EXploit

 あの世界へ入るとき、無機物はそのまま残るのに、なぜか生きている人間たちは視界から消えて失せる。階段で手を伸ばした時にクラスメイトに触れてしまったことを考えると、どうやら触ったりすることは出来るらしいが……、と、ここまで考えて彩羽は、ちょっと恐ろしくなってスカートの裾をぎゅっと握った。

 それでももう一度行ってみたい。そう思えるほどあの世界は美しかったのだ。



 ホームルームは午前十一時半に終わり、クラスメイト達はみな、終業の喜びのままに教室を後にしていった。中には彩羽と同じ考えなのだろう、涼しい教室の中でしばらく時間を潰していた生徒も何人かいたが、午後一時になるころには何処かへ行ってしまった。

 もう教室には誰もいない。



 彩羽は席から立ちあがって窓際へ行き、こんな時でも部活動に精を出している女子ソフトボール部の駆け回るグラウンドを見下げ、青空と、遠くに見える山々の景色を目に焼き付け、太陽の光を充分に眼球へため込んだ。

 そして目を閉じて教室を振り返る――そこにはあの世界があった。真っ黒で、けれどぼんやりと、それでいてはっきりとした残像が焼き付いた世界。教室じゅうの机と椅子が、細い蛍光灯で形作られているかのように光っている。目に見えない、感じられないほどの周期で点滅しているかのように、その白い光は不完全で暴力的だった。光は周囲に拡散することなく、その場にとどまり続けている。蛍光灯のよう、と言っても、それは辺りを照らし出すことはなく、自らが光り輝くことに終始し続けていた。教室の後ろ側、生徒ひとりひとりに割り当てられたロッカーの扉の輪郭は細く弱々しくて、うっかりするとただの壁と交じり合って黒に沈んで行ってしまいそうだ。教室の前に設置された黒板は、その存在を認識することは出来ても、そこには何も浮かび上がっていない。吸い込まれてしまいそうなほど大きな黒い穴が開いているような気がして、彩羽の足は思わずすくんだ。それでも近付いてみたくて、彩羽は教室をそろそろと歩く――また見えない人間にぶつかってしまうことを恐れているのだ。目に見えないものが、自分の身体に触れることの恐怖を感じていた。それでも、激しく光り輝く机と椅子、それさえ避けて行けば、何にもぶつかることなく黒板まで辿り着くことができた。

 今度はおそるおそる手を触れる。

 ちゃんとそこに、ひんやりとした金属の、ざらついた肌触りがあった。黒板はそこに在った。真っ黒な穴のように見えたそれは、ただ真っ黒な板だったのだ。



 彩羽はその片隅にぶら下がるようにしている、ぼんやりとした蛍のような光を見つけた。指先でつまみ上げたそれは確かに、棒状の、よく見なれたあのチョークの感触がした。それをつかって、真っ黒な穴のような黒板の、その穴をふさぐことにしたのだ。

 チョークの先で黒板を突っついてみる。すると、削れたチョークの先からきらきらした光の粒子が零れ落ち、同時に、真っ黒の空間に小さな亀裂が走った。さっと一本の線を引いてみる。薄氷を踏んだ時のような亀裂が目の前いっぱいに走る。今度は力いっぱいにチョークを抑えつけ、ゆっくりと縦の線を引く。するとさっきのように亀裂が走ったりすることはなく、その軌跡に太い一筋の傷が生まれ、それは薄くぼんやりと脈動している。銀色のオーロラに浮かび上がる色彩、どうやら緑や青といった寒色がやや多いらしい。生きているかのように波打ち、羽ばたくたびに太陽の光を複雑に反射する蝶の羽のようなそれをもっとたくさん見たくて、彩羽は黒板じゅういっぱいにチョークを滑らせた。あちこち塗りつぶしてみたり、いっぱいに線を引っ張ってみたり、「鷹山彩羽」と自分の名前を書いてみたりした。けれど、書いてしばらくすると、その美しい亀裂はカッターナイフの傷が塞がるように徐々に閉じていき、そのすべてが顕になることはない。

 ただ、その傷跡はうっすらと、真っ黒な黒板に限りなく黒に近いグレーとなって浮かび上がっていた。チョークが短くなって、やがて完全に粉になって消えたとき――その傷をアルファベットの羅列のように空見した彩羽は、それをその世界の名前にすることにした。






