第25話
「あんた馬鹿なんじゃないの?」
群馬県は木造一戸建て、逸馬の生家。
机に頬杖を突きながら睨み付ける気の強そうな女性。
34歳、専業主婦。逸馬の実姉である。
二児の母のわりに非常に若々しく、ハリのある肌に明るい髪色。
若いころは地元でも有名な元ヤンである。
「この子の馬鹿は今に始まったことじゃないだろう」
そんな
60歳、着物屋店主。逸馬の実母である。
歳を感じさせないピンと背の張った佇まいに、しっかりと着付けられた藍色の和服。
まだまだ現役を自称する、商店街に名の通った女傑である。
「でも母さん、相談もなく結婚しただけじゃなくて、子供がいて、しかも長男のくせに松井性まで変えてるってどこから突っ込んでいいか分かんないわよ」
「いや、姉貴が旦那さん迎えてここに住んでるし、別に大丈夫かなって」
「そういう問題じゃないでしょこのバカ」
周が逸馬の能天気な調子にデコピンをお見舞いする。
そこそこ威力があったらしく、逸馬が不貞腐れた様子でおでこをさすった。
八月も半ば、逸馬はお盆休みを利用して実家へと帰ってきていた。
色々手続きや愛姫との暮らしも整い、さすがに親に報告しておかないとまずいと思ったためである。
「久しぶりに帰ってきたと思ったらこの愚弟は本当に」
「愚弟とか実際に言うやつ初めて見たわ」
「本当に不安しかないわー。一人暮らしですら覚束ないってのに、小学生の子供育てるなんて」
「いや確かに、完璧にってのは難しいかも知れねぇけどさ」
「しかもあんた飽き性だし」
「それとこれとは別だろ」
「そんなこと言ってあんた、結局野球も中学までだったし、高校の軽音部なんか一瞬だったじゃない」
「いつの話ししてんだ、ガキの頃だろそれ。こっちはもう三十路過ぎなんだよ。いつまでも子供扱いすんなって」
「あら、そういえばあんた先月で31だったわね。おめでとう」
「ありがとう、って違えよばか。そんなもんどうでもいいだろ」
「あんたから年齢アピールしてきたんでしょうが」
久しぶりの帰郷もあり、逸馬と周が途切れることなく会話を続ける。
もっとも、逸馬が現在置かれた環境を考えれば、積もる話どころの騒ぎではないので当然と言えた。
「とにかく、今後どうするかが問題よ」
「は? どうするもこうするも、さっきも言っただろ。愛姫と二人で暮らしてくよ」
「あんたね、子育て舐めてるでしょ」
「舐めてねえよ」
「動物飼うのとは訳が違うのよ? 一か月、二か月ならまだしも、それがずっと続くの。しかももう少し歳が上ならともかく、小学生ってまだまだ大人が側にいてあげなきゃいけない年頃じゃない」
「……」
逸馬が否定せずに出された麦茶を飲み干す。
それは、いつだったか自分が紗妃に投げかけた言葉だった。
いざ自分にその言葉が返ってきて、あの時の自分は他人事だったのだなと痛感する。
「仕事だって忙しいんでしょ? 時間が必要なのは家事とか生活のことだけじゃないのよ?」
「最近はそこまで忙しくないって」
「そんなこと言って、あんた父さんの死に目にも会えなかったじゃない」
「それは、……悪かったよ」
「別に責めてるんじゃないわよ。あんたが一番悔しかっただろうし。でもね逸馬、仕事と子育ての両立ってのは言い訳が効かないの。特に、あの子にはあんたしかいないんだからね」
「分かってるよ。それにさっきも言った通り、昔ほど時間が取れないわけじゃない」
「そのわりにはあんた平気で音信不通になるじゃない。去年いきなり涼のエプロンのお古送れとか連絡寄こしてきたと思ったら、また連絡寄こさなくなって、久しぶりに帰ってきたと思ったらこれでしょ?」
「あぁ、そういや涼も今年で中二か。でかくなったろ?」
「そうね。私に似て美人になってきた、って違うわよこのバカ」
「姉貴から涼のこと出してきたんだろ」
姉弟の声が居間にかしましく響く。
環はそんな二人を余所に、依然として夏らしからぬ熱い茶を啜るだけだった。
「とにかく! 逸馬、あんた実家に戻って来なさい!」
「は? なんでだよ?」
