第28話
仕事を片付けて家に帰ったのは11時過ぎだった。
明日は何とか午前休が取れそうだが、日曜日は出勤だろう。
スーツをハンガーにかけてネクタイを緩め、部屋のドアをこっそりと開ける。
暗い部屋の中で愛姫が寝ていることが窺えた。
多分、無理に起きていると俺が困ったような顔をするから、言われた通りに寝てるんだろう。
俺は具合を見るため、物音を立てないようベッドの側にしゃがみ込んだ。
体調はかなり良くなったみたいで、スース―と子供らしい寝顔を浮かべている。
しかし、どうしたもんかな。
普通の親って、いったいどうやって子供と接してるんだ。
どの程度気を使って、どの程度気を使わないのが正しいんだ。
いったい、気を使ってくる子供に対してどうするのが正解なんだ。
分かんねえよ。
……あぁ、そうか。
一人で子供を育てるってのは、同じ立場の相談者がいないってことなのか。
そりゃきついはずだ。
当事者が自分しかいないなら、それは孤独に違いない。
上手く出来ていない挫折感も、頑張っても進んでる気がしない虚無感も、積み重なっていく悩みも、休んでゆっくり考えることが出来ない疲弊も、何より自己嫌悪も、全部自分だけのものだ。
昼間の部長の話しを思い出す。
俺のことを大丈夫だと言ってくれたが、全然大丈夫なんかじゃない。
すげーきついし、自分が嫌いになっちまいそうだ。
ふざけんなよ。
一人って超きついじゃねえか。
こいつと暮らし始めて、ずっとずっと感じていたんだ。
考えれば考えるほど、辛さを実感するほど後悔が深まっていんだ。
なんで俺は……。
——なんで俺は、こんな思いをしていた紗妃にもっと優しくしてやれなかったんだろう。
俺は本当に何も分かっていなかったんだ。
一人で子供を育てる本当の意味での大変さを。
なんで出会った頃、俺はあんなにも軽々しく言葉をぶつけちまったんだろう。
なんでもっとよくあいつの立場になって考えてやれなかったんだろう。
俺にもし今ほどの収入がなかったら?
話しを聞いてくれる上司がいなかったら?
いざと言うとき頼れる身内がいなかったら?
そしてなにより、自分に残された時間が限られていたら――。
考えるだけでゾッとする。
今まで如何に自由に生きてきたかを思い知る。
その責任の重さに目眩を覚える。
紗妃の絶望の深さに、胸が締め付けられる。
ふざけんなよ、本当に。
あいつは、こんなのをずっとずっと一人で耐えていたってことなんだ。
あんな歳で、あんな要領悪くて、あんな境遇で、それなのにずっと歯を食いしばって。
いったい、どれほど自分を責めたか分からない。
人と上手くいかなかったときに、仕事で嫌なことがあったときに、溜まった家事を前に、愛姫と時間を取れないことに、愛姫に寂しい顔をさせちまった後に、将来を考えたときに、夜眠れないときに、それらが重なったときに、どれだけ挫けそうになって、その度にどれほどの想いで持ち直したのか分からない。
だって、そんな状況でも誰にも頼れなかったんだ。
たった一人で考えて、何とかするしかなかったんだ。
出会って以降の紗妃の健気さが、必死さが、今さらながら本当の意味で分かった。
馬鹿だと思ってた。
要領が悪いと思ってた。
考え方が間違っていると思っていた。
けれど、どんな形だって、気持ちを切らさず、愛姫への愛情を絶やさず、何とかしようと足掻き続けることだけでも途方もないことだったんだ。
世間知らずのあいつが、人一倍どうしたらいいか分からない恐怖や絶望感を抱えたあいつが、それでも諦めることなく手探りで愛姫のために頑張り続けていたんだ。
勘弁してくれよ。
超格好良いじゃねえか。
今の俺自身が辛ければ辛いほど、その何倍も大変だったあいつに負けるわけにはいかなくなるじゃねえか。
死んだ後にまで惚れ直させるなよ。
もっと早く会いたかった。
もっと早く支えてやりたかった。
もっと色んなことを聞いて、話して、分け合いたかった。
二人で、愛姫を育てたかった。
けど、今はもう、どれだけ強く想っても届かない。
暗い部屋の中で、自然と目頭が熱くなる。
目を瞑ると少しだけ涙が滲む。
きっと疲れて余裕がないからだ。
だから似合いやしないって分かってるけど仕方ないんだ。
こんな風に、いない誰かを愛しく思うのは。
格好悪く鼻をすするぐらいに、気持ちが昂っちまうのは。
「……んぅ」
その音に反応してか、横を見ると愛姫が寝返りを打って布団が少し剥がれていた。
俺は布団を愛姫の肩までかけ直すと、そのままベッドに頬杖を付いた。
