第21話

「いや、今ぜったい触っただろ!」

「服はノーカンですー! 秋人くんたちと違って小夏たちスカートだもん。というかスカート触るとか秋人くんのえっち」

「は、はぁああああ!?」


 青々と茂る木々、咲き誇るソメイヨシノ、太陽の光を弾く池。

 都内は新宿御苑。

 広大な芝生の広場の上、子供たちの声が賑やかに響く。


「大体さっきからなんで俺ばっか鬼になるんだよ」

「秋人がラインぎりぎりで挑発とかするから悪いんだよ」

「余裕見せてるつもりなんでしょ。本当馬鹿ね」

「え、鬼になりたくてわざとやってたんじゃないの?」


 子供たちがやっているのはひょうたん鬼だった。

 芝生が薄く土くれた範囲の中に秋人を除く四人が収まっている。

 鬼である秋人はその芝生の切れ目より内側には入れず、外からジャンプしたり手を伸ばしたりして中の人間に触れなければならない。

 芝生のない範囲は細長く、助走を付ければ反対側まで飛べるが、内側の小夏たちも当然触れられまいとすばしっこく逃げ回る。


「まだ寒いのにガキ共は元気だなー」


 そんな子供たちを眺めながら、少し離れた場所でレジャーシートに腰を下ろした逸馬が呟く。

 

「お前は寒くないか?」

「大丈夫です。逸馬さんが持ってきてくれたブランケットがあるんで」


 隣に座る紗妃がにっこりとした表情で返す。

 車椅子から下りたその足には厚手のブランケットがかけられていた。

 四月は頭、決算月が終わった逸馬は、休みを取って皆で花見に来ていた。


「それにしてもお前料理上手いのな。意外だったわ」

「病気のことが分かるまでは昼の仕事でちゃんと家で作ってましたから」


 逸馬のサポートの下で紗妃が作った料理をすっかりと平らげた子供たちは、食後の運動とばかりに遊びに興じていた。

 もちろん桜など殆ど見ていない。


「けど良かったんですか? ここだとお酒飲めないでしょう?」

「一人で酒飲んで何が楽しいんだよ。お前の調子が戻ったら来年は違う場所で飲もうぜ」

「……そうですね」


 逸馬の言葉を受けて紗妃が穏やかに笑う。

 その表情は、感謝と親愛が入り混じったものだった。


「まぁ、ガキの前でお前の醜態なんか見せられねぇから一口しか飲ませないけど」

「な、なんでそういうこと言うんですか! 一杯ぐらいなら大丈夫です!」

「カシオレ一杯で酔っぱらう癖にどの口が言ってんだよ! 他のガキ共の前で母親がへべれけになるとかクソガキが不憫だわ!」


 大人組は穏やかに桜を愛でる、というわけにもいかず、子供たちにも負けず劣らず賑やかに言い合いをしていた。

 病気が原因で紗妃から連絡が途絶える前、何度か一緒に飲んでいた逸馬はその下戸っぷりを身に染みて理解していた。


「大体、何度俺がお前のこと担いで家まで送ったと思ってんだよ」

「そ、それは……」

「まぁ役得ではあったけどな」

「……何がです?」


 紗妃がきょとんとしていると、逸馬が分かりやすくおどけてその胸の辺りに視線を送る。

 その意味に気付いた紗妃が、頬を赤らめパッと胸の辺りを押さえた。


「さ、最低です! そんなこと考えてたんですか!?」

「しょーがねぇだろ。お前、意外にデカいんだか」

「言わなくていいです! 逸馬さんのバカ!!」


 からかうように逸馬が笑いながら寝転ぶ。

 まだ顔を赤らめたままの紗妃が、「まったくもう、なんなんですか……。いっつもいっつも……」とブツクサと悪態を付いていた。

 二人は出会ってからまだ一年も経っていないが、そこにはまるで昔から見知ったような、気を許した者同士の空気があった。


「そんなプリプリすんなよ」

「誰のせいですか!」

「ははは、まぁお前も横になってみろって」


 そう言いながら起き上がった逸馬が紗妃の背を支える。

 促されるまま仰向けになった紗妃の隣で、逸馬も再度寝転がった。


「すごくね?」

「空ですか」

「あぁ。多分、この街の中じゃ一番空が広く見える場所だと思うんだわ」

「そう、ですね。遮る物が殆どない空を見たのって、あまりなかったかも知れません」

「だろ? だからお前がプリプリしてたことも、この広い空に比べれば些細なことだって思」

「なに誤魔化した気になってるんですか」


 紗妃が横を向いて、ジトッとした目をしながら逸馬の頬をつねる。

 逸馬は笑いながらも、少し胸が締め付けられた。

 その指にあまり力が入っていなかったのは、思いやりや配慮からではなく、病気の進行が原因だと分かっていたから。


「でも本当に綺麗です」

 

