[2] 貸し
時間を少し遡る。
レアル・イングルスは日を跨いですぐの時間から壁外へと赴いていた。
しかし、暗闇の中でもわかるほど顔色が悪い。壁の外へと出る際に門を警備する衛兵に心配されたほどだ。
「全く、人使いが荒すぎる……」
レアルは深々と溜息を零し悪態をつく。
「でも仕方ない。僕がやらないと!」
寝不足と疲労の影響で身体が重い。そんな身体に鞭打って壁外の荒地を駆ける。
その後レアルは多くの魔物を討伐していった。
彼の目的は魔晶石を集めることだ。
魔晶石は自然に生成された物を採掘するか、魔物から取り出すかの二通りしかない。
だが採掘は現実的ではない。運が良ければ偶然採掘できる代物なので、主な入手源は魔物からの採取になる。
故にレアルは壁外へ赴いて魔物の討伐を行っていた。
「そろそろ帰ろう」
魔物を狩り続けてから既に四時間ほど経っている。
「今日も学園があるから休めない」
本日もいつも通り学園に登校しなくてはならない。いくら忙しくてもレアルは学園を休む気は毛頭なかった。
一呼吸置いて身体を解すように伸びをした後、壁内へ足を向けようとする。
しかし――
「――!?」
魔物の気配を感じ取り、立ち止まって周囲の様子を窺う。
(これは……まずいな……)
周囲を窺っていたレアルは、ある一点を見つめて冷や汗を流す。
彼の視線の先には、ブラッディウルフが群を成して駆けてくる姿が映っていた。
「こんな時に限って……」
疲労を吐き出すかのように深々と溜息を吐く。
レアルは連日の多忙さにより疲労が溜まっていた。まともに寝る時間を確保することができないほどだ。今は疲れのピークと言ってもいい。そんな時に限って厄介極まりない存在と遭遇してしまった。
(逃げ切れるかな……)
思考に耽る合間にもブラッディウルフの群れは着実に近付いてくる。
瞬時に判断して行動しなくてはならない。
「
レアルが左手首に嵌めている腕輪型MACが一瞬光る。
レアルは交戦ではなく逃走を選択した。
現状では正しい判断だ。ブラッディウルフを相手に戦闘を繰り広げられるコンディションではない。
(身体が重い)
疲労困憊の身体が思うように動いてくれなくて焦燥感が募る。
しかもブラッディウルフの群れとの距離が徐々に縮んでいく。
その上レアルは疲労と寝不足で身体が重い。集中力と思考力も低下している。そして既に四時間以上壁外で活動している。壁内からの移動時間を加えると五時間近い。故に相応の魔力を消費している。
(逃げ切れない)
このまま逃走を図っても逃げ切れないと判断したレアルは、足を止めて振り返る。
そして左手を前方に
すると、MACを起点に煙が広がっていく。
レアルは
煙幕を張ることで目眩ましを目論んだ。
周囲に煙幕が広がっていく中、レアルは右手で握っている剣型のMACに魔力を流し込み、魔法を行使する。
レアルに追いついたブラッディウルフの群れが煙幕の周囲を取り囲む。
風に流され徐々に霧散していく煙幕は少しずつ見通しが良くなっていく。そして完全に煙幕が晴れると、そこにレアルの姿はなかった。
「ワウ?」
一匹のブラッディウルフが首を傾げるように不思議がる。
「ギャウギャウ!」
「グルルルルル」
周囲を取り囲むブラッディウルフが吠える。
そこにいたはずの獲物がいない。疑問を頭に浮かべるブラッディウルフは、確かめるように鼻に意識を傾けて周辺の匂いを嗅ぐ。
(……)
その頃レアルは岩陰を背に息を潜めていた。
彼はブラッディウルフの群れの中心に潜んでいたのだ。だが、レアルの姿は見当たらない。それは何故なのか。理由は簡単だ。彼が魔法を行使しているからに他ならない。ではいったいどんな魔法を使ったのか。
レアルが行使した魔法は――『
この魔法は光属性の第六位階魔法であり、光学的に術者自身を透明化することができる支援魔法だ。行使し続ける限り魔力を消費する。
レアルは
故にブラッディウルフの視界に映らないで潜むことができていたのだ。
しかしブラッディウルフの群れは匂いを頼りに囲みを狭めている。少しずつ中心にいるレアルに近付いていく。
隠れるレアルは一度深呼吸をして酸素をしっかりと取り込む。
ブラッディウルフが徐々に距離を縮めてくる中、レアルはじっと息を潜める。
そして前方にいるブラッディウルフが隙間なく詰め寄せたところで、剣型のMACを構えた。
「
レアルが小さく呟くと、魔法が放たれた。
