第22話 その瞳に浮かぶ色

 気付けば冬の寒さの名残も消え、木々には若葉が彩られるようになった。


 あれから何度か外出の許可ももらえて、色んなところへ行った。

 愛姫とした約束通り、遊園地にも行ったし、水族館にも連れて行った。

 五月の頭にはガキ共を集めて、山は無理だったが河辺の公園でBBQなんかもした。


 愛姫はともかくとして、紗妃にもその殆どが初めての経験だった。

 養護施設で身寄りもなく育ち、若くして子供を産み、ずっと仕事と子育てに追われていたから、確かにそんな暇はなかったのかも知れない。


 俺には想像も付かなかったけれど、旅行に行ったこともない子供もいるんだ。

 そして紗妃はそのまま誰にも頼ることが出来ない、甘えることが出来ない、親という存在になってしまった。

 まだまだ子供っぽいくせに。

 本当は弱くて、誰かに優しくされたかったくせに。


 だから、俺は今までの時間を取り戻させるよう、色んな場所に連れて行った。

 色んな景色を見せてやりたかった。


 どれもがあいつにとっては新鮮らしくて、どこに行っても紗妃は幸せそうに笑っていた。


 そのどれもが初めてで、——けれど、そのどれもが最後だった。


 俺たちに、二度目はなかった。

 なかったんだよ。



 ※ ※ ※



 最期の時は、緩やかに、けれど確実に俺たちに近付いていた。

 容態は安定していた。

 症状の進行も、発症直後に比べれば奇跡的なほど遅かった。


 だけど、緩やかではあれ、日増しに身体の自由が蝕まれる紗妃の姿に、完治はおろか、このまま現状維持さえ続くとは思えなかった。

 誰もが口にしなかったけれど、俺も紗妃も、……愛姫も、それを理解し始めていた。


 それでも俺たちは、その事実には目を背けて、精一杯に今を噛み締めた。

 別に現実逃避をしたかったわけじゃない。

 ただ、勿体なかったんだ。

 そのときが来るまで、俺たちは限られた時間を笑っていたかったんだ。



 ——だから、病院からの着信が入ったとき、正直その表示を見ただけで俺は駄目になってしまいそうだった。

 心臓が大きく鳴り、縋るように、違っていてくれと、他愛のない連絡であってくれと、電話に出るまでの数瞬で祈った。


 深く深く息を吸って、通話ボタンを押したことを覚えている。

 嫌な予感は、看護師の神妙な声色で、内容を聞く前に確信に変わってしまった。



 仕事を抜け、愛姫を連れて病院に駆け付けたとき、紗妃の意識はなかった。

 担当医が、ドラマみたいに今日明日が峠だろうと口にする。

 愛姫も、言葉の意味は分からずとも、その雰囲気でどういった状況なのかは理解しているようだった。


 ベッドの脇で二人揃って紗妃の様子を見守る。

 心電図と時計の針の音と、自分の動悸が頭の中に響いてた。

 心臓がまるで耳元にあるかのよう煩かった。

 愛姫はベッドに横たわる紗妃を、身動き一つしないまま、ただまっすぐに見詰め続けていた。

 真剣な表情で、何かを信じているみたいにずっと、ずっと見詰めていた。


 子供の愛姫と大人の俺とでは、こういったとき願うものが違うのかも知れない。

 俺は、紗妃の病気が治るようなことは、もはや一度も祈らなかった。

 せめて、せめて最後にもう一度だけ、言葉をかけさせてくれ、目を合わさせてくれ、愛姫に会わせてやってくれと、そう祈っていた。

 今さら病気が治るような奇跡が起きないことなんて知っている。

 もう俺たちに未来がないのだって分かってる。

 だったらせめて、せめて、別れぐらいちゃんと告げさせてくれよ。

 頼むよ……。


 それから俺と愛姫は、一言も言葉は交わさず、ただただ待ち続けた。

 おそらく人生で最も長く感じた時間だった。


 

 一昼夜経った翌日の昼のことだった。

 もう駄目かも知れない。

 次の瞬間には、心電図が止まるかも知れない。

 何度目だろうか、そんな考えに襲われていたとき、——紗妃が意識を取り戻した。


 俺も愛姫も憔悴し切っていたけれど、薄らと開いたその目を見逃したりはしなかった。

 瞳だけがゆっくり動き、俺と愛姫が思わず立ち上がる。


「お母さん!!」

「紗妃、分かるか!? 見えてるか!?」


 僅かな間を空けて、紗妃が小さく瞬きをした。

 一回なら肯定、二回なら否定。

 言葉がおぼつかなくなってきた頃、このままもし話すことが出来なくなったらと決めていた合図だった。


「お母さん、苦しくない!? 辛くない!? 大丈夫!?」


 ベッドに手を付いて愛姫が語りかける。

 その言葉を受けて紗妃はもう一度、愛姫に分かるようゆっくり瞬きをした。

 一回は肯定の合図。

 けど、大丈夫なはずなかった。

 苦しくないはずなんてなかった。

 ただ、もう満足に話せもしない紗妃が愛姫にしてやれることは、この小さな小さな強がりだけなんだ。


 奥歯に力を込め、溢れ出しそうなものを堪える。

 真っ直ぐに意思を込めて紗妃を見詰める。

 目が合って、俺は深く頷いた。


 紗妃は、それを見届けるようにした後、静かに目を伏せた。

 紗妃が愛姫にしてやれることが強がりなら、俺が最後に紗妃に出来ることは、少しでも安心させてやることだけだった。

 大丈夫だと、最後にそう伝えてやりたかった。


「お母さん!? お母さん!!」


 紗妃が目を瞑ったことで狼狽えた愛姫が何度も呼びかける。

 ただでさえ弱々しかった心電図の脈拍が、その音が、徐々に小さくなっていく。

 最後の最後で戻ってこれたのは、きっと愛姫への想いの強さからだ。

 だから、きっともう……。

 