「さっきも言ったでしょ。あんたがいきなり一人で子育てなんて無謀なのよ」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ」
「それで? やってみて駄目だったらどうするの?」
「……」
「あんたが苦労する分には構わない。けど、あんたが良くてもあの子にとってそれが正しい選択とは限らないでしょ?」
「……」
「仕事なら旦那の勤め先の伝手で紹介してあげるから。別に実家じゃなくても、この近くで部屋借りればいいじゃない」
「悪い、やっぱそれは出来ねぇわ」
「なんでよ?」
「あいつのこと転校させちまったし、せめて遊べる距離に友達を置いといてやりたい」
「気持ちは分かるけど、まだ小学生でしょ? これから幾らでも新しい世界に入っていかなきゃならないし、今までのものに固執しすぎるのも良くないわよ」
「言ってることは分かるけど、……なにより、やっぱり愛姫は俺が一人で育てたい」
「だから、なんでよ?」
周が今まで以上に語気を強め、僅かに混じっていた冗談めかした空気を取り払う。
「あんたの意地? エゴ? それがあの子のためになると思ってんの?」
「それは、分からねえ」
「そんな一か八かみたいなことさせられるわけないでしょ! あんた子供一人育てるのがどれだけ大変か分かってるの!?」
「分かんねぇよ!!」
周の声に負けじと、逸馬も声を張る。
けれど、それは威圧を目的としたものではなく、切なさの混じったものだった。
「俺には、たった一人で子供を育てるのがどれだけ大変だったかなんて分からねえ。……だから、分かりたいんだよ」
その初めて見る弟の表情に周が戸惑い、返しかけた言葉を呑み込む。
逸馬にとって、愛姫を一人で育てることは紗妃への誠意だった。
同じ苦労を味わい、理解がしたかった。
そのうえで愛姫を大切に思い続けるのだと、紗妃にプロポーズしたときに自分の中で誓っていた。
だから、逸馬は決して譲れない。
そこで、今まで静観していた環が口を開いた。
「逸馬、愛姫ちゃんはそれでいいと言ってるんだね?」
「……あぁ」
「仕事は上手くいってるのかい?」
「ぼちぼちかな」
「そうか」
環が目を伏せ、再度茶を啜る。
一息置いて湯呑を机に置くと、逸馬に発破をかけた。
「やれるだけやってみな」
「か、母さん!?」
「あんたも本当は何言っても無駄だって分かってるだろ」
「それは……」
「この子は馬鹿でいい加減で飽き性で、面倒臭がりで怠け者で不器用だけど、」
「言い過ぎだろおい」
「変なところで頑固で、普段無責任な分、一度はっきりと口にしたことは曲げないよ。だから、好きにさせてやんな」
「お袋……」
「いいんだよ、礼は」
「いや、自分の息子ボロクソ言いすぎだろ。もっと信用しろよ」
「そういうところだよ、逸馬」
環が厳格な雰囲気を崩して、頬杖を突きながら呆れを投げる。
それと同時に、部屋を包む緊迫した空気が緩んだ気がした。
「周も、私の代わりに全部言ってくれたんだろ? ありがとうね」
「私は別にそんなつもりは……」
「それで、あの子の母親の墓はどうしたんだい?」
「買った」
「都内にかい? 高かっただろ」
「あぁ、びびったわ」
「今度行くから場所教えときな」
「ん」
二人がそのまま近況の報告や雑談などを始めてしまったため、周は釈然としないながら部屋を出た。
別に周は逸馬のことを否定したいわけではない。
ただ、弟が心配なのだ。
背負い込みすぎるあまり、しなくていい苦労までするんじゃないかと。
台所に移動して、子供の頃を思い出しながら周が夕飯の支度を始める。
先ほどの逸馬の覚悟を呑み込むために追想する。
昔から馬鹿で不器用で危なっかしい弟に、突然子供が出来た。
応援したい、力になりたいという気持ちと共に、苦労をするだろうなという心配が滲む。
けれど、逸馬も三十を越えた立派な大人である。
いつまでも姉が世話を焼き続けることなんて出来るはずがない。
つまりそれは、寂しさでもあった。
「あの……」
