第27話
家に帰り愛姫に布団をかぶせると、遅くまでやっている薬局へと駆け込んだ。
水枕、飲み物、おかゆ、ついでにスーパーに寄って果物やら思い付いたものを買って走って帰る。
ただいまは言わず静かにドアを開けるとさっそく水枕を作った。
愛姫の寝息は少し荒くて、まだ熱が高いことが伺えた。
「愛姫、起きれるか?」
「…………ん」
俺の問いかけと、水枕を頭の下に入れたことで愛姫が目をうっすら開ける。
「辛いかも知れないけどこれだけ飲んじまえ。そしたら薬も飲めて少し楽になるから」
買ってきたゼリー飲料の蓋を開けて口元に付ける。
愛姫がされるがままなので、少しずつ絞って中身を飲ませた。
「冷たくておいしい……」
「あと薬だ。むせないように気を付けろよ」
薬と共にストローを口に含ませる。
くぴくぴと喉を鳴らして無事飲みこめたようだった。
「それじゃもう寝ちまえ。体調戻るまで学校には休むって言っておくから」
「うん……」
そう言いつつ、虚ろながらも愛姫は目をつぶらなかった。
無理に起こさず眠らせておいてやれば良かったのかも知れない。
「眠れないか?」
「ううん」
「じゃあ寝とけよ。俺はちゃんとここにいるから」
「うん」
首元まで布団をかけると、瞼が半分閉じた目で俺を見上げてくる。
「ごめんね、逸馬」
「謝るなよ。しんどいのはお前だろ」
「うん、ごめん……」
或いは愛姫からすると、俺は寝るために安心させるほどの存在じゃないのかも知れない。
弱っていてなお、よそよそしいその態度を見てそう思った。
それから愛姫はしばらく経って寝息を立て始めたが、時折呼吸が荒くなった。
40℃近くあるんだから当たり前だ。平気なふりして風呂に入ったこと自体信じられない。
額に手を当ててみるが、解熱剤は大して効いてないのか熱は高いままだ。
けれど、医者の言っていた通り俺がしてやれることなんてほぼなかった。
子供が体調崩すってのはこんなにも不安になるのかと痛感する。
ただの風邪じゃないんじゃないかとか、熱の後遺症とかあり得るんじゃないかとか考えちまう。
ガキの頃、無茶や怪我をしてどれだけお袋や親父に心配をかけていたのか今更ながらに分かった。
やがて朝になると学校と会社に連絡した。
学校には体調が戻るまで休むこと、会社には俺しか対応出来ない最低限の出社しか出来ないこと。
今日のところは他の人間でも替えが利く内容だったので任せることにした。
昼過ぎになると愛姫が目を覚ましたのでおかゆを温めて食べさせる。
昨日より楽そうに見えるが、愛姫のことだからそういう風に振る舞っているだけかも知れない。
実際に熱と長時間寝ていたことで腰や関節が痛いらしく、支えてやってもトイレに行くのもしんどそうだった。
少なくとも今日一日は付き添ってやろう、そう思っていた。
だが、社内の立場が上がるとそうも行かないらしい。
『先方と揉めた?』
会社からかかってきた電話の相手は例の後輩だった。
どうやら俺の班の営業が顧客の機嫌を損ねたらしく、後輩が間に入ったものの手に負えない状況らしい。
『部長はなんだって?』
『本社の会議に出てて連絡取れないんですよね』
『マジか……』
部長から多数の顧客を引き継いだ部内の俺の立場はかなり難しい。
俺以上に年次の高い連中からは快く思われていないし、部長の紹介でおいしい思いをしてるんだから自分の案件や後輩のことは全て自分でケツを持てという風潮もある。
ただ……。
ベランダで電話をしていた俺は、窓越しに愛姫に視線を移した。
目をつぶって仰向けのまま胸で息をしている。
昼飯だって少ししか食べてないし、熱は依然として39℃近くあるし、また吐いたりするかも知れない。
けど仕事の方も部長が帰ってくるまでこのままってわけにもいかないだろ。
どうすりゃいいんだこれ。
『すぐ折り返すからちょっと待っててくれ』
『すみません、お子さんが大変なときに』
『お前が悪いわけじゃねぇよ。取り合えずお前はそこに残って、もう一人は事務所に帰して今から言う準備と機器の手配するよう言ってくれ』
必要な指示を端的に済ませて電話を切る。
機器の不具合に加えて対応ミスか。後日ってわけにも行かないだろうな。