 俺は紗妃の手を取り、傍らに置かれた愛姫の小さな手を握らせた。

 そして、そのまま包むように二人の手を握り締める。


「紗妃。あとのことは、全部、全部任せろ」


 だから、もう強がらなくていい。

 もう、安心して眠っていい。


 届いてるかどうかも分からないその言葉が震えた。

 まだ意識があるかは分からない。聞こえていないのかも知れない。

 ただ、このまま眠るように逝っちまうなら、最後にその胸に僅かな安心を持たせてやってほしい。

 だって、これだけ頑張ったんだ。

 最後まで、愛姫のために頑張り続けてきたんだ。


 俺は二人を握った手に額を当てて、伝わってくれと祈った。

 

 どれぐらいそうしていただろう。

 俺は驚いて紗妃の顔を見た。

 まるで応えるかのように、返事をするかのように、ほんの僅かに紗妃の手が握り返してきたからだ。

 何かを握るなんて、もう随分前に出来なくなっていたのに。

 愛姫も俺と同じように驚いた表情で紗妃を見ていた。


 再び目を開いた紗妃は、けれど当然、何も言わなかった。

 ただ無表情に、俺たちを見詰めるだけだ。

 そのまま無情にも時間だけが流れる。

 どれだけ待ち続けても、当然、紗妃の唇が開くことはない。


 ……分からねえよ。


 何が言いたいんだよ。

 なんで、病気なんかで死んじまうんだよ……。

 お前は、もっと幸せになるべきはずの奴だろうが!

 愛姫と一緒に、今までの頑張りが報われて、この先何十年と幸せに生きて行かなきゃダメな人間だろうが!!

 そのためだったら何でもしてやるから頼むよ……。

 愛姫と俺のために死なないでくれよ。

 お前と、お前らと一緒にいるのが好きだったんだ。

 初めて、一生かけて守りたいって思えるものが出来たんだ。

 色んなところに行って、馬鹿みたいなことで笑って、そうやってこの先もずっと、ずっと三人で一緒にいたかったんだ。

 だから、だから——。


 決して口に出せない言葉を、心の中だけで叫び続ける。

 今まで言えなかった願いを、胸の中で喚き立てる。

 だって、最期にそんなこと言えるはずがない。

 こいつに、ごめんねなんて思って、逝ってほしくないんだ。


 二人を握る手に力が入り、口を開かないよう噛み締めた奥歯は、僅かに血の味がした。

 

 俺たちを見詰める紗妃の瞼が、ゆっくりと一回ずつ降りる。

 その瞳が、その仕草が、何かを伝えているような気がした。


 最後にいったい何が伝えたいんだ。

 何を訴えたいんだよ。

 分かってやれないことが苦しくて、返事をしてやれないことが歯痒くて、噛み締めた唇が震える。


 あと、どれだけこうしていられるんだ?

 あと何分? 何秒?

 残された時間のあまりの短さに、焦燥感と切なさが胸を焼くようだった。


「お母さん……」


 愛姫も俺と同じ思いなのか、掠れ切った声で一言だけ絞り出した。

 先ほどよりもさらに小さく紗妃が手を握り返す。

 それはもはや、指先を微かに動かす程度のものだったけど、どれだけ紗妃が振り絞ってそうしてくれているかは分かった。

 だって、心音は、今にも途切れてしまいそうなほど弱々しかったから。

 それなのに、手を握り返してまで伝えたいことってなんなんだよ。


 苦しいのか? 不安なのか? 寂しいのか? 怖いのか?

 俺は何をしてやれる?

 どうやってそれを汲み取ってやったらいい?

 どう応えたらいい?

 分かるはずなんてないのは分かってる。

 それでも最後まで諦めたくなかった。

 

 ——だけどそのどれもが的外れだと、次の瞬間に分かった。


 紗妃の瞳が穏やかに色づいた気がしたから。


「お前……」


 薄く開かれたその目がさらに細まり、そして本当に、本当に小さく、紗妃が笑った。

 ささやかだけれど、確かに俺たちに分かるよう微笑んで見せたんだ。

 俺は思わず呆気に取られた。


 だってそれはまるで、

 愛してるよって、

 幸せだったよって、

 俺たちに伝えるような柔らかなもので、

 笑ったりなんか出来るはずなくて、

 あまりにその顔が綺麗で……。


 掌の中で、愛姫が力強く紗妃の手を握り締めたのが分かる。

 そしてそのまま、紗妃を見つめて愛姫は何度も頷いた。

 ボロボロと大粒の涙を零しながら、何度も何度も大きく頷いた。


 それを見届けると、紗妃の細めていた瞼が静かに下りた。


 ——そのまま紗妃はもう二度と、目覚めることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る