13

 彼女が来るなり、声を張ろうと思った。「抱きしめさせて!」と声高々にお願いをするつもりだった。しかし、海から現れた彼女にはどうも覇気がない。


「……どうしたの、悪いことでもあった?」


 返事はない。相当堪えているのか、浜辺で体育座りのような姿勢で俯いていた。どう声をかけたものか迷い、悩んだ挙句に私はフルーツを持って隣に座った。


「……食べる?」


「……あと で もらいます」


 どうしよう。「抱きしめさせろコノヤロー!」とばかり考えていたから、今日は特段話題を貯めておかなかった。何をしたわけでもないし、報告することといえば……


「あ、脚もう平気かもしれないんだ。巻いてくれたやつ取ってみても平気?」


「……いい ですよ」


 しゅるり。この島で目が覚めた時には直視し難い状態だった左脚は、すっかり見慣れた皮膚に覆われていた。人魚の医学力ってすごい。


「ほら見て、もうすっかりいいでしょ」


「……Итток он ик ом ианарис есук ин」


「どう? この脚なら高く売れる?」


 ぱたぱた、と動かして見せる。立ち上がって、濡れた砂の上でステップを踏む。バランスを崩し、よろめき、なんとか転ばずに立ち直り、笑ってみせる。


「……こわく ない の?」


「脚を取られるのが?」


 こくり、と頷く人魚さん。


「怖いよ」


 だって、死にたくないもの。いくら私が死んでも構わなくたって、いくら天国に行けば両親に会えるからって、死ぬのは怖い。それは単純に死ぬ時の苦痛が怖いのもあるし、こうやって笑えなくなるのも怖い。


「でも、人魚さんは私を売るんでしょ?」


 無反応。


「それはいいの。それが人魚さんのお仕事だし、人魚界のニーズだし、私は命を救われた身だし」


 死ぬのは怖い。でも。だからこそ。


「死ぬまでに、色んなことをしたいんだ」


 色んなことってなんだろう。自分で口に出してから考えるのは、さすが能天気といったところか。ホテルを建てる……のは別にそうでもない。やっぱり、人魚さんとの色んなことか。思い返せば人間社会にはほとんど未練がなかった。強いていえば、あの漫画の最終回が読みたかったというくらいか。


「ねえ、人魚さん」


 だから、私のよりよい人生のために、人魚さんにはちょっとばかりお付き合いいただきたいのだ。


「ハグ、してよ」


 彼女の横にしゃがんで、両手を広げる。彼女は私の目をじっと見つめてから、ふい、と視線を海に流した。釣れない子。人魚ってルアーとかで釣れるのだろうか。それなら、私は彼女を釣り上げて抱きしめて写真を撮るために何時間だって釣り糸を垂らすのに。


 残念ながら、釣り糸を引いたのは予想外なセリフ。


「……きょう は イシャ の センセイ に あって きた」


 医者の先生? どうして、私の話だったのに医者が出てくるの? いいじゃない、ハグくらい。人魚さんが私を殺すんだから、私は人魚さんの糧になるんだから、それくらい聞いてくれたっていいじゃない。


 しかし、医者の話は無関係というわけでもなく。


「ニンゲン と ハグ は ダメ だって」


 世界が急に静かになった気がした。波の音がうるさくて、黙っててくれと怒鳴りたくなった。喉が思うように動かない。


「……どうして?」


 やっと捻り出した言葉はそれだった。人魚さんとハグもできなかったら私は死ねない。顔も見れず、ハグもできず、私は何を見返りにこの脚を差し出せばいいのだろう。見返りなんか求められる立場ではないけれど、だって、私は人魚さんとそうしたい。そうしたいのだ。


「ニンゲン の タイオン は あぶない って」


 彼女のレインコート防護服が、かさかさと音を立てた。


「ハグ したら ゼンシン ヤケド する って」


 もしかしたら、世界というのは人魚と人間が出会うようにできていないのかもしれない。私たちは偶然、世界のほころびというか、バグのようなもので今こうしていられるだけなのだ。人間は生身で彼女らの住む世界に行くことはほぼ不可能だし、人魚が水面から上に来ることも同様だ。


 ああ、どうして私たちは種族が違うのだろう。


「……きょう は センセイ と ヤクソク して きました」


 知らないよ、そんなの。もっと空気を読んだ会話をしてちょうだい。でも、海の中に空気はないのか。


「……どんな約束?」


「アナタ の アシ を トリヒキ する ヤクソク」


 全身の血の気が引く気がした。やっぱり、死ぬのは怖い。私は、私の脚を売るというのをどこか冗談だと思っていたのかもしれない。急に現実が訪れたようで、私はその冷たい眼差しに震えるしかなかった。寒い。温まりたい。人肌で、人魚さんの抱擁で、この震えを止めてほしい。


「……ねえ、どうしてもハグはダメ? ほんの一瞬でもダメなの?」


「……」


「なんとか言ってよ。私、あなたとハグもしないで死にたくない」


「……」


「ねえってば、ねえ」


「……Исатаw еттад иатис」


 だから、その言葉じゃなんて言ってるかわからないんだって。文句を言いたくても、目から熱いものが垂れてきて、鼻は詰まって呼吸もままならないし、口から出るのは嗚咽ばかり。


「Исатаw еттад укатисорок иан.Исатаw еттад угах иатис」


 ねえ、流暢な言葉遣いで何を話してるの?


「Уотнох ин,нубиз аг аый ин уран」


 声色が悲しそうだよ。人魚さんも私と同じ気持ちなの? それだったら嬉しいけど、その分切なくて仕方ないじゃない。


「……Аранояс」


 彼女は海に飛び込んだ。私が「待って!」と言う前に飛び込んだ。差し出したフルーツが置き去りにされていた。そういえば、塩味ってこんな感じだったっけ。私は泣いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る