第29話 幕間Ⅰ
都内は某病院。
時刻は午後8時半、日付は12月25日。
愛姫を小夏の家まで迎えに行って送った帰り、俺は紗妃の病室まで来ていた。
面会時間はすでに過ぎている。
仕事柄何人かの医師に顔が利くし、個室ってこともあって事情を話して融通してもらった。
結構図々しいお願いも聞いてもらったし、今度仕事で何か埋め合わせしないとな。
ノックもせずに扉を開けると、紗妃が何をするでもなく窓の外を眺めていた。
位置的に大したものが見えるわけじゃないだろうに。
俺に気付いたようで振り向いてキョトンとした顔をして見せる。
「松井さん?」
若干疑問形なのと驚いてるのは、面会時間を過ぎてるからではなく俺の格好のせいだろう。
「何してるんですか?」
「出張サンタ」
病室に入る前、サンタ帽と鼻眼鏡に白いヒゲがセットになったパーティーグッズを装備していた。
肩にはデカくて白い袋も担いでいる。
そのくせ服装はスーツだからそこそこ不審者だ。よく一瞬で俺だって分かったなこいつ。
愛姫が小夏の家のクリスマスパーティーに行くというので、迎えに行きがてらガキどもにプレゼントを渡すため某激安の殿堂で買って来たのだ。
反応はそれぞれだったが、春香の「ギリギリ滑ってます」が一番堪えた。それを聞いた小夏と千冬のフォローが余計辛かった。
「なんて言うかその、変な格好ですね」
「俺もそう思うわ」
さっき鏡で確認してみたけど最高に間抜けだった。
私服ならまだしもスーツが良くねぇんだろうな。色物感が半端じゃねえ。
狙ったつもりはなかったが、春香にああ言われても仕方ないわ。
「それで、その出張サンタさんがどうしたんです?」
そう言いながらも紗妃はクスクスと笑ってくれた。
こいつこういう風に無邪気に笑ってると本当ただの少女感あるな。一児の母とは思えないわ。
「お前今日誕生日だったろ。祝いに来たんだよ」
「お仕事忙しいんじゃないんですか?」
「この後も会社戻るけど、別に時間が決まってるわけじゃないからな」
そう言いながら袋からゴソゴソとプレゼントを取り出す。
子供の大きさぐらいはあるデカい犬のぬいぐるみだった。
目つきが悪くて間抜けなツラをしてるやつだ。
「ほらよ」
ベッドの上の紗妃の膝辺りに乗せると、戸惑いながらも両手で掴んでしげしげとにらめっこする。
しばらくそうしてたかと思うと、まんざらでもないのかぬいぐるみを反転させて後ろから腕を回した。
そのままギュッとしながら見上げてくる。
「ありがとうございます、嬉しいです。けど、なんでぬいぐるみなんですか?」
「お前似合いそうじゃん、デカいぬいぐるみとか」
「私もう今日で26才なんですけど……」
「中身は-10才ぐらいだからちょうどいいんじゃねぇの?」
「そうやってまた子供扱いして」
まぁ見た目も年相応とはとても言い難いけど。
ぬいぐるみ抱き締めながら拗ねるツラとか、まさにあのクソガキにしてこのクソガキありだわ。
本来はこいつにもっと似合いそうなクマのぬいぐるみとか考えてたんだ。
ただ、先ほどのように紗妃が物憂げにしている様子を時折見かけるので、一人のとき少しでも寂しくないよう、病室の空気がその間抜けなツラで少しでも緩むよう、王道じゃなくてちょっと外したものを選んだ。
だから、ぬいぐるみを選んだ理由は似合いそうだからだけでいい。
紗妃がぬいぐるみを向き合わせて両手で持ち上げると、もう一度その顔を眺める。
そのまま俺の顔を見て笑った。
「何だか松井さんに似てる気がします」
「はぁ? どこら辺が似てるんだよ?」
遠回しじゃなくて、結構直球で目つきの悪い間抜け面ってことだろ。
ぬいぐるみはデフォルメが効いてるから見方によって可愛く思えなくもないが、俺の場合ただのおっさんだ。
けど、紗妃が似てると言ったのは違うポイントらしい。
悪戯っぽく笑うと再びぬいぐるみを抱き寄せながらこう言った。
「見かけと違って本当は優しそうなところがです」
「……お前さぁ、それキャバ嬢のときに出来てたらきっと入れ食いだったぞ」
「へ?」
いや、色恋営業とか逆に割り切れないあぶない客が増えそうだな。