剣型のMACを起点に、周囲を照らすように光り輝く十字の斬撃が飛び出す。
――『
その
前方に隙間なく埋め尽くすように固まっていたブラッディウルフを何匹も切り伏せていく。
前方にいたブラッディウルフを切り伏せたことで花道の如く生まれた隙間を抜ける為に駆け出す。すかさず
突然のことで呆気に取られたかのように混乱していたブラッディウルフの群れは、正気を取り戻すとレアルを追い掛ける。
群れの中心から抜け出したとはいえ、全てのブラッディウルフが固まっていたわけではない。中には離れた場所にした個体もいる。故にレアルの前方には数匹のブラッディウルフがいた。
その中の一匹が飛び掛かる。
勢い任せに飛び掛かったブラッディウルフの攻撃は、北東方面にステップを踏んで躱す。だが、続け様に別の個体が飛び掛かってくる。
飛び掛かってきては躱し、飛び掛かってきては躱しを数度繰り返している内に、群れが追い付いてきてしまった。
再びブラッディウルフの群れに囲まれてしまう。
(――ちっ)
内心で舌打ちをするレアルは、思うようにいかない現実に苛立ちを感じていた。
仕方なく足を止めるが、その時間を無駄にしない。深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
レアルが呼吸を整えたタイミングで――完全には整っていないが多少は落ち着いている――一匹のブラッディウルフが牙を剝き出しにして飛び掛かる。
しかし、レアルは危なげなく手に持つ剣で袈裟斬りにした。
そして今度は間髪いれずに二匹のブラッディウルフが左右から飛び掛かってくる。
挟み撃ちされる形になったレアルは剣を頭上に
レアルが行使した魔法は
ブラッディウルフの群れの視覚を奪うと、再度壁外へ向けて駆け出す。逃げの一手だ。
(
そこでレアルは一か八かの賭けに出て、更に魔法を行使する。
「
レアルの身体が淡い光のオーラに包まれる。
――『
レアルは
壁内までとは言わずとも、せめてブラッディウルフの群れから逃げ切れるまで魔力が持てばいい。
(持ってくれ――)
魔力切れの心配を抱える中、足を踏み出して懸命に疾走する。
しかし八十メートルほど進んだところで、突然頭に激痛が走った。
「ぐっ!」
激しい痛みにより思わず足を止めて
「はぁはぁ……まずい……」
頭を押さえながらも懸命に立ち上がろうとするが――
(駄目だ……身体が動かない……)
無情にも身体は言うことを聞いてくれない。
「うぐっ!」
(意識が朦朧としてきた……)
視界に
そんな中、群れの先頭を駆けていたブラッディウルフがレアルに追いついた。
(くそっ!!)
ぼやけた視界の中、レアルが気力を振り絞って最後に見た光景は、ブラッディウルフが牙を剥き出しにして自分に飛び掛かってくるところであった。
そこでレアルの意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
ブラッディウルフがレアル目掛け牙を剥き出しにして飛び掛かる。
その瞬間――
「
飛び掛かったブラッディウルフが空中で見えない何かに勢い良く頭からぶつかった。衝突したブラッディウルフは頭を強打し、目を回している。
「間一髪か」
いつの間にかジルヴェスターがレアルを守るように立っていた。
――『
正に間一髪であった。もし少しでも遅れていればレアルは危なかっただろう。
ジルヴェスターはレアルが頭を押さえて蹲ったと見るや、
ジルヴェスターはレアルの肩に手を掛けると再び魔法を行使する。左手首に嵌めているMACが一瞬光り輝く。
すると、ジルヴェスターとレアルの姿が
一連の動作にはジルヴェスターの技量の高さが垣間見える。
判断の速さ、魔法の発動速度、魔法の精密性、どれを取っても一流だ。
「バウ?」
目の前にいたはずの獲物が
ブラッディウルフの群れはしばらくの間レアルがいた場所で右往左往するが、匂いが完全になくなった頃には別の獲物を求めて移動し始めたのであった。
◇ ◇ ◇
「んん……」
窓から覗く日差しが顔を覆う。
無意識に腕で目元を覆って日差しを避ける。
「んん……ここは……」
寝惚け
「――起きたか」
「ん?」
完全に意識が覚醒する前に突然声を掛けられ、驚いて一瞬身を震わす。
声のした方に顔を向けると、そこには友人の顔があった。
「ジル……
「驚かすつもりはなかったんだが……」
ジルヴェスターが苦笑する。
「レアル、体調はどうだ?」
