第17話
愛姫が廊下や階段を駆ける。
看護婦や患者の驚くような顔、白い病室や廊下が景色として流れていく。
途中で俺たちに注意を投げるような声も聞こえたが、気にしてる場合じゃなかった。
見失わないよう、必死だった。
病院の敷地を出て、アスファルトの上を走り、そして俺は走るのをやめた。
離れた距離で、愛姫がどこに向かっていたか分かったからだ。
着いた先は、さっきまでいたいつもの公園だった。
敷地に入ると、愛姫が公園の真ん中で背を向けるよう立ち尽くしていた。
俯いて、先ほど病室で見たときのように微動だにしない。
息を整えながら俺は愛姫の下まで歩みを進める。
近付いて分かったことは、微動だにしてないわけじゃなかった。
その小さな肩が、僅かに震えていた。
「ねぇ、ロリコン」
背後に感じる俺の荒い息遣いに気付いたのか、こちらを向きもせず呟く。
俺はそのまま次の言葉を待った。
「……お母さん、死んじゃうの?」
すぐに、答えることは出来なかった。
走ってきたこととは無関係に、僅かな言葉さえ口にするのが困難で。
病室で紗妃と話してるときから、ずっと喉がカラカラで、張り付いちまってるようだった。
けど、なんて答えるべきかは決まっている。
大丈夫だなんて無責任な言葉、言えないし、言いたくない。
「——このまま行くと、そうなる」
俺の言葉を受けて、弾けたように愛姫が振り向いた。
そして、溜まったものを吐き出すように叫ぶ。
「なんで!? なんでお母さんが死んじゃうの!? だって、この前まで元気だったんだよ!! 最近じゃご飯だって一緒に食べることも増えて、今度はロリコンや秋人たちと一緒にバーベキューに行こうって……!」
それは疑問というより、現実に対する抗議だった。
悲痛な訴えだった。
けど、何も答えることが出来ず困るだけの俺の顔を見て、途中で勢いは失われた。
もしかしたら愛姫は、母親の様子から状況が深刻だと察していたのかも知れない。
だから、病院に向かうときもあんな張り詰めた様子で、今それが確信に変わってしまって……。
俯いた先の地面に、雨が降ったかのよう幾つも斑点を付ける。
俺を見上げたその顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
「なんで……? なんでなのロリコン? なんでお母さんが死んじゃうの……?」
絞り出した言葉は聞き取りづらいほど掠れていて、聞いてるこっちまで喉が締め付けられるようだった。
何かを懇願しているような、まるで許しを請うみたいな響きだった。
「だって、お母さん何も悪くないよ……? 一人で昼も夜も働いてて、いつも忙しそうだけど私といるときは優しくて、寝るときはギュッとしてくれて、ずっと頑張ってたんだよ? それなのに、おかしいよ、こんなの……」
そんなもん、俺だって分かってる。
あいつはすげえ奴だよ。
こんな目に遭うべきじゃないって分かってるよ。
けど……。
「俺は、あいつの病気を治してやることは出来ねぇ。なんとかしてやるだなんて簡単に言ってやれねえ」
「……っ」
愛姫の顔がことさらクシャりと歪む。
それは悲しみで、現実に対しての怒りで、理不尽に対する悔しさで、痛いくらい気持ちが分かった。
俺も同じ気持ちだったからだ。
「なんで!? なんで、なんで、なんで!! 分かんないよ……!!」
愛姫が叫びながら俺の胸を叩く。
ぶつける先がないから、きっと現実を告げた俺を叩く他ないんだろう。
けど、俺はただこのまま受け止め続けてやるわけにはいかなかった。
追いかけながら、どうするべきか考えていたから。
俺は、愛姫にとって残酷で、辛くて、耐え難いことを強いなければならない。
多分、そうすることがせめてもの……。
「なんでなの、ロリコン? なんで、なんでお母さんが!!」
現実を拒むよう、取り乱した愛姫が同じ言葉を繰り返す。
今にも壊れちまうんじゃないかって、不安になるほど声を荒げる。
けど俺は、涙で濡れたその頬を両手で勢いよく掴んだ。
「——笑え、クソガキ!」
俯いた顔を俺に向けさせ、無理やり視線を合わせて端的に告げる。
頭がおかしいことを言おうとしていた。
けど馬鹿な俺には、それ以外に思い浮かばなかった。
今やるべきことは、限られていて、けれど決まっている。