 その逸馬の機微を察したのか、紗妃が空に視線を戻すとそう呟いた。


「視界の端に桜が入ってくるのが風流だよな」

「ふふ、あなたの口から風流なんて言葉出るんですね」

「はぁ? わびさびからコーヒーの違いまで繊細に感じられるのが俺だぞ」

「じゃあわびさびってどういう意味なんですか?」

「……あー、そりゃあれだよ、禿げ散らかしたおっさんの頭見てしんみりするみたいな」

「絶対違うと思います」

 

 二人が寝転びながら他愛ない話で笑い合う。

 逸馬は僅かな切なさを懐きながらも、何よりその時間を大切に感じていた。


「おーい、おっさんもやろうぜ! 寝てっと豚になんぞー」

「それを言うなら牛よ、秋人」


 小一時間ほど経って、秋人から声をかけられた。

 逸馬が上体を起こして、手を払うような素振りで返す。

 そのまま紗妃の手を取って、同じように上半身を起こさせた。


「行かないんですか?」

「あぁ。いいおっさんだからな」

「まだ三十歳のくせに何言ってるんですか」


 無論、逸馬が行かないのは歳のせいなんかではない。

 むしろ逸馬は歳不相応にはしゃぐのは嫌いではなかった。

 そして、紗妃もそれを知っている。


「私のことは気にしないで行ってきていいですよ。こうして眺めてるのも好きなんです」


 それは本心からだった。

 逸馬や愛姫たちが楽しそうに遊んでいるのを眺めるのは、それだけで紗妃の心を暖かくさせる。

 ただ、その輪の中に自分がもう入れないのだと思うと、少し切ないだけで。


「確か、まだ腕はある程度力入ったよな」

「へ? え、えぇ。そうですけど、それがなにか――きゃあ!!」


 紗妃が答えるやいなや、靴を履いた逸馬がまるでリュックでも背負うかのうようにその腕を取っておぶった。

 そしてそのまま立ち上がると、全力で駆け出して行く。


「うぉおおおおおおおおおおお!!」

「ちょ、ちょっと逸馬さん!?」


 突如叫びながら突っ込んでくる逸馬に、遊んでいた秋人たちが戸惑った。


「な、なんだ!?」

「お母さん!?」


 そのまま芝生の切れ目まで辿り着いた逸馬が大きく跳躍する。

 寸前、背中の紗妃に声をかけた。


「紗妃、手ぇ伸ばせ! 誰でもいいから触れ!!」

「へ!? は、はい!」


 逸馬に担がれたまま伸ばした紗妃の手が、春香の髪に触れて靡かせた。

 着地した逸馬が、振り返ってポカンとした子供たちに挑発する。


「仕方ねえから俺らも付き合ってやるよ。まさかおんぶしたおっさん相手にまで、髪や服がノーカンなんて言わないよなぁ? ガキども?」


 そのあまりのドヤ顔と言葉を受けて、春香がムッと顔を歪める。


「松井さんって顔に似合わず運動出来るんですね」

「ハッハッハァー! いつもの毒舌にキレがねえぞ春香! こっちは伊達に野球部のころ他の部員背負って外周とかやってねーんだよ!!」


 まさか一回で誰かに触れられると思わず、逸馬がこれ以上にないほどイキリ散らかす。


「それにしてもナイスだ紗妃。ガキ共に大人の本気を見せてやんぞ」

「お、お母さん、大丈夫なの?」


 少し心配そうにした愛姫が声をかける。

 しかし、返ってきた言葉は予想外のものだった。


「……愛姫、また私たちが鬼になったら次はあなたの番よ」

「えぇ!?」

「馬鹿言うな、もう鬼なんて回ってこねーよ。ガキ共は手足が短いからなぁ」


 逸馬がわざとらしく舐め切った調子で挑発する。

 それを受けて、自分だけ触れられたのが悔しいのか春香が重々しい声色で呟いた。


「秋人、早く中に入りなさい。そこの勘違いした髭面を黙らせるわ」

「お、おう」

「それじゃ始めるわよ」

 