「ん? 少し身体が重いけど、問題ないよ」
「そうか」
ジルヴェスター質問されたレアルは、自分の身体の調子を確かめる。
少し疲労感は残っていたが、特別問題はなかった。
「――それよりここは……?」
自分が寝ていた部屋を見渡して見覚えのない部屋に疑問を浮かべる。生活感の感じられない簡素な部屋だ。
「寮の俺の部屋だ」
「そうなんだ」
「もっとも、普段はほとんど使っていないがな」
現在いる場所はランチェスター学園の敷地内にある寮の、ジルヴェスターが契約している部屋であった。
「なんで僕は君の部屋で寝ていたのかな?」
ジルヴェスターの部屋で眠っていた理由に心当たりがないレアルは首を傾げる。
「覚えていないか? お前は壁外で突然倒れたんだ」
「……」
ジルヴェスターにそう言われたレアルは自分の記憶を探る。
「――そういえば、ブラッディウルフの群れに追われている途中で激しい頭痛に襲われたような……」
「ああ。そうだ。意識を失って倒れたんだ」
「ええ!?」
蒼白するレアル。
「本当に!? まずいじゃんそれ……」
壁外で意識を失うということは、即ち死を意味する。
仲間がいれば別だが、一人で活動している場合は目も当てられない。運良く魔物に見つからない場合もあるが、そんな強運を期待しても意味がないだろう。
「そうだな。俺が偶然近くを通らなければ、今頃は獣の腹の中だったろうな」
ジルヴェスターの言う通り、偶然近くを通って交戦中の魔法師がいると気づかなければ、今頃はブラッディウルフの群れに四肢を食い千切られて胃の中にいたことだろう。
その点、運が良かったと言える。ジルヴェスターが壁外へ赴いたのも、翌日まで過ごしたのも、近場を通ったのも、交戦中の魔法師の存在に気づいたのも、意識を失う前に発見できたのも、全て偶然だ。
何か一つでも違う行動をしていたら、レアルが助かることはなかっただろう。
「……」
最悪のパターンを想像したレアルは再び蒼白し、深々と溜息を吐く。
「そっか。ジルに助けてもらったんだね。ありがとう」
「ああ。貸し一つな」
「……そこは「気にするな」って言うところじゃない?」
「無論、冗談だ」
「無表情で言われても冗談に聞こえないよ……」
無表情で
「おそらく過労で倒れたんだろうが、一応医者に診てもらえよ」
「……そうするよ」
ジルヴェスターは医者ではないので専門的な知識はないが、診た感じだと過労で倒れたのだと判断した。とはいえ病気の可能性もあるので、一度しっかりと医者に診てもらうのが賢明だろう。
「――それより今何時?」
「今はちょうど昼時だな」
「え!?」
焦りを浮かべるレアル。
「遅刻じゃん!」
慌ててベッドから飛び起きるが、この後ジルヴェスターが告げる言葉に硬直する。
「お前丸一日寝ていたから今更だぞ」
「え」
レアルは聞こえてきた言葉に耳を疑う。
窓の外からは心地良い鳥の鳴き声が聞こえてくるが、レアルの耳には全く届いていない。
「い、今なんて?」
一度深呼吸をしてから改めて聞き返す。
「お前丸一日寝ていたから今更だぞ」
「……」
先程と一言一句同じ言葉が返ってきて、聞き間違いではなかったのだと悟る。
「今日は何日?」
「二十二日だな」
「嘘でしょ……」
本当に丸一日寝ていたのだと理解して愕然とした。
「ってかやばい! 早く帰らないと!!」
レアルは顔面蒼白になり、尚且つ冷や汗を搔きながら慌てて帰り支度を始める。
日差しがレアルの顔を照らして蒼白具合は薄められているが、それでも今日一番の蒼白ぶりだ。
「ああ! でも授業も出ないと!!」
傍目に見てもパニック状態に陥っている友人に、ジルヴェスターは肩を竦めながら声を掛ける。
「とりあえず落ち着け」
「ああ、そうだよね。ごめん……」
落ち着かせる為にレアルをベッドに座らせる。
一応落ち着きを取り戻したところでレアルはあることに思い至った。
「――そういえば、ジルは授業どうしたの?」
今日も学園は登校日だ。
そんな中、ジルヴェスターは寮の部屋にいる。授業はどうしたのか疑問を抱くのは道理だろう。
「今は昼休憩の時間だからな。ちょうどいいからお前の様子を見に来たんだ。だから心配するな」
「そっか……。良かった」
今は昼休憩の時間なので、寮の部屋に戻ったところで咎められる謂れはない。
時間ができたのでレアルの様子を確認しに来たら、ちょうど目が覚めたところだったのだ。