そんなことしたら契約は切られるし、対応の悪さが尾を引いたらそれ以外でも弊害が出る。
そこまでしてくれるならってところまで後処理をして印象を0に戻す必要があるけど、後輩にそんな権限はないし、仮にあっても若手が対応し続けたら軽く見てるように思われて心象は悪いだろう。
「くそ、何時に帰ってこれるか分からねぇ……」
合理的に考えれば優先すべきは分かっている。
仕事だ。
本当にただの風邪ならこれ以上大事には至らない、はずだ。
ただ、愛姫があまりに小さいから、鈍感な俺と違って繊細な造りをしてるから、症状が悪化したらどっかが壊れたりしちまうんじゃないかって心配になる。
それに、弱々しい態度で、それでも俺に気を使ってくるからせめて安心させてやりたかったんだ。
お前がどれだけ強がったって、俺はちゃんと側にいるからって示してやりたかったんだ。
ベランダの柵にもたれかかって現実逃避する。
分かってる、たった数分間先延ばしにしてるだけだって。
でもこいつぐらいの歳で、具合悪くて起きた時に誰もいなかったらどれだけ心細いんだろう。
そうウジウジ俺が悩んでいると後ろから窓の開く音が聞こえた。
「逸馬、行ってきていいよ。寝てるだけだし、私は大丈夫だから」
どうやら目をつぶっていただけで起きていたらしい。
話をどこまで聞いていたか分からないが、俺の様子から察したんだろう。
「けどお前、もっと具合悪くなったら」
「大丈夫」
「この家電話とかないし、何かあっても俺に連絡できな」
「大丈夫」
「……」
あぁ、知ってるわ。
お前はいつだって頑なだよな。
俺が行かなかったら行かなかったで、逆に精神的に負担をかけちまうほどに。
「…………分かった。甘えるわ」
「うん、行ってらっしゃい」
俺に心配をかけまいとだろう、背筋を伸ばして送り出そうとする。
手早く準備を済ませると、愛姫がベッドに戻るのを確認して俺は家を出た。
今すべきことは、出来るだけ仕事に集中して長引かせないこと。
早く終わらせようと焦って雑になっても余計時間を食う。
今が夕方の15時半。
移動に1時間、対応処理に2時間、戻ってくるのに1時間。
多少余裕を見ても構わない。
ただその時間までかけてもいいから、確実にそれまでには終わらせる。
——けれど、俺が家路に付いたのは結局22時過ぎだった。
思った以上に手間がかかったうえ、会社に戻ったら放っておけない別件の処理が重なった。
素直にイラついた。
ちょっとは状況考えてくれよってムカついた。
何でこんなにタイミング悪いんだよって腹が立った。
最悪なことに明日も朝から出社せざるを得ない事態に神経が逆撫でされた。
タクシーを飛ばしてもらいながら腹の底からため息が出る。
焦りと心配と苛立ちで、車内は張り詰めた空気が充満していた。
運転手もそれを察してか、家に着くまで一切無言だった。
マンションに着くと愛姫を起こさないよう静かにドアを開ける。
けれどそんな配慮は必要なかった。
愛姫が台所で料理をしていたからだ。
「あ、おかえり」
「お前なにやってんだよ?」
「逸馬のご飯。ごめん、さっきまで寝てたからまだ終わってないんだけど」
「いや、そうじゃなくて寝てろよ。熱下がったのか?」
愛姫に詰め寄り額に手を当てる。
昨日よりマシとはいえどう見ても熱は下がり切っていなかった。
「ちゃんと休んでろよ、治るもんも治らないだろ。飯は食ったのか?」
「まだだけど」
先ほどと同じように深いため息が出る。
分かってる。
こいつに悪気はないし、俺に心配をかけまいとだろうし、何なら気を使ってくれてる。
けどよ愛姫、今それは必要ないんだよ。
くそ、考えたくもないのにイラつく。
余計なことすんなって思っちまう。
子供なんだからするべきことの優先順位を間違えるなんて当たり前なのに、合理性を求めちまう。
体調が悪化してなかった安心感の反面、余計なことを言ってしまいそうになる。
「……愛姫、飯は俺が続き作るから横になってろ」
「大丈夫だよ。そんなに寝れないし、逸馬だってこんな時間まで」
「あー、分かった。だったら取り合えずタオルで寝汗拭いて着替えとけ」
何とか抑え込んで平静を装う。
それでも言葉の端に僅かに滲み出た苛立ちに、多分は愛姫は気付いたと思う。
