緑の将軍

taiki

第1話 緑の将軍

「今日は『緑のたぬき』にしてくれ」


冬の寒さが厳しい江戸城で、15代将軍、徳川慶喜は側近の従者に昼食の依頼をした。『緑のたぬき』とは、揚げ玉と緑のワサビが添えられた蕎麦のことであった。


慶喜は反幕府軍が江戸に向かっているという報告を何度も聞きながら、不安な気持ちと鳥羽伏見での敗戦の憤りに交互に襲われていた。こんな状況を"緑のたぬき"様はどう思っているのだろうか。


"緑のたぬき"様とは初代将軍の家康公のことである。


そもそも「たぬき蕎麦」とは「たぬきおやじ」と揶揄されていた家康公が、天ぷらの揚げカスを『貴重な油なのだから無駄にするな』といって蕎麦にかけたのが始まりだ。その際に、ワサビを好んで使っていたことから、『緑のたぬき』と呼ばれるようになった。それが将軍の食事として先祖代々伝わってきた徳川家の味となった訳だ。


慶喜は不安になったり決断を迫られると何故か徳川家の味にすがるのが常であった。

今日も然りである。しかし、今日はいつも感じるワサビのツンとした辛さがない。側近を呼んでワサビの追加を言い渡し慶喜は幕府の改革派官僚であった勝海舟に話しかけた。


「勝よ、お前も緑のたぬきを食べてみろ。これが徳川家の味だ。もともとは緑のワサビではなく、白い大根のしぼり汁を薬味として蕎麦にかけていたが夏には食えん。旬じゃないからな。それが不服な家康公が、変わりに刺激の強いワサビを使ったことが始まりとよ。」


おとなしく慶喜のウンチクを聞いた勝海舟は蕎麦にワサビをたっぷりとつけて、一気に蕎麦をすすった。ツンとした刺激が鼻に来て、涙がドッと出た。


「殿、このワサビはとても辛いですね。ワサビは秋から冬にかけてが旬、正に今が1番の辛さでしょうね。これはこれは徳川家の脈々と流れるマグマの様なエネルギーを感じますほどに強烈です」


ワサビの辛さが感じられない慶喜の目にうっすらと涙が浮かぶ。


「そうだな。徳川家のマグマか。。。最近では天ぷらもだいぶ庶民に普及しているが、家康公の時代では希少性が高かったようだ。この二百数十年で豊かになったな。この天かすのように徳川家という希少性も失われ、大根のように旬が過ぎ去ったのかもしれんなぁ」


勝は慶喜の例え話に納得しつつ、持論を展開する。

「今、江戸に向かっている薩長軍も我々も天皇を敬い、外国に屈しない国を作りたいとう想いは同じであり、目指す社会に大きな相違はありません。それであれば旬である者たちに未来を託してみるのも一理あるかと」


慶喜は、父である徳川斉昭の教えである水戸学を思い出していた。天皇を敬うことは慶喜の信念として刻まれている。宗教のようなものであった。


「そうだな。無駄に争って江戸の街を焼け野原にするわけにはいかない。それこそ逆賊以上の汚名を着せられてしまう。勝よ、江戸の街を、日の本の国を守ってくれ」

慶喜は勝海舟を陸軍総裁に任命し、薩長軍との講和を目指すべく全権を委ねた。


慶喜は時代の流れに逆らうのをやめた。



1867年3月13日、勝・西郷会談を通じて、江戸攻撃中止が決定。


その知らせを聞いた慶喜は、江戸の街を守れたことに安堵し、昼食の緑のたぬきに箸を伸ばした。鼻の奥をこするようなワサビの刺激がかすかに感じられた。



数日後、慶喜は上野の寛永寺大慈院で昼食に緑のたぬきを食べながら物思いにふけていた。


「260年続いた江戸幕府は私の代で終わってしまった。これからの時代を生き抜く新政府という形では何も出来なかったが、『緑のたぬき』を食文化として残すことはできるかもしれない。将軍の食事を町人に開放しよう」


徳川家に伝わっていた『緑のたぬき』は慶喜を通じて富裕層から広がり、大正時代には一般庶民にも定着した。しかし、ワサビは高価であり、庶民には行き渡らなかったため、蕎麦に揚げ玉をかけて食べる『たぬき蕎麦』に移り変わっていった。


江戸幕府は良くも悪くもいろんなものを残したが、その一つが緑のたぬきという食文化であったことは意外と知られていない。

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緑の将軍 taiki @taiki_chk

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