「それとお前が壁外で倒れていたことと、昨日の欠席の件は学園長に伝えてあるから担任にも伝わっていると思うぞ。今日の件も理解しているだろう」
「……重ね重ねご迷惑をお掛け致しました」
さすがに無断欠席させるわけにはいかない。
なので、ジルヴェスターは事前にレアルが欠席する旨と経緯を学園長に伝えていた。
レアルが所属するクラスであるB組の担任ではなく、学園長のレティに伝えたのは、ジルヴェスターがB組の担任との面識が薄かったからだ。それにレティの方が気軽に訪ねることができるというのもある。
何より、自分が壁外に出向いていたことを指摘させるのが面倒だったので、自分の素性を知っているレティの方が何かと都合が良かったのが本音だ。
助けてもらったことといい、色々と根回ししてもらったことといい、完全に迷惑をかけっぱなしである事実に、レアルはベッドに正座して頭を下げた。
「これは本当に貸しでも仕方ないね……」
日差しに照らされて一層光り輝く金髪を
「とりあえず体調が問題ないのなら、午後からは授業に出らたどうだ?」
「……そうだね。そうするよ」
「早く帰らないと、と慌てていたわりには素直だな」
「うん。早く帰らないといけないのは事実なんだけど、授業をサボると母さんに叱られるから……」
「なるほど。確かにそれは一大事だ」
ジルヴェスターとレアルは肩を竦めて苦笑し合う。
母親に頭が上がらないのはこの世に存在する全ての息子の共通点かもしれない。
ジルヴェスターの実母は既に亡くなっているが、生きていたら頭が上がらなかったであろうと容易に想像がつく。
それに実母はいなくても、育ての親はいる。レイチェルとグラディスの母親だ。ジルヴェスターも育ての母には弱いところがあるので、レアルの気持ちは良く理解できた。
「――さて、そろそろ教室に戻る」
「僕も行くよ。一度寮に戻らないといけないし」
いつまでも悠長にはしていられない。時間は有限だ。昼休憩の時間が終わってしまう。
レアルは普段、寮で暮している。――頻繁に母の様子を見に帰宅しているが。
なので、自分の部屋に戻って支度を整えないといけなかった。
レアルとジルヴェスターの寮は別の建物だ。
二人が契約している寮はグレードが異なる。
ジルヴェスターが契約している寮は最もグレードの高い寮だ。
対してレアルが契約している寮は平均的なグレードの寮である。一般家庭出身の生徒が多く契約している寮で、所謂庶民的な寮だ。故に二人が契約している寮は間取りも内装も異なる。
そしてジルヴェスターは教室へ、レアルは自分の寮の部屋へと向かうのであった。
◇ ◇ ◇
放課後――レアルの姿はプリム区のティシャンという町の住宅街にある一際大きい豪邸にあった。
ティシャンは、最も美しい区と謳われているプリム区の中でも、最も美しい町と称されている。
荘厳で神秘的な建築物が堂々とした存在感を放っているが、住宅街はモダンな建物が建ち並び、互いに邪魔せず交り合っている。
場所はプリム区の中心から数キロほど北東に行った辺りにあり、交通の便が良くて観光客に人気のある町だ。
「はぁ~」
レアルは気が重かった。
母に会うのは嬉しいが、別の用件が彼の足取りを重くしており溜息が止まらない。
ジルヴェスターの寮の部屋で目覚めた後、遅刻はしたがしっかりと授業には出席した。
教室に移動した際はレベッカやシズカなどクラスメイトに心配されたが、いつも通り真面目に勉学に励んだ。
普段なら寮の自室に戻るところだが、今日は済まさなくてはならない用事があった。その用事が彼の足取りを重くしている。
レアルは逃避するように真っ先に母に会いに行くことにした。
豪邸の廊下を慣れた様子で歩いていくと、次々といろんな女性とすれ違う。女性たちとは特に話したりはしない。面識はあるが大して親しくないからだ。中には良くしてくれる人もいるが、ほとんどは赤の他人である。
そして母の私室の前に辿り着くと扉をノックする。
母と会うのはランチェスター学園に入学する前が最後だったので約三カ月振りだ。その所為か気が逸り少しノックが強くなってしまった。
「どうぞ」
扉の向こうから入室を許可する声が返ってきたので、遠慮なく扉を開く。
「母さん、ただいま」
「あら、おかえりなさい」
部屋の中にはソファで寛ぐ女性がいた。
彼女はレアルの母――カーラ・イングルスだ。
レアルと同じ白い肌に碧眼を宿している。髪の色は息子とは違い茶髪だ。
