第24話

 俺たち二人はどれぐらいそうしていたんだろう。

 気付けば雨が上がり、俺と愛姫の涙も枯れていた。


 二人でグズグズと鼻をすすりながら、揃ってベンチに腰をかける。

 よく考えたら、この公園でこうして隣合って座るなんて初めてのことだった。


「……ロリコン」

「なんだ?」

「あんた、大人のくせに泣きすぎよ」

「あぁ、俺もびっくりした」


 あまりに泣きすぎると頭が痛くなるんだなと初めて知った。

 けれど同時に、哀しみは消えなくても、先ほどの暗い水の底にいるような感覚とは違って、すべてが鮮明に感じられた。

 霧が晴れて、あるのは鮮烈なまでの喪失感と痛みで、けれど、それでも先ほどまでよりはずっとマシだと思えた。


「雨、止んだな」

「そうだね」


 ベンチのヘリに頭をもたげながら天を仰ぐ。

 雨雲に取り囲まれるようにして青空が覗けていた。

 いつかあいつと寝そべりながら見た空を思い出す。


 太陽は雲に隠れていて、雨に打たれた身体は冷え切っていた。

 早く家に帰って風呂に入れてやらないと愛姫が風邪ひいちまう。

 けれど、それが分かっていてもすぐに動く気にはなれなくて、そのまま二人して空を眺めていた。


 これからどうすっかな。

 いや、分かってるんだけどさ。

 怖いんだよ。


「ねぇ、ロリコン」

「なんだ?」


 首を傾けて愛姫の方を見る。


「私、一人になっちゃった」 


 先ほどまでの無理やりな笑顔と違い、そこには少し自嘲気味で何かを覚悟したような顔があった。

 ……こいつ、本当に強いな。

 また、泣いちまいそうだよ。


「これから多分ね、お母さんと同じで、施設ってところに行くんだと思う。私みたいに親がいなくなった子とか、色んな子がいるんだって」

「……」

「どこに行くことになるか分からないし、転校もしなきゃならないと思うんだけど。でもね、お母さんと同じだと思うと頑張れる気がするんだ」

「……」

「春香や小夏たちに会えなくなるのはちょっと寂しいけど、私がもっと大きくなったらきっと会えるから」


 愛姫が俯くことなく開けた空を見ながら、自分に言い聞かせるよう、不安に思ってないかのよう言葉を続ける。

 勘弁しろよ。

 何でそんな風に思えるんだよ。


「それで、あんたなんかと違って立派な大人になるの。お母さんが頑張ってくれたおかげだよって、全然平気だったよって言えるように」

「お前……」


 あぁ、そうか。

 こんなにも覚悟を決めているのは、こいつが嘆いたら、その原因が紗妃のせいになっちまうからか。

 紗妃は愛姫を自分と同じようにしたくないと言っていた。苦労をかけたくないと、孤独にさせたくないと。

 そのために必死になっていたことを、愛姫はどこかで気付いていたのかも知れない。

 だからこいつは、これから起きる苦労や孤独を、紗妃のせいにしたくないんだ。

 大したことじゃないって、そう言いたいんだ。

 

「でね、ロリコン。あの、良かったらなんだけど、たまに、暇なときでいいから……、その……」

「お前はすげぇな」

「え?」

「どっかで自惚れてたのかも知れねえ。勝てる気がしないわ」

「な、なんのこと?」


 俺は、こいつと同じぐらい紗妃のことを好きだと思っていた。

 けれど、先ほどの言葉を聞いて完敗だと認めざるを得なかった。

 こんな小さいガキが、母親を理由にされないよう立派な人間になろうとしてるんだ。

 

「本当に紗妃のこと好きだったんだなと思って」

「な、なによ。悪い?」

「いや。さっきから言ってるだろ、すげーって」

「……そう」

「俺も好きだったよ」

「え?」

「お前ほどじゃないのかも知れないけど、紗妃のことが好きだった」

「……そっか」


 一応伝えとかなきゃならない。

 さっき一緒に泣きじゃくって伝わってるとは思うが、別に半端な気持ちじゃなかったってことを。

 愛姫のこととは関係なく、俺が紗妃を紗妃として好きだったってことを。


「そ、それでロリコン、さっきの続きなんだけど、施設ってところに入るの手伝ってくれない? どうすればいいか分からないし、その、手伝ってくれれば、あんたも私の場所が分かるし」