そんな物思いに耽る周の背中へかけられる幼い声。
生麻愛姫。10歳、小学五年生。
周にとっては姪にあたる少女である。
「何か手伝うことありますか?」
少し遠慮がちに、けれど礼儀正しく愛姫が尋ねる。
「……はぁ。あの馬鹿と違って真面目ねぇ」
「え?」
「別にそんなに気を使わなくていいのよ。もうすぐ私の娘の涼が帰ってくると思うから、そしたらゲームでもやって待ってなさい」
「そうですか……」
しかし、そう言われても愛姫は台所から出て行きはしなかった。
何か物言いたげにその場で立ち尽くす。
その様子に気付いた周が、手を拭いて愛姫の前へとしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
「その、ロリコ……、逸馬は悪くないです」
「ん?」
「だから逸馬を怒らないでください。お母さんと私のために頑張ってくれてたんです」
「あーなるほど、聞いちゃってたか。悪い子だー」
周が屈託なく笑いながら、愛姫の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「ロ……、逸馬は、確かに大人なのにバカだしいい加減だけど、でもちゃんとやってくれてます。お母さんが入院してたときだって、毎日私の様子を見に来てくれました。今だって、早く帰ってきたときは下手くそだけど夜ご飯とか作ってくれます」
「アハハ、あいつが料理? 本当に?」
「はい。それに、お金だっていっぱい使っちゃったのに、私のために引っ越しもしようとしてくれました。それに、服だってまた新しいの買ってくれて、あと洗濯とかもしっかりやってて、それに、それに」
「分かった分かった。大丈夫だから落ち着いて」
周が微笑ましい様子で声を和らげる。
それは、母親が子供に向けるものと似た表情だった。
「別にさっきのも本気で言ってたわけじゃないからさ」
「そうなんですか?」
「私もちゃんと分かってるのよ。あいつが本気なことぐらい。ただ、なんて言うかね、姉としてそれが寂しくて心配でもあるから、つい確認し過ぎちゃうの」
愛姫にはまだその複雑な心境は分からない。
けれど、目の前の女性が逸馬のことを大切に思っているということだけは何となく分かった。
「じゃあ、逸馬と一緒に暮らしていいんですか?」
ひたむきな目で愛姫が尋ねる。
先ほどの周たちの会話で愛姫が聞き取れたのは断片的なものばかりで、もしかしたら引き離されるのではと勘違いしたのだ。
「もちろんよ。というか途中で投げ出したら私がぶっ飛ばすわ」
その周のおどけた調子の返答に、愛姫が心底安堵したよう顔を綻ばせる。
それを見た周も、むず痒いような気持になって口元が緩んだ。
「ねぇ愛姫ちゃん、あいつのこと好き?」
不意に問われて愛姫が目を丸くする。
しかし、逸馬のいる居間の方を二、三度見て出てこないことを確認すると、その小さな顎を引いた。
それを見て周がスクッと立ち上がり、両手に腰を当てる。
「よし、じゃああんたは私の姪だ」
「は、はい!」
「言っとくけど、私は身内には厳しいからね」
「はい!」
「あと、その敬語やめな。もう家族なんだからね、遠慮はなしだ」
「わ、分かった!」
周がニシシッと笑うと、もう一度頭をワシャワシャと撫でくり回した。
そんな周に、愛姫が姪として初めてのお願いをする。
「あの、周さん」
「んー?」
「料理、やっぱり手伝いたい。私も作れるようになりたいから」
「はぁ……、本当に真面目ねぇ。あの馬鹿にはもったいないわ」
「だ、だって逸馬の料理ヘタなんだもん」
褒められた愛姫が照れ隠しで悪態を付く。
それは親しい人間にしか見せない特有ものものだった。
「そっかそっか。じゃあせっかくだから、あいつの好物から教えてあげるわ」
「好物?」
二人が打ち解けた様子で一緒に料理を作る。
その夜出された夕飯のオムライスは、逸馬のものだけ形が歪で卵の殻が入っていた。
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