しばらく寝息が落ち着くのを見守って、あいつもこんな気持ちで寝顔を眺めてたのかななんて考える。
自然と手が伸びて、その頭をゆっくりと柔らかく撫でた。
「頭、ちっちぇーなぁ……」
本当にまだまだ子供なんだ。
小さくて、何があっても守ってやりたいと思う。
それは、先ほどの紗妃への愛しさと、愛姫へ愛しさが混ざり合うようだった。
紗妃はもういないけど、あいつに対する気持ちは俺の中に確かに残ってる。
それが、今こうして支えてくれている気がするんだ。
約束するよ、紗妃。
この先どれだけ辛くても、苦しくても、お前と同じ気持ちで愛姫のことを育てるから。
だから、不安かも知れないけど、馬鹿だから間違えそうになるかも知れないけど、見守っててくれ。
どれだけ大変なときだって、それがお前と同じだって思えたら何より心強いから。
どんなときでも俺は歯を食いしばれるから。
きっと、お前の分までこいつのことを大切に思えるから。
ハッキリと澄んだ視界に愛姫を映す。
熱の下がった頬を指でつつくと、むにゃむにゃとしながら愛姫が笑った。
その顔を見て、その日は久しぶりに穏やかな気分で眠ることが出来た。
※ ※ ※
久しぶりに安心して眠れたせいか、熟睡し過ぎた。
カーテンから差す陽光に目を細めながら起きると、なんと時刻は午前11時。
感傷的になって涙ぐんで寝こけるとか少女漫画のヒロインかよ。
なんか誰に知られてるわけでもないのにクソ恥ずかしいわ。なんだよこれ。
しばらくそうして布団の中で悶絶していたところで、愛姫がベッドにいないことに気付いた。
ついでに部屋の向こうから良い匂いが漂ってくることにも。
「おはよー」
ドアを開けると台所に立つ愛姫が振り向いて声をかけてきた。
俺がいつだったか勝負の賭けであげたエプロンと三角巾まで付けてやがる。……写真撮りてーな。
「悪い、寝すぎた」
「別に平気。もうすぐ出来るから歯磨いてヒゲ剃ってきちゃって」
「おう、ありがと」
風邪はすっかり治ったようだった。
取り繕って無理してる気配がない。
そして何より、ここ最近と少し雰囲気が違う気がした。
洗面所から戻り料理を手伝おうとすると「もう出来るから座ってて」と、たしなめられた。
確かに今日ぐらい任せてもいい気がするけど、こいつの場合下手に一回任せたらずっと続けそうな気がするんだよな。
「いや、お前病み上がりだし、出社までまだ時間あるから」
「勘違いしないで」
そう言いながらタオルで手を拭いて、料理を皿を盛り付けて並べると机に両手を付いた。
そのまま鼻息荒く、高らかに宣言する。
「勝負よ、逸馬」
「勝負?」
「うん。これからは順番にご飯を作って、どっちがおいしく作れるか競うの」
挑発的な笑みを浮かべ、真っ直ぐに俺を見てくる。
その目には、遠慮も気負いも気遣いもなかった。
今まで幾度となく公園で勝負をした時と同じように、対抗心と高揚感が入り混じった生意気な顔だった。
不意に、暮らし始めて間もない頃を思い出した。
一緒に暮らし始めた俺たちは本当に言葉数が少なかった。
確かに出会った頃に比べたら仲は良くなったかも知れない。
それでも俺たちは家族という感覚を持てていない他人だった。
だからその当時、何気なくボソッと言った愛姫の一言に俺は安心したんだ。
「……あんたと同じ家って変な感じ」
「馬鹿言うな、俺なんて人と暮らすの十年以上ぶりだぞ。違和感で言えばお前の比じゃねえわ」
そう、こいつも俺と同じなんだと思ったら安心したんだ。
そりゃそうだよなって、当たり前に親子なんて思えるかって、お互い何とかうまくやってこうぜって、他人からでもいいじゃねえかって許された気がしたんだ。
だから、そうだよな。
俺たちはきっとこれでいいんだ。
他人だからと変に気を使わず、親子になろうと変にこだわらず、悪態を付き合いながら笑い合ってればいいんだ。
それがきっと、俺たちの自然体でお互いを思いやれる形なんだ。
「上等だよ、クソガキ。俺が夜な夜な練習したオムライスの実力を見せてやる」
「かかってきなさいロリコン。周さんから教わったハンバーグは伊達じゃないわよ」
まるで狂っていた調子を取り戻すよう、俺と愛姫は不敵に笑いあった。
俺は並べられた料理に口を付けると、目をかっぴらいて仰け反ってみせる。
「な、なにぃ……!? くそが、超うめぇ!!」
「あはは、なにそれ」
俺がおどけるよう大袈裟に愛姫の作った料理を褒めて悔しがる。
馬鹿みたい、と愛姫が楽しそうに笑った。
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