「施設ね……」

「そしたら、あんたがたまに会いに来れたりも、その、出来るかなって」

「……」


 そうだな。

 以前ならきっと、何度だって会いに行ってた。


「なぁ、愛姫」

「な、なに?」

「負けちまった俺が言うのはルール違反だとは思うんだけどさ、一生に一度で構わないから、俺の頼みを聞いてくれないか?」

「……どんな?」


 俺の緊張した様子を察してか、先ほどまでの落ち着きのない雰囲気が鳴りを潜め、真剣な表情になって見つめ返してくる。

 俺は誠意を伝えるように、ベンチから腰を上げて愛姫の前に立った。


 こいつはいつになく素直に、いつも通り不器用に、この先も俺と会うことを望んでくれた。

 もしかしたら、それがこいつの望む距離感なのかも知れない。

 たまに様子を見に行って、馬鹿みたいな勝負をして、施設の人に怒られて、ずっとずっと今までのような関係が続けばいいと、そう望んでくれているのかも知れない。

 けれど、俺と愛姫はもう以前の関係性には絶対戻れない。


 だから怖いんだ。

 こいつの望む形じゃなかったとしたらって。


「俺と、一緒に暮らしてくれ」

「……え?」

「たまになんかじゃなくて、この先ずっと、俺と一緒に暮らしてほしい」


 こいつからしたら、いきなり無茶苦茶言われてるのは分かってる。

 けどこれは、ずっと前から決まっていたことなんだ。


「お前はいきなりで意味が分からないかも知れないけど、俺は気付いたら紗妃のことが好きだった。いつの間にか不器用に頑張り続けるあいつを、俺が幸せにしてやりたいって思ってた。だから、結婚してくれって言ったんだ」


 紗妃にプロポーズしたのが昨年末のこと。

 数日後には籍を入れて、俺の苗字は随分前から『生麻』に変わっている。

 愛姫の名前を変えずに済むように、紗妃の姓を名乗ることにしていた。


「あいつは、こんなどうしようもない俺の言葉を受け取ってくれた。この先ずっとずっと守ってやりたいってそう思った。紗妃のことも、お前のことも」

「……」


 本当はもっと早く伝えるべきだったのかも知れない。

 けれど、紗妃と過ごせる貴重な時間に、余計なことを考えさせたくなかった。

 紗妃が死んだ後の話しなんて、したくなかった。


「本当は、もっと時間が経って、お前との勝負の約束を十分に果たせたって思えたら、そのとき初めて言うつもりだったんだ。勝負の対価として、紗妃の前でお前に認めてもらうつもりだった。……けど、さっき言った通り、結果は情けねぇことに惨敗だ」


 紗妃が俺に話すタイミングを託したのは、きっとこれから先、自分よりも長い時間を共に過ごす俺に任せようと思ってくれたからだ。

 時間に余裕がない俺へ、自分で話せるタイミングを任せてくれたんだ。


 けれど、肝心の愛姫がどう思うかは分からない。

 だって、さっきから言葉を続ける俺に、眉根を寄せて見詰めてくるから。


「だから、俺にはこんなこと言う資格なんかないのかも知れない」

「……」

「けどお前には、紗妃と同じよう一人で生きていくんじゃなくて、この先俺と暮らしてほしいんだ」


 本当はこの確認作業に意味なんてない。

 だって、法律上俺とこいつはもう親子だ。

 一緒に暮らす必要があるし、義務だってある。


 けど違うんだよ。

 こいつに認めてもらえなきゃ、意味がないんだ。

 そのためだったら、地面に頭をこすりつけたっていい。


「お前は嫌かも知れないけど」

「嫌じゃない」

「え?」

「嫌なんかじゃないよ、……バカ」


 そう言いながら、不満げな様子で睨んでくる。

 その様子から本心ではないんじゃないかって、俺に気を使って言ってるだけなんじゃないかって緊張感で足が竦む。

 けど、何に不満を抱いているのか、次の言葉で分かった。


「ロリコンは負けてなんかない」


 愛姫が腰を上げて、先ほどよりも少し遠慮がちに、俺のシャツを掴んでくる。


「あんたは、ちゃんとやってくれてた。お母さんのために、……私たちのために、一生懸命やってくれてたの、私は知ってるよ。ずっと、見てたよ。だから絶対、あんたはあの勝負に負けてなんかない」


 シャツを掴んだ手に力が入っているのが分かった。

 俯きながら愛姫が言葉を続ける。


「だから、そんな顔、しないでよ。ロリコンは、情けなくなんかないよ。何も出来なかったわけなんかないよ……。ずっとずっと、頑張ってたよ……」

「……」

「だから、嫌なんかじゃない。嫌なはず、ないじゃん、バカ」

「……そっか」


 その言葉に、どれほど救われただろう。

 それはいつだったか、この公園で俺のために怒ってくれたときのような、熱のこもった否定だった。


 こいつは、自分を不甲斐なく思うなって、もっと胸を張れって言ってくれてるんだ。

 たった十歳のガキが、知ってる言葉だって少ないのに、懸命考えてそう伝えてくれたんだ。

 俺は愛姫の頭に手を置いて、柔く撫でた。


 俯いたままだけど、愛姫がどんな顔をしているか分かったから。

 雨は止んだのに、地面にポツポツと雫が落ちていたから。


「愛姫」

「なによ」

「お前、泣きすぎ」

「うるさい!」


 愛姫がいつも通りに怒鳴る。

 けれど、頭に置いたその手は、初めて払われることがなかった。

 その小さい頭を撫でながら、先ほど言えなかった言葉を告げる。


「お前も頑張ったな」

「……」

「ありがとう、愛姫」


 愛姫が無言で、先ほどと同じように鼻をすするだけで答えた。

 今まで感じたことがない感情が胸に込み上げる。


 この素直じゃなくて、不器用で、最高に可愛いクソガキを、このさき幸せにしてやりたいと心から思った。

 そう紗妃のあの微笑みに誓った。

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