第23話

 紗妃が亡くなった後、俺は手続きを終えて廊下の椅子に座り込んでいた。

 医師が今後の流れについて説明していたが、まるで頭に入ってこなかった。

 ただただ胸に穴が空いたみたいな喪失感に、呆然と、茫然と……。


 どれぐらいそうしていたかは分からない。

 医師や看護師は気を使ってか、声をかけてくることはなかった。

 慣れているのかも知れない。

 当たり前だけれど、俺以外に大切な人を亡くしてしまった人たちは幾らでもいるんだから。

 ただ、忙しなく廊下を通りかかる看護師たちを見て、こんな状況なのに、世界は動いているんだなとおかしなことを思った。

 まるで世界の全部が他人事になっちまったみたいな感覚だった。

 たった一人のことだけを除いて。


 首を横に傾けると、隣に座っていたはずの愛姫が姿を消していた。

 いついなくなったのかは分からない。

 ただ、別にそれで焦ったり驚くようなことはしなかった。


 俺は大きく息を吸って目を瞑り、腰を上げた。

 そのままゆっくりと廊下を歩いて院内を出る。


 分かるよ、愛姫。

 ここにはもういたくないんだよな。

 何だか分からねぇけど、このままじゃ溺れちまうような気がするんだ。


 外に出ると空は薄暗い曇天で、僅かに雨が降っていた。

 濡れた路面を走る車の音。

 すれ違う人の足音や喋り声。

 チカチカと青く点滅する信号。

 全てが遠く感じた。

 まるで深くて暗い水の底にいるみてぇだ。


 いつもなら数分で着くはずの距離なのに、倍の時間がかかった。

 顔を上げて、初めてここであいつと話した時のことを思い出す。

 見慣れた公園であのときと同じように、ブランコを漕ぎもせず愛姫が俯いて座っていた。


 そのまま歩を進め、静かに愛姫の前に立つ。

 けれど、こいつに何をしてやればいいか分からなかった。


 出来ることと言えば、こいつが俺に頼れるよう涙を見せないことぐらいだった。

 支えてやれるように、踏ん張って自分の足で立つことだけだった。


「……ねぇ、ロリコン」


 そう言ってブランコから降りた愛姫が見上げてくる。

 その顔を見て俺は言葉を失った。


「私、お母さんの前で今までちゃんと笑えてたかな?」


 愛姫が笑顔を作ってそう言った。

 まるで、上手く出来ていたでしょうとでも言うように。


「お母さん、安心できたかな? ちゃんと、私は一人でも平気だって、お母さんがいなくなっても、大丈夫だって……」


 言葉が震えそうになるたびに、唇を結び直して言葉を続ける。


「あんたが言った通り、悲しませたり、心配かけないでいられたかな? 私は、約束を守れてたかな? でも、きっと大丈夫だよね。私はこうやって笑えてたもん」

「——っ」


 それを聞いた瞬間、胸が潰れそうになった。

 酷なことをさせた。

 こんな小せえガキに、どうしようもないぐらいしんどいことをさせちまった。


「だから、私は、大丈夫だよ。お母さんの子供なんだから。一人でもお母さんみたいに、ちゃんとやっていって、お母さんみたいに、優しくて、温かくて……」


 何度も何度もその小さな唇を結び直す。

 零れないように必死で目に涙を溜め、震える声を押し殺す。

 まるで、俺との約束を果たしたと証明するように。

 死んだ後も、紗妃に心配をかけまいとするように。


 ……あぁ、そうか。

 馬鹿か俺は。

 何を大人だからとか、愛姫に比べたらとか、頼れるようにとか格好付けようとしていたんだ。


 俺が平気なふりをしていたら、こんなにも哀しいのは自分だけなんだって思わせちまったら、こいつはいつまで経っても強がることをやめられないじゃねぇか。

 本当の意味で、一人にしちまうじゃねぇか。


 俺が今こいつに出来ることは、逆だろ。

 自分だけじゃないって、一人じゃないって分からせてやることだろ。


「愛姫」

「……なに?」


 雨ではない温かいものが頬を伝う。

 うっすらと流れ続けるそれは、紗妃が亡くなったときでさえ堪え続けていたものだった。

 愛姫のために、ずっとずっと我慢していたものだった。


「悪い、俺はお前らに一年すら時間を作ってやれなかった」


 瞬きをするたび、涙がいくつもいくつも頬を伝う。

 情けねぇぐらいに枯れた声が出てくる。


「あんだけ啖呵切って、お前はこんなに、こんなにも頑張ってたのに……。ごめん、もっと時間を作ってやりたかった。もっと、お前と紗妃と三人で一緒にいたかった」


 俺は一言一言吐露すると、ボロボロ泣いた。

 だって、本当だ。

 もっと、一緒にいたかった。

 あの、どうしようもなく不器用で、本当は子供っぽくて、それでも気丈に自分の子供を愛し続けていた、あいつが好きだったんだ。

 側に、ずっといてほしかったんだ。


 悔しくて、哀しくて、あいつが好きで、どうしようもなかった。

 