 その迫力に押されて秋人が言われるがまま内側に入る。

 しかし中に入って構えた直後、秋人がバランスを崩して前にたたらを踏んだ。


「な!?」

「悪い、足が滑った」

「て、てめぇ!!」


 逸馬だった。

 背を向けた秋人のケツを蹴り付ける裏切り行為である。

 つんのめった秋人が、芝生へ出ないよう切れ目で両腕を回しながら踏ん張る。

 しかし無情にも、その肩に小さな手が優しく置かれた。


「はい。また秋人が鬼ね」

「は、春香!? お前さっきオッサンのこと黙らせるって……」

「私、変なこだわりは待たず決められる時は決める主義なの」

「あはははは、また秋人くんが鬼だー!」

「春香、またあんたそういうことを……」

「効率的でしょ?」

「ふざけんなよてめぇら!!」


 そこからはもう無茶苦茶だった。

 逸馬の行動で仲間割れが有りになったうえ、途中秋人が二人同時に触ったため鬼が二人に増え、目まぐるしく外と内の人間が入れ替わる。

 入り乱れた内容に凡ミスや珍プレーも続出し、終始辺りには小夏の笑い声が響いていた。


 そして小一時間後。

 そこには力尽きたアラサーの姿があった。


「……く、くっそ、あいつら、こっちは人一人背負ってんだから、てっ……、手加減しろっての」

「でも、私がケガしたり落ちたりしないようには気遣ってくれてましたよ」

「そこ気遣っても、俺の体力とか、お構いなしじゃねえか……。な、何回、鬼やらせんだよ。ちょっとは、休ませろ、よ……」


 体力と足の限界が来て離脱した逸馬が、レジャーシートの上で大の字になり、ゼェハァゼェハァと息を荒げる。

 玉のような汗が滴るその額を、紗妃がおしぼりで拭いていた。


「大丈夫ですか?」

「明日、筋肉痛で、死にそうだわ……」

「そんな無理しなくて良かったのに」


 逸馬の顔を覗き込んだ紗妃が、心配そうな、申し訳なさそうな表情をする。

 突然逸馬が遊びの輪に加わった理由を紗妃は理解している。

 自分がまだ愛姫たちと一緒に遊べるのだと、断る機会を与えもせず、強引に駆け出して示したのだ。


「私は見てるだけでも十分って言ってるじゃないですか。こうなるって分かってたでしょ?」

「はっ、バカかお前は」

「なにがですか」


 自分のために無理をしなくていいと窘めていたのに、意味も分からずバカと言われ、紗妃が子供のようにムッとする。


「役得だって、言ってんだろ。お前のためなんかじゃ、ねーんだよ」


 逸馬が息も絶え絶えのまま、紗妃を指差す。

 その指の先の自分の胸元を見たあと、逸馬の顔に視線を戻した。


「この先も、別にお前が望もうが望まなかろうが、俺が背負ってやるよ。役得だかんな。お前は黙って背負われてろ」

「……ぷっ、あは、あはははははははっ」

 

 そこで紗妃が我慢しきれず噴き出した。

 そのまま顔を上げて盛大に笑い続ける。


「あはははは、あは、はーっ、もう。なに真面目な顔して言ってるんですか、あは、あははははっ」

「笑いすぎだろ」

「だって、だって、こんな素直じゃない人、初めて見ました」


 心底おかしかったらしく、紗妃が笑いを堪えて途切れてはまた笑い出すのを繰り返す。

 逸馬はバツが悪くなったよう、照れ臭くなって顔を背けた。


「けっ、うるせーよ」


 けれど、逸馬を見下ろした紗妃が、その顔を包むようにして自分の方へ向かせる。

 そして、心底嬉しそうに笑いかけながら告げた。


「でも私、あなたのそういうところが大好きです」


 笑いすぎて涙目になった目を細め、幸せそうに紗妃が微笑む。

 仰向けになったままの逸馬の視界には、紗妃の笑顔と青い青い空だけが映っていて、その光景に目を奪われる。

 年甲斐もなく、顔が赤く赤く染まっていくのを自覚した。

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