レアルが端正な顔立ちをしているのが納得できるほどの美女で、妖艶さと可憐さを兼ね備えている上に、理知的な印象も窺える。
「
レアルは入室するや否や目的の人物の所在を尋ねる。
彼の声音には苦々しさが溢れている。
「今は外出中よ」
「そうなんだ。ならしばらくゆっくりすることにするよ」
せっかく母に会えたので談笑することにし、歩を進めて空いているソファに腰を下ろす。
「紅茶でいい?」
「うん。ありがとう」
カーラは席を立って息子の分の紅茶を用意する。
(どうせあのスケベオヤジのことだから娼館にでも行っているんだろうけど……)
レアルは用のある人物の外出理由を脳裏に思い浮かべる。
(いや、考えるのは止めよう。気分が悪くなる)
気分が急降下して苦々しい感情が胸を締め付け始めたところで、頭を振って思考を切り替える。
真面目で裏表のない好青年であるレアルにここまで悪感情を抱かせる人物とは、いったいどのような人間なのか。
「学校はどう?」
紅茶を淹れながら尋ねるカーラ。
思考に耽っていたレアルは不意を突かれ、内心で慌てながらも笑顔を浮かべて答える。
「楽しいよ。友達もできたし」
「そう。それは良かったわ。今度お母さんにも紹介してね」
「機会があればね」
年相応の笑顔を浮かべるレアルは楽しそうだ。
母親との会話を心から楽しんでいるのが表情と声音から伝わってくる。
「はい」
「ありがとう」
カップを載せたトレイを手に戻ってきたカーラは、カップをレアルの前に置く。
「美味しい」
レアルはカップを手に取り一口啜ると、ほっと息を吐く。
「母さんこそ最近どう?」
「お母さんはいつも通りよ」
「
「変なことって……大丈夫よ」
息子の質問にカーラは微笑みを浮かべながら答える。
息子の言い方に少し思うところがあったのか一瞬表情に影が差したが、すぐに笑みに戻った。
「あなたこそ無理しないようにね。お母さんは大丈夫だから」
「僕は大丈夫だよ。心配しないで」
「そう。それならいいけれど……」
カーラは息子が連日忙しそうにしているのを把握している。故に心配していた。
笑みを浮かべて答える息子が気丈に振舞っているのがわかり、心が痛む。
いくら息子が母を心配させまいと気丈に振舞っていたとしても、母の目は誤魔化せないものだ。自分の腹を痛めて産んだ子のことは手に取るようにわかる。子供のことを愛していないのならばともかく、愛しい息子のことである。一目瞭然だ。
「姉さんには会った?」
「会っていないわ」
「そっか……」
レアルには姉が一人いる。しかし、現在三人は諸事情により離れて暮らしている。
レアルは時々母の様子を見に来ているので会えているが、姉は会いに来ていない。正確には会いに来ないのではなく、カーラが来させないようにしている。
カーラとしては娘の顔を見たいが、身を案じて離れさせていた。カーラの表情には寂しさが滲み出ている。
「時間ができたら僕が会いに行ってくるよ」
「ありがとう。よろしくね」
レアルは時間があれば時々姉に会いに行っている。
姉の様子を確認しに行き、代わりに母に近況を伝える。そして、逆に姉には母の近況を伝えるという役割をこなしていた。
ただでさえ最近は多忙な日々を送っているのに、更に苦労を抱え込もうとしている。これでは休む暇がないだろう。
「でも無理はしないでね。お母さんは二人が元気ならそれだけで幸せだから」
「うん。わかっているよ」
母としては娘と息子が元気に過ごしていてほしい気持ちでいっぱいだった。
レアルは母に心配を掛けたくないので、素直に頷いて笑みを浮かべる。
「でも、母さんももし何かあれば遠慮しないで言ってね」
「ええ。ありがとう」
レアルからしてみれば、最も心労が絶えないのは母だと思っている。事情が事情だとはいえ、気掛かりがある事実は揺るがない。もし何かあればすぐにでも駆け付ける心積もりでいた。
そんな息子の優しい想いを感じ取ったカーラは嬉しくなり、慈愛の籠った微笑みを浮かべる。
「さあ、暗い話はこの辺にして楽しい話をしましょう」
「うん。そうだね」
息子とは暗い話よりも楽しい話をしたい。沈んだ空気を切り替える意味を込めて、少し大袈裟に話題転換を図った。
レアルも同じ気持ちだったので、すんなりとことが運ぶ。
そしてその後は、久々に親子水入らずの楽しい時間を過ごすのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます