The 33rdゲーム 鬼ごっこ

 区立第三公園。

 太陽が落ちかけ、夕闇の中で俺は愛姫と向き合っていた。

 二人ともラフな部屋着のままで、それなのにお互いに殺気立つぐらいに真剣だった。


「ルールは本当にそれでいいんだな」

「えぇ。一回でもあんたが私に触れられたらあんたの勝ちでいい」


 勝負を持ちかけた以上、負けたときに言い訳をさせないため愛姫に内容を選ばせるのが俺にとって筋だった。

 愛姫が提案したのは鬼ごっこだ。

 まだこいつがガキの頃に付き合わされた時間内の耐久鬼ごっこなんかじゃなく、交代なしの一発勝負だ。

 

「俺が勝ったら俺の言うこと聞け。お前が勝ったら、家を出ようが何だろうが好きにしていい。絶対に守れよ」

「あんたこそ」


 それにしても、こんな大事な勝負で鬼ごっこかよ。

 この歳で、この歳の差で、ここに来て、このルールで。

 公園に着いてこいつは、悩むことなくそれを選んだ。

 

 眉を寄せた不満げな顔のままの愛姫が、「さっさとしなさいよ」とそっぽ向いたまま端的に告げる。

 構えてもいない、俺の方を見てもいない、絶対に自分は負けないと確信してなければ在りえない立ち振る舞いだった。


「始めたいのは山々なんだけどよ、知ってるか愛姫」

「……何がよ」

「最近の公園は規則が厳しくなってんだよ。怪我しそうな遊具はどんどん撤去されてるし、ボール遊びが禁止になってるところも多い」

「それが?」

「ここの公園はかけっこも禁止なんだと。そこの看板に書いてあるだろ?」


 そう指さした先を愛姫が振り向く。

 その瞬間俺は極力音が鳴らないよう駆け出した。


 しかし、伸ばした手は割と余裕しゃくしゃくで愛姫に躱された。


「ちっ!」

「そんな手に引っかかるはずないでしょ。というかそんなので勝って嬉しいの?」

「当然嬉しくねーよ。もしまんまと引っかかってたら仕切り直すところだわ」

「じゃあなんでそんなことしたのよ」

「ハッ、何となくやりたかったからに決まってるだろ」


 昔みたいに、俺の馬鹿みたいな手に引っかかって、馬鹿みたいに悔しそうにしてる顔が見たかっただけだ。

 けど今のこいつにそんな冗談は通じない。

 おそろしく冷たい目で「くだらない」とだけ吐き捨てられた。


「そんじゃ本番だ。覚悟しろよ」

「どうせ勝負にならないわよ」


 そう言うと、俺は数年ぶりに本気で駆け出した。

 その後は無駄口も叩かず、小細工もせず、ひたすらに愛姫を追いかけ回し続けた。



 ※ ※ ※



「くっそが……!!」

「いい加減、諦めなさいよ」


 あれから二時間。

 辺りはすっかり暗くなって、公園を数本の街灯が照らしていた。

 俺は肩で息をしていて、何なら唾さえ飲み込めないほど喉がカラカラで、シャツが絞れそうなぐらいに汗だくだった。

 対して愛姫も涼しい顔とはいかず、呼吸が乱れて額に汗を浮かべ、けれど俺よりはまだ余裕がありそうだった。


「あんたさっきからもう殆ど走れてないじゃない。そんなので捕まるはず」

「うるせぇ!!」


 愛姫が話してる途中で追い縋る。

 別に闇雲ってわけじゃない。

 話してる途中でいきなり動けば、多少ながらそこそこ体力を削れるからだ。


「聞きなさいよこの馬鹿……!!」


 いい加減うんざりしたのか、追われながらにも愛姫が諦めるよう声をかけてくる。

 俺がある程度のスピードで走れるのなんざ、今となっちゃほぼ数秒だ。

 その一瞬を何度も繰り返すが、愛姫とのほんの数mの距離がそれでも延々と縮まらない。

 それでも早歩きにも近い足取りで近付き、繰り返し繰り返しそこから振り絞るよう加速する。


「無駄だって、言ってるでしょ! 私陸上部だよ?」

「……はぁはぁ」

「そんな、ヘロヘロになって、馬鹿じゃないの? 小学生の私にも、勝てなかったのに、今の私に勝てるはずないじゃんっ」

「……」


 走りながら、なお愛姫が降参を促してくる。

 まさかここまで長引くとは思っていなかったのだろう。

 息を切らしながら、それでも俺に振り向きながら投げかけてくる。


「それなのに乗ったってことは、本当は最後は、どうせ負けるって分かってて、勝負してるんでしょ? 勝てないって、分かってて、けど、私にそんなつもりはないって、本気なんだって、見せ付けるためにそこまでやってるんでしょ? もういいよ! もう、十分頑張ってくれたの知ってるよ! 誰も責めないし、感謝してるから、あんたが普通よりずっとずっと、頑張ってくれてたの分かってるから、もう諦めなよ!」