「……分かった。ごめん」
「だから謝んなって。俺のためにしてくれたことは分かってるから」
「ううん、疲れてるのにごめん」
違うんだよ。
本当は褒めてやりたいんだよ。
ありがとうって言ってやりたいんだよ。
そんな失敗したみたいな顔させたくないんだ。
ただ、実際に無理して間違った行動に対して優しく諭してやれるほど今は器用になれない。
自分の要領の悪さに余計腹が立つ。
体調崩した子供に引け目感じさせるとか、どんだけ器が小さいんだよ。
けれど悪いことってのは重なるもので、翌日別の後輩がミスをした。
よりによって納期間違えとかいう一番面倒臭いやつだ。
昼には一度家に帰る予定だったのに、とてもじゃないけどそんな状況じゃなかった。
朝になって愛姫の熱はかなり下がっていたが、そういう問題じゃなかった。
自分には果たすつもりはあるのに、ちゃんとした保護者の責任を果たせてない。
そういった意識が精神を擦り減らした。
ただでさえ最近は切羽詰まっていたんだ。
慣れない子育てに環境の変化、仕事が立て込んで、家事に忙殺され、一人の時間は一切取れない。
それなのに、そこまでやってるはずなのに、俺は保護者として失敗している。それがキツかった。
人前では愚痴りながらも精一杯に軽口を叩いて、平気だと自分に言い聞かせていた。
以前はまるで理解出来なかった、子供を愛しているというのに虐待に走ってしまう母親の気持ちが、少しだけ、ほんの少しだけ分かってしまった。
不甲斐なさも、申し訳なさも、情けなさも、本来はそれだけ愛情があるからだ。
してあげたいという気持ちから、精一杯にやっているからだ。
だから、それが報われないのが辛いんだ。どれだけやっても届かない気がしちまうんだ。
子供が悪くないなんて分かってるのに、仮に悪くても子供だから仕方ないのに、限界を超えると少しだけ自棄になる。
それがまた自己嫌悪の原因になって、悪循環を繰り返すんだ。
つまり、余裕がないんだ。
そういう親も、今の俺も。
愛姫に手をあげることなんて考えられない。
ぞんざいに扱うなんて考えたくもない。
どれだけ余裕がなくなったって、あるべき姿を保ちたい。
俺は多分、それだけは出来ると思う。
けれど、いつしかそれを義務のように感じてしまうのが怖いんだ。
表面だけ取り繕って、仕事のようにあいつに接してしまうことがこの先あり得るんじゃないかって、ここ数日不安になる。
二人で笑い合ってる裏で、本心では疲れたような感覚になっている自分を想像すると眉間に力が入った。
「大丈夫か、生麻」
休憩中、そんなことを考えながら喫煙所で煙草を吸ってると部長にそう声をかけられた。
この人は煙草を吸わないから、わざわざ俺を気にかけて来てくれたんだろう。
「多分、業務上は問題ないっす」
「家の方は大丈夫じゃないってことか?」
「充分ではないですけど、あいつがしっかりしてるんで何とかなっちまってる感はあります」
今朝家を出る時には熱も下がっていた。
明日明後日は土日だし、週明けからは学校にも行けると思う。
「じゃあ何でそんな深刻そうな顔してるんだ?」
「単純にしんどいし余裕ないからですね。あとは何というか……」
さっきから考えていたことは単純なんだ。
色々言葉を付け加えたって、その実たった一言で済む。
「この先の自信がないっす」
あいつを幸せにしたいって、そう育てたいって、掛け値なしにそう思ってる。
自分がどうなったって、あいつが仮にどんなに道を外れたって、投げ出さない覚悟がある。
けど、俺とあいつは本当の親子じゃない。
あいつは俺へ他人のように気を使うし、俺は保護者として親としての在り方が分からないままでいる。
ようは不自然なんだ。
その不自然が続いた先に、余裕がなくなるごとに精神が擦り減った先に、もし覚悟と責任だけが残っていたらそれはきっと表面上だけの関係になってしまう。
「俺は、責任だけじゃなくて、気持ちも持ち続けたいんです。じゃないとあいつの母親に顔向けが出来ない。だけど、俺は元々そんな出来た人間じゃないんすよ。だからこれから先の自分が信じられないんです」
「なるほどなぁ……」
腕を組んで目を細めながら部長が唸る。