こいつ極限に男運悪いし。
俺もその男運の中に入るのかも知れないけど。
「まぁいいや、取り合えず上着羽織れよ。ちょっと外出ようぜ」
「え? でももう時間外ですよ。そもそも面会時間だって終わってるじゃないですか」
「許可もらってるから大丈夫だって」
そう言うと俺は紗妃をベッドから下ろすのを手伝った。
車椅子を押しながら、廊下を進んでエレベーターに乗る。
「なんで上に行くんですか?」
「外って言っても、さすがにこの時間に敷地外に行くのはまずいだろ」
最上階に着くと、誰もいない共有スペースは消灯していた。
その脇からやたら広いテラスへ出ると、紗妃が目を輝かせる。
「わぁ」
「お前どうせ見に来てなかっただろ」
そこにはイルミネーションに彩られた立派なツリーが中央に鎮座していた。
誰一人いないのに静かに呼吸をするよう、ゆっくりと青や白や赤に色めいてやがる。
さすが大病院、金かかってんな。
「綺麗ですけど、勝手に出ていいんですか?」
「さっきも言ったろ、少しだけでいいからって許可もらっといたんだ」
このツリーは外出出来ない入院患者や子供のために病院側が数日前から設置していたものだ。
ツリーに加えて、テラスのあちこちに聖夜っぽいモニュメントや装飾が飾り付けられている。
「よく私一人のために許可なんてもらえましたね」
「知り合いの医師に頼み込んだんだよ。事情聞いてわざわざツリーの電源も付けといてくれる辺り粋な計らいだわ」
「事情って何のですか?」
「あぁ、プロポーズするから場所と時間くれってな」
「…………?」
紗妃が振り向いて何とも言えない表情をする。
疑問半分、戸惑い半分って感じだわ。
「誰がプロポーズなんてするんですか?」
「俺」
「だ、誰にするんですか……?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「……」
混乱してるのか、黙ったまますげぇ目が泳いでる。
分かりやすいなこいつ。くそかわいいわ。
落ち着きなく動こうにも、車椅子をしっかり俺が握ってるから逃げ場もない。
まぁ内心俺も心臓バクバクだけど。
期待と不安が入り混じって、照れ臭くて、ついスカした態度で誤魔化しちまう。
「お前さ」
「は、はいっ!?」
「あれだけ結婚相手探してたのに、何で俺にはそういうの出さなかったんだ?」
「……それは、上手く言えないんですけど、何か嫌だったからです」
「えっ、俺ってそんな圏外だったの?」
「ち、違います! ……違くて、松井さんはなんか、今まで出会った男の人と色々違っていて、よく分からなかったんです」
「分からない?」
「はい。最初はなんだこの人って思いました」
少し落ち着いたのか、紗妃が笑いながら皮肉を言ってくる。
「だって、初対面なのにいきなり踏み込んでくるし、いつも私のこと子供扱いして馬鹿にするし、そのくせ自分はいい加減なのにお節介だし」
けれど何かを思い出すように、その顔が言葉を続ける度に穏やかなものになる。
「……だけど、いつの間にか馬鹿にされるのに一緒にお酒を飲むのも話すのも嫌じゃなくなってました。ダメなところを見せても見ても大丈夫だって思えて、何かあったら話したくなって、友達って言ったら違和感があるのに何だか安心出来ました」
「そっか」
「だから、松井さんと一緒にいると不思議な感じだったんです。一緒にいると、楽で、自然体でいれて、楽しくて、でも落ち着いて、信頼出来て。今まで会った男の人と違っててよく分からないっていうのはそういう意味です」
「……そっか」
俺はコートのポケットに入れた手袋を握り締めた。
まるでお互いの好意の答え合わせをするようで、言葉にしなくても確信のようなものがあって、続きは自分から言いたいとそう思った。
しかし、紗妃の続く一言で俺は平静さを失いかけた。
「だから、もし私に兄がいたらこんか感じなのかなって」
「…………え?」
ちょっと待て、その一言はダメだ。
女の言う『お兄ちゃんみたい』。これは暗に一緒にいて楽しいし関係性も大事にしたいけど恋愛対象としては見れません、それ以上の距離感は求めてません、という意味が込められている。