 徐々にその言葉が熱を帯びていく。

 くっそ、酸欠で頭が回らねぇ。訳分からないこと決めつけやがって。

 アピールなんかじゃねえよ。

 やれるだけやったけど無理だった、なんて言い訳のために今俺は走ってるわけじゃねえんだ。


「だったらてめぇが折れろ!!」


 伸ばした手が愛姫の服に掠めかける。

 今までで一番惜しかったが、その分決め切れなかったことで心臓と肺が限界に達した。

 膝に手を付いて何度も深く息を吸う。


「ば、馬鹿、みたい。なんでそこまで、必死になってんのよ? 昔みたいに、私の身体に触りたいから?」


 愛姫も大きく息を乱しながら、それでも俺を挑発してくる。

 分かってる。

 こいつは俺がそんなことを望んでないって、知ってて言ってる。


「それともそれだけじゃなくて、変なことしたいの? いいわよ、別に。私のこと、好きにしていいから、だから、いい加減私が出ていくの認めなさいよ」


 ただ、分かってても聞き捨てならないことだってある。


「――ふざけんじゃねぇ!!」

「な、なによ」

「うるせぇよ、続きやんぞ! まだ勝負はついてねぇだろうが!!」

「でもあんたもう」

「時間切れがあるだなんて決めてねぇだろうが!!」


 そう言って俺はガクついた足を奮い立たせて再び駆け出す。

 分かってる。

 こいつは、俺にわざと愛想を尽かされようとしてるんだって。

 もうお前なんか知らねえって、心外だって、俺にそう見放させるために言ってやがるんだ。


 さっきの言葉だってそうだ。

 諦めても仕方ないって、誰も責めないんだからもういいんだって、本当は無理してるんだろうって。


 馬鹿野郎が。

 おかげで、なんでお前がそこまで頑ななのか分かっちまったじゃねえか。

 どんだけきつくたって、もう絶対に足を止めるわけにいかなくなっちまったじゃねえか。

 俺から遠ざかろうとするその小さな背中を見て、それが拒絶ではないのだと俺はやっと気付いた。


「もういいから、放っといてよ! お母さんの代わりなんて、そんなのもういらないから!!」


 なおも振り向いて愛姫が叫ぶ。

 ひたむきに逃げるその目前には木が迫っていた。


「バカ、前見ろ!!」

「——っ!」


 俺の言葉を受け、前を向いた愛姫が咄嗟に上体を捻って無理やり回避する。

 しかし、急に減速して方向を変えたことで、そのまま足がもつれて身体のバランスを大きく崩した。

 俺は何とか渾身の力を振り絞って飛び出す。

 そして、転びかけた愛姫と地面の間に何とか滑り込んだ。

 ヘッドスライディングとか中学の部活以来だ。


「ぐっ……」

「い、逸馬!?」


 俺を下敷きにした愛姫がすぐに立ち上がった。

 対して俺は地面に突っ伏してくたばりかけている。

 すぐに立ち上がれないのは痛みのせいなんかじゃない。単純に体力の限界だったからだ。

 そのまま寝ていたい衝動を振り切って何とか立ち上がると、膝が破けて肘も擦りむいていた。


「だ、だいじょう」

「気にすんな。再開すんぞ」

「え?」


 俺がフラフラになりながら服に付いた砂を払って言うと、愛姫が戸惑ったような表情を見せる。


「けどあんた怪我してるし、それに私が倒れたときに触ったし」

「今のは事故だからノーカンだろ」


 その言葉を受けて、愛姫の顔がまるで泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。

 そのまま逃げる様子もなく俯いて呟く。


「もういいよ」

「何がだ?」

「やっぱり嫌なんじゃん」

「……」