 H x y r p e






 どのように発音するのかもわからないその世界への没入はそこでふと途切れて、彩羽は現実へと一瞬で戻ってきた。その衝撃に耐えられなくて一瞬ふらっとよろめく。

 もう窓の外からはオレンジ色の燃えるような夕陽が差し込んできている。

 彩羽の眼に飛び込んできたのは、ぐちゃぐちゃに白と青とピンクとでびっしりと塗りたくられた、現代アートのような醜悪な黒板の落書きだけだった。



 気味が悪くなって目をそらすように振り返ったとき、教室のいちばん後ろ、掃除用具入れのロッカーの前に腕を組んで佇む女性生徒がいた。今度こそ驚き、よろめいて、彩羽はその場にへたり込んだ。今まで気配すら感じなかったのに、その生徒はスカートから覗くほっそりした白い脚をゆったりと組んで、腕組みし、じっと唇をかみしめながら彩羽のことを見つめていた。



「鷹山さん。やっぱり、あなたもあの世界のことが見えるのね?」



 女子にしては低く、その特徴的な声で彩羽は思い出した。彼女は雲居くもい湖南こなんといい、クラスメイトの中でも目立たないのでクラスの女子グループからは浮いた存在だったが、彩羽は国語の時間に『こころ』を朗読する彼女のことがなぜか頭から離れず、湖南こなんという珍しい名前も相まってよく覚えていたのだった。

 そんな彼女がなぜここにいるのか、混乱して息が詰まりそうになった。



「いつから、そこにいたの?」



 ようやく絞り出した彩羽の声は、震えていた。対して、湖南の言葉は蛇口から滴り落ちる雫のようによく透き通っていた。



「三時くらい――ずいぶん必死だったね、黒板にチョークで一生懸命、文字を書いたり、あちこち塗りつぶしてみたり。端から見たら、たぶん頭がおかしくなったと思われてもおかしくないよ。いや、私もちょっと思ったから。この子、本気で頭がおかしくなったんじゃないかって」

「雲居さんには――見えてるの?」

「見えてる」



 その答えには迷いがなかった。真っ直ぐ射抜くような視線に、彩羽は一瞬すくみあがるような思いがした。



「あれって何なの?」

「別に大したものじゃない。ただ、もうあそこにはいかないほうがいいと思う。さっきも鷹山さん、危ない所だったでしょ。さっきの階段でのこと。私は直接、見てたわけじゃないけど、たぶんあっちに行ってたんじゃないの?」



 彩羽は頷いた。そしていつまでもへたり込んだままの脚を動かして立ち上がり、湖南のほうへ駆け寄った。



「雲居さんは? どうしてあれが見えるようになったの?」

「そういうの、やめた方がいい。鷹山さんだって、まだ

「――その女性生徒の自殺と、あの世界とが関係あるっていうの?」



 湖南はしまった、という風にそっぽを向いて何も答えない。



「その自殺した人と、雲居さんは、何か関係があるの?」



 すると、湖南は一瞬だけ、彩羽を震え上がらせるような鋭い目で睨みつけると、組んでいたままの腕を解いた。



「もう、あんな所にはいかないほうがいい。鷹山さん、知らないでしょ? いま、クラスのみんな、あなたのことを気味悪がってる。目を閉じたまま歩くっていうのは、凄く危ないことなのよ。あの世界はぜんぶ、あなたの妄想。まぼろし。それでもあんまり、行ったり来たりしていると、そのうち自分がどっちにいるのか分からなくなる。そうならないように、私がわざわざ忠告してあげてるの。あなたが基底現実から遊離しないうちに……、」

「そのために、わざわざ、私が黒板に落書きしてるのを見てたっていうの?」

「もう帰った方がいいよ。ちゃんと前を見て、気を付けて帰った方が。その前に――その黒板をきれいにした方がいいと思うけど」



 彩羽は黒板の方を一瞬振り返って、もう一度後ろを見たときには、そこに雲居湖南の姿は影も形もなかった。ほんの一秒くらいしか、目を離してしなかったはずなのに――ふと見ると、さっきまであんなにきれいだった夕焼けは重たく黒い雨雲に隠れて消えて、それに驚いているうちにざーっと、激しい雨が降り始めた。



 彩羽は黒板消しを手に取り、自分で汚したばかりの黒板を綺麗に消し始めた。そこから零れ落ちてくる粉は土っぽくて、とてもさっきの光の粒子とは似ても似つかない。おまけに、このチョークは二重にも三重にも重ねて塗りたくられていて、全部を消し終わるまでにたいそう時間がかかった。けれど、それを終えるころには、強い雨はとっくに止んで、雲の切れ間からうっすらと赤い光が漏れ出してきたころだった。

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