「ごめん愛姫、ごめん……」

「な、なんであんたが謝んのよ」


 愛姫が俺の様子を見て戸惑ったような表情を見せる。

 けど、滲んだ視界に、その顔がくしゃりと歪んだのが分かった。


「……ねぇ、ロリコン」

「あぁ」


 絞り出すような声で呟くと、愛姫が顔を伏せるように俺の胸に額を当てた。

 そのままシャツを掴んでその肩を震わせる。


「お母さん、死んじゃった……、いなくなっちゃった……っ」

「あぁ……」

「大好きだったのに、あんなに優しかったのに……!!」

「……」

「お母さん、お母さん……っ!!」


 俺の胸にしがみついて、愛姫が大声で泣いた。

 その叫ぶような声を聞いて、口が、喉がわなないて、俺も余計涙が出た。

 目の前で泣き続ける愛姫が、可哀想で、守ってやりたくて、どうにかしたくて、でもどうにもならなくて余計泣けた。


「……愛姫」


 泣きながら、鼻をすすることで愛姫が返事をする。


「紗妃は、幸せだったよ」

「幸せ?」

「確かに病気は辛かったかも知れない。今までだって苦労してきたかも知れない。けど、あいつにはお前みたいな最高のガキがそばにいたんだ」

「私は……」


 涙でグシャグシャになった愛姫が顔を上げる。

 俺もまた、グシャグシャになりながら言い聞かせるように言葉を続けた。


「お前がいたから、お前のことが大好きだったから、その時間が嬉しくて、どんなに辛くてもいつだって頑張れたんだ」

「でも、死んじゃったんだよ……」

「……」


 強く目を瞑って、嘆くように俺のシャツを握り締める。


「頑張ってくれなくたっていいよ……。ただ、もっと、お母さんと一緒にいたかった。もっともっと、してあげたいことだって、たくさんあった。ありがとうって、大好きだよって、もっと、言いたかった……、言いたかったよぉ……」


 そうだ。紗妃が死んじまったことは変わらない。

 こんなとき俺は、大人っぽくそれらしい理屈で慰めてなんてやれない。

 だから愛姫と同じように、言葉に詰まりながら、時折しゃくり上げながら、俺も素直に嘆いた。


「お前の言う通りだよ。俺も、もっとあいつを、お前と一緒に色んなところに連れて行ってやりたかった。あいつが喜ぶたびに、もっと、もっと幸せにしてやりたいって、心から思った。笑った顔が見たいって、何度も思った」


 一つ口にするたび、言葉にするたび、喉を熱い何かが締め付けるようだった。

 

「なんで死んじまうんだって……、なんでよりによってお前なんだって……。俺だったら良かったのにって」

「ロリコン……」

「けど、それでもさ……」


 愛姫の両肩に手をかける。

 きっと、お互い酷い顔だ。


「あいつは最後に笑ってくれたろうが」


 俺たちにくれたあの微かな笑顔が、目に焼き付いてる。

 きっと、一生忘れない。

 

「お前以外だったら、きっとあいつはあんな風に笑えなかった。紗妃は確かに死んじまったけど、あいつの人生は確かに幸せだったんだと思う。どれだけ苦しくたって、無理してたって、誰かのために最期に笑える人生ってのは、絶対そういうもんだ」


 自分で口にしながら、きっとそうであってほしいと涙が溢れる。

 上手く言葉になってるか自信がないほど、喉が震える。


「辛いよな、哀しいよな。……でもいいじゃねぇか。それだけ、俺たちはあいつのことが好きだったんだよ。失って胸がぶっ潰れそうになるぐらい、本当に好きだったんだ」


 そんなあいつが、最後に笑ったんだ。

 お前だって、分かってるだろ。だからあんなに頷いてたんだろ。

 ——大丈夫だよって、伝わってるよって。


「だからさ……、俺が、いくらでも、一緒に泣いてやるから……」

「なに、それ……。本当に、なによ、それ……」


 愛姫が困惑しながらボロボロと涙を流す。

 でも、きっと分かってる。伝わってる。


「俺が、どこまでだって一緒に泣いてやるから……。大好きだったって……、それだけお前の母親は、あいつは愛されていた人間なんだって、思いっきり泣いてやろうぜ……」


 そう言って俺は、無理矢理に笑って見せた。

 多分それは、笑顔なんて言えないぐらいにひどいものだったろう。


 けど、それを見て愛姫が馬鹿みたいに泣き始めたから俺も揃って泣いた。

 もう言葉なんて話せないぐらいに、大声で泣き続けた。


 多分、痛みを分け合うっていうのは、こういうものなのかも知れない。

 悲しみが半分になるなんて、そんなことあるはずがないんだ。

 いっそ一人でいるより、より相乗するように、響き合うように、悲しみは膨れて溢れ出す。


 けど、孤独ではないんだ。

 同じように泣いている存在が、同じだけの悲しみを同じように感じている人間が側にいる。

 それだけで、救われるんだ。

 分かってくれることが、分かってやれることが、暗く染まりそうな心を、温めてくれるんだ。


 止むことのない雨に、止まることない涙が流される。

 俺たちのその声は、降りしきる雨の音に溶けていくようだった。

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