第18話

 都内は某病院。

 その応接室の一室で、俺は新規の契約をまとめていた。


「この度は弊社の商品を選んで頂き誠にありがとうございます」

「ははは、話を聞かざる得ないほど何度も来られたのは松井さんじゃないですか」

「その節はお忙しいところご迷惑おかけしました」

「いえいえ、結果的に内容はとても良かったので。でも、怒鳴りつけた翌日にも悪びれず待っていたときは流石に笑ってしまいましたよ」


 そんなことをしても、大体は嫌がられる。

 このご時世に見合ったやり方じゃないと思うし、実際どれだけ時間をかけて準備しても徒労に終わることが殆どだ。

 ただ、俺はこのやり方しか知らないし、過去にもこのやり方で成績を叩いてきた。


 新規の営業は、無視され、嫌われ、うんざりされ、そして呆れられてからが本番だ。

 タイプや相性にもよるんだろうが、俺は他の営業より呆れてもらえる・・・・・・・ことが多い。

 そこまで行ければ、あとはギャップと提案内容で勝負だ。



 あの日から俺は、一心不乱に仕事へと没頭していた。

 数年ぶりの集中力と労力に、今まで培った知識や経験を全て上乗せし、使える伝手は全て頼り、新規開拓にも時間を割いた。


 なんでかって、そんなの単純だ。

 金が必要だからだ。


 紗妃の治療費、入院費、身の回りの物、愛姫の生活費。

 担当医と話した結果、紗妃の病気は保険適用外の自由診療じゃなきゃ殆ど打つ手がない。

 紗妃が入院費に困窮していたのも、最も効果が認められる薬が日本で認可されておらず高く付くためだ。


 また、僅かな可能性だろうと、新たな薬や治療法があるならリスクを負わない範囲内で全て試させたかった。

 個室に移せば愛姫ともゆっくり時間を取れるし、面会時間も多少融通が効く。


 あれから、そういった費用の一切に関して俺が負担していた。

 幸いそこそこ貯蓄はあったが、それでも残高は順調に目減りしていった。

 

 だから、今必要なのは綺麗事や形のない思いやりや、お百度参りなんかじゃない。

 金だ。

 金で買えないものはある。

 だが、金で買えるものだって確かにあるんだ。

 あいつの命が買えるなら言い値買ってやる。

 あいつとクソガキの時間が買えるなら、俺の一生分全てつぎ込んでやる。

 あいつらが笑えるなら、俺の人生は借金まみれだって構わない。


 愛姫には大口を叩いたが、俺に出来ることなんてその程度で限られている。

 けれどそれは、限られていても出来ることがあるということだ。


 とにかく俺は仕事に傾倒した。

 常識的時間内では何より顧客と会うことに時間を割き、それ以外の業務や下準備、事務処理は早朝と深夜まで続く残業でこなしていった。


 少しでも時間が空いたり、近隣に用事があれば紗妃の病院へと顔を出し、愛姫の生活には家事代行を依頼した。

 週に何度か愛姫の様子を終電前に見に行っては、そのまま会社に戻るような毎日が続いた。


 自分がまさか、一日の短さにもどかしさを感じる日が来るとは、夢にも思わなかった。

 家に帰り布団に入ると、何もしていない時間が、無駄に消費されていく時間が、歯痒くて不安で、どうしようもないほどの焦燥感が襲ってくる。

 それを振り払うように、俺は仕事と愛姫と紗妃にだけ時間を使い続けた。


 時間はあっという間に過ぎて、気付けば12月も終わりに差し掛かっていた。

 紗妃が発症してから、実に二ヶ月近くの時間が経過していた。


「松井ー、っとすまん、間違えた」

「いえ、大丈夫です。それよりどうかしたんですか?」

「さすがに働きすぎじゃないか? 最後に休み取ったのいつだ?」

「ちゃんと出勤管理上は休み取ってることにしてますよ。それに仕事中にちょいちょい寄り道させてもらってるでしょう」

「そういう問題じゃなくて、ろくに寝てないだろ。一日何時間働く気なんだ。そのうち倒れるぞ」


 いつも通り定時を数時間過ぎてパソコンに向き合っていると、部長が声をかけてきた。

 普段はもっと早い時間に飲みに出ているので、どうやら俺を案じて残ってくれたらしい。


「ちゃんと飯は食ってますよ」

「人間、食だけじゃ持たないもんなんだよ。事情はこの前聞いたが、あまり無理はするな」

「以前言ってたのとは逆ですね」

「頑張るにしたって極端すぎるんだよ君は」

「すみません、ちょっと勝負中なもんで」

「勝負?」 

「えぇ。俺以上に頑張ってる奴がいるから、ここで日和ったらそいつに顔向け出来ないんすよ」

「……何のことかさっぱりだな。他部署含めて、先月今月と君の売上に勝てそうなのはいないだろ」


 俺が張り合ってるのが小学生と知ったら、部長はどんな顔をするだろうか。


 売上は確かに上がった。

 けれどまだ短期的なもので、今月支給された賞与を考えても心許ない。

 もし紗妃が当初の診断通りあと僅かで亡くなるのなら十分だろう。

 けれど、俺は愛姫に時間を作ると約束したし、まだまだくたばらせるつもりもない。


「新規で増えた取引先もありますが、逆に離れた顧客もいます。正直まだまだですよ」

「まぁ、今までの君のスタイルだからこそ取れてた客もいるだろうからな」

「なかなか思い通りに行かないもんですね」

「そうだな……。なぁ、君さえ良ければ私の顧客を回ってみるか?」

「本気で言ってるんですか?」


 その何気ない一言は、背景を知る者にとっては衝撃的な提案だった。

 部長は営業からの叩き上げだ。

 一線を退いたとはいえ、未だに部長ありきで取引のあるルートというのは複数ある。

 その担当を俺に付け替えるというのは、殊更意味が大きい。

 売上的にも、社内的にも。


「言っときますけど俺、別に出世とか狙ってませんよ」

「分かってる。ただ、前の君でなければ契約を取れない顧客もいれば、今の君だからこそ気に入ってもらえる顧客もいるってことだ」

「それにしてはネタが大きすぎると思うんですが。それに、部長のルートを一人で独占して引き継ぐなんてやっかみも入るでしょ」

「そんなもん突っぱねろよ。もう若手の頃とは違うだろ?」


 そう不敵に微笑んでみせる。

 そういえば若い頃どん底にあった俺の状況を変えてくれたのは、当時部内のエースのこの人だった。


「……本当にいいんですか? 部長があの頃、裏で俺のフォローしてくれてたのは知ってます。けど、俺はその期待に応えられず、ダラダラとここまでやってきました。正直、そう言ってもらえる資格があるとは思えません」


 当時あの女の子に励まされて腐り切らずに済んだけど、退職せずに社内で持ち直すことまで出来たのはこの人が何かと手を回してくれたからだ。

 けど俺は、腐りきらずとも、程々に発酵はしていた。


「昔は誰よりも君のことを高く評価していたんだ。ライバルになるとすら思っていた。そんな人間が数年を隔て本気を出しているんだ。これ以上ない機会だろ?」

「買いかぶり過ぎですよ」

「言っておくが、二度は言わないぞ」

「……では、ありがたく頂戴します」


 勢いや同情で言うような人じゃないし、おそらくは本心だろう。

 あとは単純に言えば消去法か。

 さっき部長は、今の俺だからこそ取れる契約もあると言っていた。

 つまりは、そこそこ癖が強くて、他の営業じゃ切られてしまう可能性がある客が多いということだ。

 

 以前の俺であれば、面倒だと即座に断っていただろう。

 けど今の俺からすれば望むところだ。


「……でもいいんすか? 部長が持ってる社内記録抜いちゃいますよ?」

「是非とも抜いてくれ。今の私の立場じゃむしろ助かる」

「ハハッ、落ち着いたら一杯おごりますよ」

「高い酒と店を期待してるよ」


 互いに軽口を叩き合うと部長は、「今後はもう休めとは言わん。死ぬまで働け」と言い残して帰っていった。

 俺はそれに深く頭を下げて見送ってから、デスクへと向き直った。

 年明けからは、部長の引き継ぎの仕事も入ってくる。

 机に飾った海での写真を眺めると、否応なしに気合が入った。

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