なものがあふれかえっていて、窒息しそうになってしまうほど情報があふれかえっていて、それを遮断する術がない。出来るだけ人のいないほうへ、色の少ない道へと、そうやって歩いていくうちに自分でも一度も見たことのない場所へ迷い込んでいた。



 スマートフォンの地図アプリを見る。

 確かに自分は立ち止まっているはずなのに、コンパスがぐるぐると回転し、右往左往している自分の姿があった。どうやら人工衛星からは、私はこんな風に動き回っているように見えるらしい。

 電源を切って空を仰いだ。錆びついた緑青色が美しい歩道橋がかかる青空には、雲ひとつ浮かんでいない。風が涼しい。そばにある片側二車線の道路を自動車が行き交うが、歩道をしっかり歩いている彩羽には誰も目もくれない。辺りには背の低い住宅が立ち並び、ここなら落ち着いて過ごすことができると思った。

 ふと反対車線のほうに、焦げ茶色の壁と黒い屋根が掛けられた喫茶店のような建物を見つけた。狭い駐車場を取り囲むように背の低い木が植えられ、緑の葉が風にざわめく様子はなんとも涼しげだった。「ふと」目を離したときに襲ってきた熱気は、異様に彩羽の喉を乾かし、肌を焼き尽くすような熱に嫌気がさした。

 どうせ特に目的のない外出だし、あそこで休憩でもしよう、どうせなら――ちょっと怖いけど――この歩道橋を渡って向こう側に行けばすぐだよね、と、手すりを何気なく握った時だった。



「あつっ!」



 考えてみれば当たり前で、銀色に光るこの金属製の手すりが、この猛暑で熱せられていないわけがないのだ。火傷しそうになった手をパッと離したとき、ちょうどさっき握った辺りに落書きのようなものを見つけた。



 階段の上を指し示す矢印。

 そして、その後ろに書き添えられたアルファベットの羅列――



 H x y r p e



 さっき、もつれた足首の辺りが異常に冷たい。

 彩羽は自分の顔に手を触れた。ちゃんと目は開いている。ここは現実のはずだ。

 だれがこんな落書きを?



 きらっと、銀色の手すりに反射した太陽光が彩羽の目に飛び込んできて、たまらず目を閉じた。その拍子に、彩羽の視界はまた、あの黒い世界へ――『Hxyrpe』へと吸い込まれていた。

 ただ、今回はいつもとは違った。

 瞼が、縫い付けられているように開かない。自分の意思ではない。さっきまで見えていた景色はそのまま、いつも通りの裏側の世界。涼しくて余計なもののいっさいない、美しい、星空のような空間。



 歩道橋の上にひとり、セーラー服を着た女性が立って、こちらを見下ろしていた。

 真っ黒な長い髪。真っ黒なセーラー服と、黒いストッキング。唯一、顔だけが白く浮かんでいて、それ以外は徹底的に黒い色で包まれている。けれど、その輪郭ははっきりと周囲の黒からは浮かび上がっていて、背景と交わることはない。いや、それよりも、と彩羽は目を疑った。

Hxyrpeここ』に自分以外の人間がいる?



 その少女はこちらへ目配せをした。ゆっくりと瞬きをする。

 こっちへおいでと、そういわれている気がした。

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