過去、身近な人間から自分まで、何人もの男がその言葉に葬られてきたことを知っている。
マジかよ。もしかして俺勘違いしてただけかよ。
先ほどの高揚感にも似た心臓の高鳴りから一点、冬なのに嫌な汗が頬を伝う。
何が答え合わせだよ馬鹿。一人で舞い上がってただけじゃねえか。
内心焦りまくっている俺をよそに、紗妃が拙いながら車椅子を自分で回して俺と向き合った。
その表情は先ほどと違った意味で複雑なもので、哀しみと親愛が入り混じっているよう感じた。
「でも、違ったんです」
「な、何がだ?」
「よく分からないからだけじゃなかったんです。お兄さんみたいだからだけでもなかったんです。私が松井さんをそういう対象としなかったのは、病気のことを言いたくなかったからなんです。そんなことに、入院してから初めて気が付きました」
いまいち意味が分からなかった。
なんで俺を対象にしないことと病気が関係するんだ。
「私、交際するとしたら愛姫のことだけじゃなくて必ず病気のことも伝えるんです。だから全員にフラれちゃうんですけど」
「それは正しいだろ」
「でもそれって、物凄く都合の良いことを相手に言ってるんです。私が返せるものは時間を含めて非常に少ないことは分かっていましたから。私が出来ることなら何でもするつもりでしたけど、きっとそれでも到底割に合わないんです」
「なに馬鹿言ってんだお前」
「本当馬鹿ですよね。そんなの納得してもらえるはずないのに」
俺が言ってるのはそういうことじゃない。
以前から気付いていたが、こいつの思考は自分の幸せを度外視している。
どうせ消えるからって最初から諦めて、残される愛姫のために自分を最後に有効利用しようとしか考えていない。
「あと数年は大丈夫だと思ってました。けど仮に病気が発症してなかったとして、そのたった数年で私はそれだけの何かを返せるものなんて持っていなかったんです」
「……」
「最初から無茶だって分かってたんです。分かってた上でみっともなく悪あがきしてただけなんです。事実を告げて、そのうえこれから先ずっと、見返りもなく大変なことを我慢し続けて下さいだなんて、いずれ後悔されて、厄介に思われて、うんざりされて、離れていくって分かっていたんです」
瞬くツリーを背に、紗妃が言葉を続ける。
まるで何かを白状するように、遠まわしに本心を告げるように。
「だから、松井さんが相手なんてまっぴらごめんです。絶対に病気のことなんて言いたくありませんでした。これからの負担を全部背負わせるようなこと、求めるなんて出来ませんでした。いつか、嫌になってしまわれるのが、離れていってしまうのが嫌でした。だから、つまり」
紗妃が困ったような顔をしながら眉を下げる。
それと共にその頬に一筋の涙が溢れた。
「……私はあなたに、いつか拒絶されてしまうのが怖かったんです」
そう言って自嘲気味に笑った。
その無理やりな笑顔の意味が俺には分かった。
こいつはつまり、傷付かずに済むよう先に諦めようとしてるんだ。今この瞬間にも。
無理しなくていいって、分かってるからって。
俺だけに言わなかったのは、今までの関係をそれだけ大切に思ってくれている裏返しだった。
不器用過ぎて呆れさえする。
俺は歩み寄ると、指先で紗妃の涙を拭った。
「馬鹿かお前」
「なにがです?」
「その馬鹿なところもくっそ可愛いわ」
「な、なに言ってるんですか?」
そして他の男に告げることが出来たのは、きっとそこに気持ちがなかったからだ。
相手への申し訳なさと、それに対する自己犠牲しかなかったからだ。
そりゃフラれるわ。
「話し聞いてましたか!? 私はもう、あの頃よりもダメなんです。時間だってもっと少なくて、自由に動く事だってこれからもっと出来なくなって……。私が出来ることなんて」
「うるせえな。誰もそんなもん望んでねぇんだよ」
だから、白状してなお俺のことなんかごめんだと言うその言葉は、自ら拒絶するその姿は、特別だと言われているように感じた。
関係だけじゃなくて、俺自身のことを大切だと言ってくれている気がした。