「今ので勝ちだったはずじゃない。それなのに、そんな状態でもう勝てるはずないのに、それでも続けるってことは、本当は逸馬だってやっぱり勝ちたくないんでしょ?」


 愛姫は俺とは目を合わさず、自分の裾を握り締めて俯いたままだ。

 まるで何かを確認するのを恐れるかのように。


「分かってるよ。逸馬は良いやつだから」

「……」

「私がどうなったって、きっとお母さんとの約束を果たそうとするって。大変でも、嫌になっても、絶対に最後まで見放したりしないって」

「……」

「でも私、そんなのいらないんだよ。お母さんの代わりにとか、育てる義務とか、保護者としての責任とか、そんな風に思ってもらいたくないんだよ」


 俺は何も答えない。

 こいつの本心を取り零したくないから。

 ここまで粘って、やっと引き出した本音だから。


「だから、もういいよ。あんたは普通よりきっと、ずっとずっと一生懸命やってくれた。本当の親だってここまで頑張ってくれないって分かってる。本当にすごいよ、逸馬は」


 それは皮肉や煽りの類いなんかじゃなく、本心でそう思ってくれているんだろう。


 だからきっと、こいつの心にはいつだって罪悪感があったんだ。

 こいつは、頭がいいから。

 血の繋がりのない人間が子供を育てる意味を、成長するにつれ深く重く実感していった。

 そのありがたみも、それによる心苦しさも。


「だから、もうこれ以上はいいよ。私は一人でだって大丈夫だから」


 そして、同時にどうしようもないほどガキだった。

 罪悪感だけでも、感謝だけでも、心苦しさだけでもなかったんだ。

 こいつが俺に抱いていたものは、実はいつだったか買った本にもちゃんと書いてあったんだ。


「バカかお前」

「……なにが?」

「俺はなぁ、偶然とか事故とか運でこの勝負に勝ちたくねぇんだよ。分かれよ」

「わ、分かんないよ。それにどのみちもう無理じゃんあんた」


 俺が一歩前に進むと、愛姫が距離を保つよう一歩離れた。

 向き合ってやっと目の合ったそのツラには、しっかりと本音が書いてあった。


「無理じゃねえよ。大体お前がこの勝負に時間を決めなかったのだって、本当は諦めて欲しくなかったからだろ」

「それは……」

「お前は確かに頭もいいし、しっかりしてるし、もしかしたら俺がいなくてもやっていけるのかも知れねえよ」

「……」


 不安そうな顔で愛姫が俺を見詰めてくる。

 そう、不安なんだよこいつは。

 じゃあ子供が何を心配して、何にそんなに不安になるのか。


 ――それは、自分が本当に愛されているかどうかだ。


 子供っていうのは、どこかで、保護者が自分のことを愛しているか疑うものらしい。

 確かめたくて、けれど愛情の確証なんてなくて、本当なのかって不安になる。だから試すんだ。

 そして困ったような反応をされたら、苛立って、信じられなくなって、やっぱり愛されてなんかないんだって傷付く。

 愛姫の態度を思い出して腑に落ちる。

 あれは俺を拒絶していたんじゃなくて、俺の義務や責任って言葉に傷付いていたんだ。


「お前は紗妃より要領だっていいし、人付き合いだって上手いし、何よりガキのくせに深く考えることが出来る。もしかしたら、案外俺と一緒にいるよりも、自由で楽しくて、上手くやれちまうのかも知れない。だから、俺から離れた方がお前にとっていい場合も確かにあり得るんだと思うよ」

 

 その言葉を受けて愛姫が俯く。

 きっと検討外れな続きの言葉を予想して。

 だからようやく分かった。

 こいつは、俺に子供として愛されてない思ったら傷付いちまうぐらいに、察しがいいはずなのに不安で的外れなことを考えちまうぐらいに、俺のことを誰よりもその心の近くに置いてくれているんだ。