それは、いつかの自分を後悔させないことだ。
悲しむのは、今じゃなくていい。
泣き喚くより、意味のあることが出来る。今はまだ出来ることがあるんだ。
「歯ぁ食いしばれ! お前はあいつのことが好きなんだろうが!!」
こんな子供に無茶なことを言ってるのは分かってる。
酷なこと言ってんのは分かってる。
けど……
「こんな状況のお前を見たまま死んじまったら、あいつは自分の人生に後悔しか覚えられないだろうが!!」
そして、このまま悲愴と理不尽に飲まれたまま終わりを迎えたなら、残されたこいつはきっと一生戻ってこれない。
それを乗り越える方法は、いつだってたった一つしかない。
「俺は、奇跡を信じろなんて夢があることは言えねえよ! お前の母ちゃんが治るかもなんて言ってやれねぇし、治療法が見付かるかもなんて希望を持たせるようなことも言えねぇ!! けどな、お前が笑うことであいつは救われるんだよ!!」
出来ることはたった一つ、抗うことだ。
自分にはこれ以上はないってぐらい、やるだけやり抜いて、抗い続けることだ。
いつかの自分を褒められるように。
それがせめてもの救いになるように。
じゃないと、理不尽に流されたままだと、後悔と痛みしか残らない。
「お前が辛くて悲しくて、どうしようもないことなんて分かってんだよ!! それを押し殺せなんて、無茶苦茶きついこと言ってるのも分かってんだよ! それでもあいつが生きてる限り、お前は笑い続けてやれよ!!」
俺の剣幕に圧されてか、愛姫が呆気に取られた様子で俺を見詰める。
俺は一つトーンを落として、言い聞かせるように告げた。
「不安に押し潰されそうで、怖くて、苦しいのはお前の母親も一緒なんだ。……だから、そんなあいつを、少しでも助けてやってくれよ」
もしかしたら治るかも知れない。
どんなことだって、可能性はゼロなんかじゃない。
けど、奇跡を願って泣いてるだけじゃ、ただ祈ってるだけじゃ、それが起きなかったとき、何もしなかった自分を責めてしまう。人生を呪ってしまう。
「お前だって、出来ればもっと一緒にいたいし、あいつと笑い合っていたいだろ?」
愛姫が戸惑いながらも小さく顎を引く。
「だったら、俺がその時間を作ってやる」
「え……?」
あと二ヶ月であいつが死ぬ?
ふざけんな。
絶対認めねえ。
こいつらに短い時間を哀しみ合いながら過ごさせるなんて、俺が絶対にさせねえ。
「お前があいつの前で笑い続けるなら、俺はあいつが悪化しない方法を、治る方法を探し続けてやる」
俺は、そこそこに生きて、そこそこで死ぬのだと思っていた。
心底本気になれる人間じゃないと思っていた。
必死にやっていても、どこか振りで、出し切ってる気はしなくて。
けど、今はこの衝動が消えないことを信じている。
ここで本気になれなかったら、嘘だろ。
なんのために生きてんだよ。
「勝負だクソガキ!! 往生際悪く足掻き続けるぞ!!」
「ロリコン……」
「それとも、メソメソ泣きじゃくって、母親に心配させるだけでいいのか!」
「……っ!!」
「これから先ずっと、あいつに浮かない顔させるだけでいいのかよ!!」
ハッとしたような顔をすると、愛姫は強引に涙を袖で拭った。
そしていつもの調子で、気丈に言ってみせる。
「じょ、じょーとーよ! お母さんが安心出来るように、笑っていられるように、私はもう泣かないんだから!! だからあんたはさっきの約束を守んなさい!!」
「ハッ、言ったな? 途中で折れんじゃねぇぞ!!」
「こっちのセリフよ!」
もう泣かないと言いながら、愛姫は未だにボロボロと泣いていた。
俺に叩きつけた言葉も所々震えていた。
けれど、例え涙は止めれなくとも、その目には強い意思が宿っている気がした。
その健気な姿を見て、思わず奥歯に力が入る。
そうだよ。
こいつは優しくて、誰よりも紗妃が好きなんだよ。
俺の言葉に応えたこいつが、精一杯に強がる愛姫が誇らしくて、胸が熱くなる。
やってやる。
こんなガキがやるって言うなら、俺はその何倍もやらないと割に合わねえだろ。
言い出しっぺが子供に負けるわけにはいかねぇんだよ。
それから俺は、愛姫を家に送ったあと会社へと直行した。
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