「すげぇ女だと思ったんだ。要領悪くて、健気で、頑固で、どうしようもなく馬鹿で、胸が締め付けられるぐらいに可愛いと思ったんだ。こんな女、二度といねえって思ったんだ」
「でも私……、私は、何も返せません。松井さんに返せるものなんかありません。何より、松井さんに大変な思いなんかしてほしくありません。私なんかよりもっと松井さんにとって良い人が……っ」
「しつけぇんだよ」
いい加減ムカついて紗妃の唇に指先を当てて黙らせる。
突然のことに驚いた紗妃が目を丸くした。
その様子が堪らなくて思わずそのまま頬に手を添えると、ほんの一瞬だけ、かがんで口付けた。
顔を離すと、紗妃が絶句しながら顔を赤く染めていく。
かく言う俺も耳が熱くなっていくのを感じる。
勢いでやっちまったが、おそろしく気恥ずかしくなってきた。
「……か、返せるものなんかこれで十分だわ。何なら釣りがくる」
「な、なにしてるんですか、いきなり……」
何だこの空気。
謎の沈黙が生まれ、照れ臭さからお互いに顔を背ける。
たかがキスなのに、二人ともいい歳なのに、まるでガキみてぇだ。
「…………なぁ」
「は、はいぃ!?」
「好きだ」
「へぇ!?」
「好きになっちまったもんはしょうがねえだろ。返せるものがないとか言われても、俺が今一番欲しいのはお前の言葉とこれから一緒に笑ってられる時間なんだよ。それぐらい分かれよ」
「……」
「もっかい聞くけど、お前はどう思ってんだ」
もし仮に俺に勿体ないほどの紗妃以外の誰かが現れても、きっと俺はこいつを忘れられない。
今この瞬間紗妃が応えてくれなかったら、この先の人生でそれが何よりの後悔になる。
しばらく紗妃は忙しなく目を泳がせていたが、俺の答えを待ち続ける様子を見て俯いた。
そのまま時折チラチラと俺の方へ目くばせしてくる。
そして、やがて観念したようにようやくその口を開いた。
「……私も、好きです」
「クソガキ」
「な、なんですか、人がせっかく!!」
「ほら」
俺はそういうと紗妃に手袋を渡した。
クリスマスっぽく、トナカイ色したやつだ。
「なんですかこれ」
「クリスマスプレゼント」
「さっきぬいぐるみもらったじゃないですか」
「アホか、あれは誕生日プレゼントだろ」
「……ありがとうございます」
クソガキと言われ有耶無耶にされたのが気に食わないのか、紗妃がムッとしたまま手袋を着ける。
しかし、違和感に気付いたのかすぐに左手だけ外した。
「松井さん、これ……」
その薬指には指輪が光っていた。
我ながらありふれた演出だと思う。
「安物だぞ」
「……はい」
「俺でいいんだよな」
「はい……」
「言っとくけど、お前のことすぐにくたばらせる気なんてないからな」
「はい……」
「自分なんかとか返せるものがとか考える暇ないくらい、これから先、愛姫と一緒に色んなところ行って、馬鹿なことして、うざったいぐらいに一緒にいて、何度だって笑わせてやる。だから、俺と結婚してくれ。お前の時間、全部俺にくれよ」
「はい……、はい……」
紗妃が指輪ごと自分の手を胸元で抱き締めて、何度も何度も頷く。
その仕草があまりに愛しくて、そっと額をくっつける。
こつんと音がして、目が合うと二人で優しく笑い合った。
しばらくそうしてから額を離すと、不意にツリーの明かりが消えて暗闇のなか夜景だけが際立った。
俺たちはむず痒い気持ちのままそれを眺め、互いに何も話さずテラスを後にした。
ただ、病室に戻る際、名残惜しくてそっと後ろから紗妃を抱き締めた。
大切にしたい。
守ってやりたい。
出来ることがあるなら、何でもしてやりたい。
心からそう思えた。
——後日、協力してくれた医者や看護婦に「やりますねぇ」とか、「なんか中学生みたいで素敵でした」とか言われた。
どうやら時間が過ぎていたので途中から様子を見に来ていたらしい。
紗妃もからかわれたらしく、しばらく俺たちは顔を合わせるたびに照れ臭さで上手く話せなかった。
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