 

「――でもな、愛姫。どれだけお前が良くても、俺が側にいて欲しいんだよ」


 ぐらつく膝を抑え、何とかまた一歩踏み出す。

 何かを言い返しかけた愛姫が、けれども口を噤≪つぐ≫み、先ほどと違ってその場に留まった。

  

「お前にとって一番良いのが何かとか、紗妃がどうとかじゃなくて、お前が俺の側からいなくなっちまうのがどうしようもないぐらい嫌なんだ」


 不安に感じるってことは、期待を裏切られたくないってことだ。

 疑うのは、そうあってほしくないって願ってるからだ。本当は違うんだって信じ切りたいからだ。


 だから、やっぱりそのツラにはやっぱり書いてある。

 自分の言葉を否定してくれって。

 俺のために本気で離れて行こうとする自分を、それ以上に強く引き止めてくれって。


「だから、もうそこから動くなよ。運や事故で勝ったんじゃ意味がない。ましてや、無理やりだって意味がないんだ。お前から負けてくれなきゃ、この勝負は終われねえんだよ」


 愛姫がいつでも逃げられるほど、ゆっくりとした足取りで進む。

 何とか息を整えながら一歩一歩。

 そして、手を伸ばせば届くほど目の前まで来た。


 愛姫は依然として何か物言いたげに口を開いて何か言いかけるが、すぐに口を閉じて目を逸らした。

 本当にガキだ。

 まるで買ってほしいオモチャがあるのに、言い出せない子供みたいに。

 そう思ったら馬鹿みたいに優しい気持ちになれて、俺は愛姫に触れると、そのまま小さな肩を抱き寄せた。


「やっと、捕まえたわ」

「……」


 愛姫は嫌がる様子もなくされるがままだ。

 けど、まだ何か後ろめたさが残るような、納得し切ってはいない様子だった。


「もう、逃げんなよ。俺のところにいろよ」

「でも!」

「なんだよ」

「……私、あんたにひどいこと言った。言っちゃいけないこと言ったし、ずっとずっと、たくさん酷い態度取った」

「あぁ、くっそ傷付いたわ」

「だったら」

「やっぱり俺から離れるって? 申し訳ないから、自分に縛らせたくないからって?」

「……うん」

「やっぱ馬鹿だろお前」

「な、なにが……?」


 最初からこう言えば良かったんだ。

 でも言われた通りだよ、お袋。

 これは自分で気付かなきゃ絶対に意味がない。


「ちゃんと俺はお前のことを愛してるよ。その程度のことで揺らぐような安い気持ちじゃねえんだ」

「へっ!? あ、愛し……っ!?」

「だから、まだ側にいろよ。負けたら俺の言うこと聞くって言っただろ? いつかお前が誰かを好きになって、紗妃みたいな良い女になって、幸せにしてくれる奴に連れていかれるまで、それまではお前のことを俺に独り占めさせろよ、クソガキ」

「な、なに言って……」


 そう愛姫が戸惑ったような面持ちで目を逸らす。

 けど、しばらくして控えめに俺の胸の辺りのシャツをギュッと握ると、そのまま表情を隠すように顔を埋めた。

 どうやらやっと観念したらしい。

 

「ロリコン」

「あ?」

「汗臭い」

「ははっ、もういいオッサンだからな」

 

 不意に呼ばれた蔑称に懐かしささえ覚える。

 けれど愛姫は悪態を付きながらも離れずにそのままだった。


「ロリコン」

「なんだよクソガキ」

「今までごめん」

「俺も言葉が足りなかったからな。悪かった」

「ううん。……あとね、」


 そこで愛姫がやっと顔を上げた。

 その目からは不安や後ろめたさは消えていて、代わりに薄く涙と笑顔を浮かべていた。


「ありがと」

「おう」


 そう短く返事をすると、俺は愛姫を抱き止めたまま頭をくしゃっと撫でた。

 夜風が汗ばんだ頬に心地良く、そのまま空を見上げたら月がやたらと綺麗に見えた。


 明日、最高にしおらしい今のこいつを出汁に、今まで出来なかった分まで思いっ切りからかってやろうと思った。

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