俺の足りない言葉でも頭の良いこの人なら察してくれてるだろう。
「けど、しっかりと基礎は備わってるんじゃないか?」
「基礎?」
「あぁ。親がなぜ子供を育てなきゃならないか分かるか?」
「いや、それは保護者なんだから当たり前じゃないっすか。子供が一人で生きていけるわけじゃないですし」
「それは生物としてだろう。私が言っているのは、人が何故子供に対してそこまで責任を持たなければならないかだ」
急に小難しいことを言い出した。
あまりに当たり前のことで、そういうもんだからとしか俺には思えない。
「生麻、子供ってのは最初は存在してないんだよ」
「そりゃそうですよ」
「生まれる前だと、どんな人間かも分からなければ、人格も思い出も存在しないよな?」
「そうですね」
「つまり親ってのは、子供って存在が欲しいから作り出すんだ。どんな感情論を語ったところで、その時点で存在すらしていない子供の個性や人間性を愛せるわけじゃない。“自分たちの子供”という特別はあっても、確立した個人に向ける特別なんて存在しようがないんだ」
「……難しいけど何となく分かります」
確かに生まれてもない段階から、この子のこういうところが好き、なんて思えたとしたらそれは預言者だろう。
そうなってほしいと決め付けて、型に嵌めるよう育てることはあったとしても。
「それなのに自分たちの願望で新しい命を作り出すんだから、それは人を殺すのと同じぐらいのエゴだよ。それこそ選択肢がない一方的な強制で、生まれるということに対して人権なんてものは一切存在しない」
「ちょっと極端じゃないっすか?」
「そうかもな。ただ、どんな人格になるか分からない相手に、どうなるか分からない人生を自分たちの都合で勝手に与えるんだ。それは人生を奪うのと同じぐらいに重い行為だと思うよ。だから、親はその責任を取る必要があるんだ」
「……なるほど」
「こんなはずじゃなかったは効かないし、どんなことがあっても決して投げ出すことは許されない。本来、人の親になるのであればそれが最低限の覚悟だ」
自分の都合で数十年という人生を押し付け与える、か。
そう言われると確かに罪深くすら感じるな。
「少子化が進むはずですね」
「あぁ。ただ、私は子供が出来た当時そんなことは考えてなかったけどな」
「へ?」
「そりゃそうだろ、デキ婚だし」
「えぇ……」
今までの話しが台無しじゃねぇか。
まぁこの人若い頃イケイケだったし、どんなことになっても自分で責任取る自信とか覚悟はあったんだろうけど。
「ははは、そんな顔するなよ。ようはその責任を自覚するのが親として大切だと私は思ってる。確かに君と子供に血の繋がりはないかも知れないが、君にはその基礎がしっかり備わってると思うよ」
「そこまで深く考えちゃいないですよ」
「それはその責任が君の中で当たり前のものとしてあるからだろ。だからそのさらに先にある、自分の感情面での誠実さに不安を覚えるんだ」
「難しくて分からないっす」
「ま、思う存分悩め。そうやって人は親になっていくんだ。子供が生まれた時点で本当の意味で親である人間なんか一人もいない。育てながら人は人の親になっていくんだ。これから先、君も十分にその苦悩と地獄を味わうといい」
「励ましに来たのかトドメ差しに来たのか分からないんですけど……」
そこで部長は先ほどと同じように笑った。
けど、なんでこんなこと言ってるかは分かる。
この人、優しいからこそ厳しいんだよな。
「あぁ、ちなみに大変だからと言って業務を減らしたりはしないからな」
「だと思いました」
「仕事が大変で子供と不和が生まれようが自分で何とかしろ。それも子育てのうちだ」
「死にますよ、俺」
「その時は遠慮なく言え、何とかしてやる。ただ、今回みたいに健康に関わる場合や本当に限界だと思う時以外は頑張ってみろ」
「……それじゃ折れそうになったら酒でも奢ってください」
「あぁ、以前君が振る舞ってくれた時よりいい店に連れてってやるから期待してろ」
相変わらず人をギリギリのところまで頑張らせるのが上手いな。
俺も出来ることならそう上手くやりてぇよ。
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